これは「#08-06: Love all, trust a few, do wrong to none.」に対応するコメンタリーです。
ちなみにこの↑「Love all, trust a few, do wrong to none.」は、シェイクスピアの「終わりよければ全て良し(All’s Well That Ends Well)」に出てくるフレーズです。
そして戦闘という名前の殺戮劇が始まるわけです。エディタ率いるV級たちは、修羅の如き戦いぶりでイザベラ以外のすべての戦力を粉砕します。その中にはエディタの同期でもあるクララやテレサもいました。その親友たちを殺さざるを得なかったエディタの心中たるや……。
一瞬とて苦しませてはならない
エディタにできたのはこう命ずることと、持てる全ての力を二人にぶつける事だけでした。最後の随伴艦が沈み、孤独に佇むのは最後の戦艦、セイレーンEM-AZ。
エディタは軍の命令に従うマシーンとなり、ひとり残らず殺せと命じます。が、レオンが抗います。
『そこまでしなくても! もう、戦闘能力がある艦はありません!』
『沈めろと言っている!』
『イヤです!』
真っ向から拒否するレオン。軍としてどうなんだというのはあるかもしれませんが、この戦いは軍としてではなく、歌姫たちの人としての戦いですし、イザベラもまたそうであることを望んでいたのです。
レオンとエディタの衝突は続きます。
『私たちの両手は、もうすでに救いようもないくらいに真っ赤じゃないですか、レスコ中佐! なのに、なぜ!』
『マリオンとアルマに対する、全ての脅威を取り除く。それが私たちの仕事だ』
『もう誰も戦えない! もはや誰もマリーたちの脅威にはなりえません!』
『推測で物を語るな、レオナ!』
指揮官として、軍人として正しいのは明らかにエディタ。レオンはそうだと知っているから、自分の言葉を叩きつけているんですね、これ。ある意味、ヴェーラとレベッカの関係ととても似ているわけです。
しかし、そのやり取りすら、マリオンには空虚に響きます。
「やめましょう。レスコ中佐も、レオンも、もういい」
『マリー……?』
レオンの掠れた声が聞こえてくる。
「ヴェーラ……もう、いいでしょう?」
『……そうだね』
イザベラ――ヴェーラは肯定します。
『哀しみは、もう、十分だろうか』
「もう、十分! もう、要らない!」
ヴェーラもその終着点を探していたのかもしれませんね。そして彼女は決断します。
『各艦、および旗艦。総員退艦!』
フィフス・アクトというのは「終幕」という意味です。最後までイザベラは、ヴェーラは、自分たちが活躍させられた十数年を「舞台」と表現したということですね。
それを聞いて、エディタもまた一つの決断をします。
『エディタより、全艦へ告ぐ。今から下す指示は、全て私の独断だ。参謀部からの正規の命令ではない!』
その強い口調に、私は緊張する。エディタは全ての感情を殺していた。深すぎる傷に、痛みに、耐えているのだろうか。
エディタだって血の涙を流しているんです。親友たちをすべて失ってしまったわけですから。しかもそのうちの二人は自らの手で命を奪わなければならなかったのだし。だけど、彼女は「指揮官」であろうとした。……のだけども、それを貫き通せなくなるほどの激情に動かされたのです。
『敵性勢力は戦闘を放棄したとみなし、我々はただちに敵艦乗員の救助を行う。命令上は殲滅とあるが、私は……これ以上の流血を良しとしない。これは指示であり、命令に非ず。私に続くも続かぬも、各艦責任者の意志に任せる。私に続く者は、ただちにイザベラ艦隊の生存者の捕縛を開始せよ。一人でも多く、捕らえよ』
「反乱軍」ではなく「イザベラ艦隊」と呼んでいるところにエディタの矜持のようなものを感じる所です。「各艦責任者に任せる」ではなく「各艦責任者の意志に任せる」と言っているところもまた、エディタらしいかなと。
そして「一人でも多く捕らえよ」と言ってますが、要は「手当たりしだいに助けろ」と言っています。名目上「助けろ」とは言えない。だからあくまで捕縛目的で海上から引き上げろというわけです。これはエディタの保身のためではなくて、部下たちを守るための方便ですね。
『マリー、アルマ、これはお前たちのためじゃない。あくまで、私の独断専行だ。いや、専恣になるかもしれない。それに――』
専恣というのは、独断で何かした挙げ句に軍・組織に不利益を与える行為を指します。当然ながら軍法会議モノです。エディタにはそれだけの覚悟があったというわけです。
しかし、ヴェーラはセイレーンEM-AZから降りません。
