ヴェーラ編第一部「歌姫は幻影と歌う」
#00-プロローグ
#00-0: アウフタクト
03.世界の頂点に居座る男
ミスティルテイン――。
ともかくも、プロセスはまた一つ進んだ。
自分の指先すら見えないような完全なる闇の中で、彼は呟いた。その途端、闇の中に彼の姿が照らし出される。彼は暗黒色のスーツを身に着けていたので、その手と顔だけが闇の中に浮かんでいるように見えた。外見的には十代後半、いっていても二十歳そこそこといったところだろう。闇の中に於いて一際輝いて見える銀髪と、鮮血のような真紅の瞳が、まるでこの世ならざる何かを連想させる。
そこにぼんやりとした銀色の何かが現れる。人型のようにも見えたし、炎のようにも見えた。それを敢えて一言で言うならば、
「全て――」
その銀の姿が言う。その声には掴み所がまるでなく、高いとも低いとも言えないが、とにかく女声だった。
「全てはあなたの
「そう」
彼は肯く。
「
「ふふふ、
銀の姿が笑う。
「ずいぶん、待ったものね」
「そうだね。あとはどの程度、あの子たちが運命の道順を守ってくれるか、だね」
「ふふ、残酷な人……」
「僕にティルヴィングを手渡した張本人がそれを言うのかい?」
彼は微笑を浮かべている。その
「今度の
「ふふ、僕は君との賭けに負けるつもりはないよ」
「あらあら……今まで一度とて、私との賭けに勝てた者はいないわよ」
その切り返しに、青年は変わらず微笑を浮かべている。
「ティルヴィングに
「それもそうね。悪魔と呼ばれたことの方が多いわ」
「ともかく――」
青年はツイと口角を上げた。
「僕はロキなんかになろうというわけじゃないんだ」
「知っているわ、ジョルジュ・ベルリオーズ。あなたの目論見は」
「ふふ――」
銀の姿の言葉を冷たい笑い声で掻き消す青年。
「君は全てを知っていると思っているようだけれど、果たしてその思い込みは正しいのかな?」
「あなたは、そうね、ファウストのようなもの。私にとって未知であろうが既知であろうが、私にとっては関心のないこと。ただ聞きたいだけよ、あの言葉を」
「悪魔よ、そなたは美しい――かい?」
青年――ベルリオーズは如何にも関心がなさそうに言う。銀の姿はこれ見よがしに揺らめいた。ベルリオーズは目を細めて、闇に浮かぶ銀の炎に囁いた。
「
「ふふふ、そうと言うのなら、そうなんでしょうね」
挑発的な声音で返す銀の揺らめき。ベルリオーズはそれを一笑に付す。
「事の真偽はともかくとして、僕はね、関心があるんだ」
「関心?」
「そう。関心さ。この複素数の世界に対して、僕は大いに関心があるのさ」
ベルリオーズはそう言い、銀の炎は一度大きく揺れて、掻き消えた。
「さて」
その気配が完全に消えたのを確認してから、ベルリオーズは一度目を伏せた。そしてぼそりと口にした。
「バルムンク
その呟きと同時に、闇の世界に光が生まれ、そして世界は完全に光に飲み込まれた。純白の世界の中に、黒ずくめのベルリオーズが一人、浮かんでいる。風もないのに、見事な銀髪が揺らいでいる。
この純白の空間は、ベルリオーズが開発したシステム『ジークフリート』によって生成されている。世界のシステムは、その全てが今やジークフリートの支配下にあり、あらゆる被造物はジークフリートからの干渉を受けていると言っても過言ではない。それはつまり、この惑星の全てのシステムは、ベルリオーズの支配下にあるということを示している。
「ふぅん、さすがは世界樹だ」
ベルリオーズは飛び交う数式を捕まえては目を細める。
あの銀の悪魔によって与えられた『ティルヴィング』を
人々は当初こそ危機感と警戒感を持ちはしたものの、完璧な安定性と堅牢性が次々と実証されていくにつれ、そしてまた導入の容易さに触発され、気が付けばほぼすべてのシステムが、ジークフリートの関与を受けることとなった。残されたのはごく少数のスタンドアローンタイプのシステムくらいだった。
そんな驚くべきシステムを、このジョルジュ・ベルリオーズは西暦二〇七〇年、若干十六歳の若さで世に出した。ジークフリートが世界を覆いつくすのに要したのは僅かに三年に過ぎず、その間にベルリオーズは巨万の富を手にした。それから十年が経過した今、彼は個人でありながら国家レベルの力を有するようになっている。何より、ベルリオーズを頂点とした
世界規模のパワーシフトを起こす力を持つベルリオーズは、しかし、未だに表立った行動を起こしてはいなかったし、起こす気もなかった。ベルリオーズは表向きは、天才技術者であると同時に実業家であり、そしてまた慈善活動家であった。
「オーシュ」
ベルリオーズがそう一言口にすると、その目の前に三つの球体のような多面体が現れた。白金色、灰色、そして黒。それぞれの球体はそんな色に輝いていた。
「
誰が名を付けたわけでもないのに、それはシステムとしてその名を持っていた。それは現実相とは違う世界――つまり、論理相――からエネルギーを引き出すことのできるシステムである。人々は従来、現実相と呼び得る「現実世界」の中でしか、エネルギーをやりくりできなかった。だが、ティルヴィングが与えられ、ジークフリートが生成され、そして、オーシュが構築され、その常識は打ち破られた。
「もうすぐだ。もうすぐ、君たちの世界が――刹那の世界が、始まる」
ベルリオーズは左目を一際赤く輝かせながら、その球状の多面体たちに向かって囁きかけた。