セイレーンEM-AZ、戦うだけならヴェーラ一人でどうにでもなるんですね、これが。まさにラスボスに相応しい。
エディタは「自分たちが残れば戦いは終わるか」と問います。訊かずにいられなかったんですね。そしてその心情はヴェーラも理解していて、だからこそ「そんなことしたら犬死にするだろう」と明快な答えを返しています。
イザベラはマリオンとアルマとの「対話」を望んでいたのです。もっとも、それは命を賭けた、賭けざるを得ない対話なわけで。
エディタのアルデバランに率いられて、マリオンとアルマを残して皆戦場を去ります。「マリオンとアルマに未来を託した」というわけですね。それを成就するためには、自分たちはそこにいてはいけないという気持ちもあったんでしょう。
ただ、みんなが舞台から離れるのを、三人でじっと待った。
マリオンはこう表現していますが、この数分、数十分という時間は、とてつもなく長かったはず。
そしてヴェーラの口から明かされる「マリオンとアルマはD級歌姫である」という事実。これ、相当初期の頃(#04-03)にアルマが「そうじゃね?」と疑問を口にしているところなんですが。
ならばなぜ二人はその一個下のS級歌姫だと言われていたのか。それは政治の都合だったと。今日のこの日のためだったと言われるわけです。国民が危機感を覚えるようにという配慮からだったということです。その計画は、マリオンたちとの初めての出会いの日(#01-03)から始まっていたのだと。そしてマリオンたちが士官学校に入ることが決まったときに、完全に決定事項になったという。マリオンの理解をヴェーラは肯定します。
その事実に愕然とするマリオンに、ヴェーラは囁きます。
『笑える話かもしれないけど、わたしはね、本気で万人の幸福を、戦争のない世界を願ったんだ。この永遠のような冬の果てには、必ず常春が来ると思っていた。冬来たりなば、春遠からじ――西風に寄せてそう思いながら、わたしは、いや、わたしたちは耐えた。耐え続けた。ペル・アスペラ・アド・アストラ――艱難の果ての希望を求めて、ただ耐えた。わたしはね、ひとりひとり、みんなを愛した。みんなを信じた。だけど、結局は、こうして悪を為さざるを得なくなった』
冬来たりなば、春遠からじ。#03-04からしばらくぶりに再び出てきましたね。そしてPer Aspera, Ad Astra.意味はヴェーラが語るとおりです。そして最後に出てくるのは、「終わりよければ全て良し」の一節を少し改変したものです。
ここでは
ひとりひとり、みんなを愛した。みんなを信じた。だけど、結局は、こうして悪を為さざるを得なくなった
と言っていますが、もとは「すべてを愛し、少なきを信じ、なんぴとにも悪を為すなかれ」なんですね。「すべてを(良かれと思って)信じてしまったから、結果として今があるんだ」という自虐であり、同時に「信じることが悪を呼ぶこの社会」への警鐘であり悲嘆であり。
普通ならそのヴェーラの言葉を受けて「悪なんかじゃない」とか言うところと思うんですが、マリオンはそう言えなかった。口先で誤魔化すことはできなかったし、善悪を論じられるほど強くも正しくもないと自覚していた。マリオンは「自分」の「分」を理解しているわけですね。だから、イザベラのその述懐に対して、沈黙するしかなかった。
『わたしは、そう、イザベラはね、ヴェーラとは何一つ違わないんだ。ただ、美しい顔で、彼らの望む歌を囀るのをやめただけ。彼らにとって耳あたりの良い、都合の良い言葉を連ねるのをやめただけ。優しく聞こえるだけの言葉を棄て、そして、ありとあらゆる情けを棄てた。見てみるといい。振り返るといい。わたしはただ、イザベラの仮面を被っただけだったのに、彼らはヴェーラ・グリエールの死を悼み、わたしの登壇に恐怖した。違うかい?』
素顔を失ったことで、その本質を語れるようになったと。そしてこの舞台は自分たちが作ったのだと。作らざるを得なかったのだと、ヴェーラは言うのですね。
なおも止めようと叫ぶアルマたちに、ヴェーラは言います。
『わたしはもう、戻れない。帰る場所もない。そしてそれは、きみたちにもそんな場所は作れない。マリアにしても然り。それに、わたしはそんな生半可な覚悟で、ベッキーを……殺したわけじゃない』
血を吐くような言葉というのはこのことで。
「だとしても! 私はあなたを殺したくない!」
私たちがD級だというなら、ヴェーラには勝ち目はない。私たちの制海掃討駆逐艦は戦艦すらをも超える性能を持っている。
「私は、大好きなあなたと戦いたくなんてない。ヴェーラ・グリエール。私は――」
もう確定してしまっている未来に、マリオンたちは必死に抗うのです。しかし、ヴェーラは冷静でした。
『それ以上何を言っても無駄なんだ、マリー。今、彼らはきみたちを見ている。きみたちがわたしに勝てるかどうか、息を潜めて見ている。自らの上に落ちかかりつつある、わたしの手にするこの剣に、彼らはようやく気がついた。だから、きみたちに縋って祈っている。まったく、わたしとベッキーが味わってきた十数年はさ、いったいぜんたい何だったんだろうね』
この一連のセリフに、ヴェーラの絶望とか虚脱とか哀惜とかそういうものが全部入ってるんじゃないかな。「いったいぜんたい何だったんだろうね」と。
ヴェーラは事ここに至って、その悲しみをすべて吐き出します。
『彼らは自分たちを観客だと信じていた。遅すぎたんだ、自分たちもまた演者だと気付くのが。そしてわたしたちもまた、遅すぎた。次の世代にこの苦しみを遺してはいけない――そう信じていたのに、わたしたちはきみたちと出会ってしまった。あの時、わたしたちはきみたちによる未来に少なからずの希望を見出して、迷ってしまった。だから、こんなに遅くなってしまった。
きみたちには本当に……すまないと思っている。わたしをどんなに恨んでも憎んでもいい。きみたちには、わたしを責める権利がある。だって、わたしは……きみたちに、こんなに酷く惨めな時代しか遺してあげられない、から』
これはレベッカの思いの代弁でもあります。そして遺言ですね。
戦艦から響く歌、セルフィシュ・スタンド――わがままな戦い。そのあまりに優しい歌声に、マリオンは言葉を失います。アルマが叫びます。
『あなたの理想も、言いたいことも、したかったことも、わかります。あたしはわかってるんだよって、言います。でも、あなたが言葉を棄てて、剣を抜いたことを、あたしは認めることはできません。だって、剣の力では、誰もがただただ怖がって、言うことを聞くだけだから……! それじゃ、何も良くならない! 違いますか!』
アルマはかつてレニーに言っていますね。
言葉を棄てちゃダメだよ、レニー
アルマは「言葉」を大切にしてきているんです。だから、それを飛び越えて「剣」を抜いたことは認められないと。そんなことでは、仮に言うことを聞く人はいたとしても、そんなものは一時的なものでしか無いんだと。
確かにアルマの言うことは正しいんです。でも、それはイザベラ、いや、ヴェーラにしてみればとっくにわかりきっていたことで。そのうえで、ヴェーラは、否、ヴェーラたちは剣を抜いて振り上げたんです。
『では、アルマ。きみは、なぜ泣くんだい?』
ヴェーラは静かに優しく尋ねます。そして、訥々と語ります。
『理解しているからだろう? きみの言葉がただの幻想の中のものに過ぎないということをね。そうだ、そうなんだよ、言葉なんかじゃね、平和というものは実現できないんだ。それはね、残念ながらこの世界がすでに証明してしまっているんだ。言葉では、戦争は終わらない。どんなに深い愛をもってしても、人は理解しあえないんだ。なぜなら、そこにはまた、それぞれの愛があるから』
ここは書くかどうか正直迷ったセリフなんです。だって、このフレーズが言うのって、平和への「祈り」の虚しさじゃないですか。それも、その平和の実現を妨げるのは「愛」なんだって。途轍もなく救いがない、あまりにも救いがない。そしてそのセリフをヴェーラに言わせて良いものか、コレは悩みました。でも、他に誰がコレを言えるかと言うと、誰もいない。だからここは思い切ってヴェーラに言ってもらった。アルマの「言葉を棄てちゃダメだよ」というセリフが出てきたときにこの部分は誰かしらが言う必要があったというのもあり。
平和を! 平和を! 戦争のない世界を! そうシュプレヒコールをあげるだけで平和が来るなら誰も苦労しない。そんなのはただの自己満足、「平和を求めてます私アピール」に過ぎないと。ヴェーラはドライな視点で見て感じていたわけです。
『犠牲が必要だった。いついかなる時代にも、ほんの一時の平和を得るために、平和というやつは、いつだって犠牲を必要とした。誰かが犠牲になるか、誰かを犠牲にするか……という具合にね。いいかい、この世の平和なんていう戯言はね、そんな風にしてようやく実現されてきたんだ。
考えてみて。
世界中の人々は今もなお、憎しみや差別、あるいは利権、時には政治、そんなものに突き動かされて殺し合っている。今だけじゃない、過去も、未来も。世界が本当の意味で平和になったなんてことがあったと思う? 誰かにあらぬ罪を着せることなく、誰にも理不尽な哀しみを背負わせることもなく、別離の涙を流させることもなく、苦しみを共にし、喜びを共にする――そんな時代があったなんて、思えるかい?』
「平和というやつは、いつだって犠牲を必要とした」というフレーズはパワーフレーズだと思ってます。私が書いたんですけど。ヴェーラは「平和」を「戯言」と断じています。「平和」とうそぶかれるものの裏にあるもの、その実現のために犠牲になったもの、そういうものが「必要な犠牲だった」「尊い犠牲だった」「やむをえなかった」「仕方なかった」「不幸だった」、そんな過去形でひとくくりにされて語られてしまう、そんな時代が「平和」なんだと。当事者以外がのうのうと「真実」を騙る。そんなものを「平和だよかったね!」なんて言えるはずがない、ましてその「平和」を守るために今まさに犠牲になっている人がいるのだとしたら、なおのことと。2084年の士官学校襲撃事件以後、14、5年に渡って平和(らしきもの)を味わったことのないヴェーラですから、なおこの言葉は重いんじゃないかな。
「でも、そんな、そんなのっ……!」
私の口は戯言しか吐き出せない。私たちの空間――セイレネスで作られたこの不思議な感触は、ただひたすらに渺漠な沈黙を垂れ流す。
その濡れた砂のような静寂を打ち払ったのはアルマだった。
この辺、大げさな言い回しが多いんですが、計算のうちです。そしてアルマは言う。
『だからって、あなたみたいに力を振るっていたんじゃ、あたしたちの歌は、いつまでたっても、ただの暴力装置じゃないか!』
暴力装置――多くを語りませんが、ある政治家が自衛隊を「暴力装置」と言ったことがありました。理由はどうあれ、自衛隊をして「暴力装置」と呼ぶそのリテラシーが私には理解できなかった。そういうのも含めていますよ。
続いてマリオンは言います。
歌は命のためにある、と。
しかし、ヴェーラは一言「きれいごと」と切って捨てます。マリオン完敗です。
そしてヴェーラは恐ろしい未来を予言します。
『わたしたちはね、圧倒的にクリーンで、しかも依存性という政治的にはとっても都合の良い付加価値まで備えた戦略兵器だよ。アーシュオンは生首歌姫の量産に乗り出したし、その技術は数ヶ月とかそんな程度のスピードで他国に渡るだろう。
ヤーグベルテが君たちの首を切り落とし、あのゲテモノにしないとも限らない。そのあたりにいる女の子の首を切り落とし、捨て駒として配備する日が絶対に来ないと思っているだなんて、わたしは言わせない。
戦争が、決してなくなるものではないのだとわたしは知ってしまった。歌姫計画があろうがなかろうが、わたしたちの輪舞曲は終わらない。むしろこれから、伴奏はより激しくなるだろう。
だから!
考えろ!
その切っ先を誰に向けるのか。その歌声で何を歌うのか。きみたちは兵器なのか、はたまた人なのか。このままで良いのか、それとも、良いとは思わないのか』
首を切り落とし、捨て駒として配置――。学徒動員なんかを考えてもらえれば。徴兵されたと思ったら「航空機で体当たりの練習」。徴兵されたと思ったら、「爆弾抱えて戦車の下に潜り込む練習」をさせられた若い人たちがかつていたわけです。何も変わんないですよね。生首歌姫作るのと。生きようが死のうがどうでもいい。敵を殺せればいい。そういう世界ですし、戦場に行かない人たちにしてみれば「自分たちがより安全になるなら必要な犠牲だ」ということになるわけです。「拒むならお前がやれ」と言われて抵抗できる人はそうそういないでしょうし、そういう同調圧力に抵抗しきれる人はそんなにいない。
そして最後の「このままで良いのか、それとも、良いとは思わないのか」は、何度も出てくるハムレット、「To be, or not to be.」の直訳みたいなものです。
そこまで言われても、アルマは引き下がらなかった。
『あたしたちは、諦めない。決して、諦めない。言葉は棄てない。あたしたちはD級歌姫。あなたたちにできなかったことを、あたしたちは実現する』
強いなぁ、強いよアルマ。そしてヴェーラはそれに一定の満足を得るわけです。
『明日、そしてその明日、さらに続く明日へと、時はゆらりと日々を歩み、ついには最期の一言に辿り着いた、というわけか』
これはマクベスです。もちろんシェイクスピア。以前出てきた「消えよ、消えよ、刹那の灯火」の直前の部分。原文はこれ。
To-morrow, and to-morrow, and to-morrow,
マクベス
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death.
ヴェーラは「すべての愚かな人たちの犠牲の末にやっとここにたどり着いたね」というのですが、マリオンはそれを否定します。
まだ犠牲は終わっていない。けど、私は彼らを守る――たとえどんなに愚かな人たちであっても。というように。彼らの死を照らしたいわけじゃないのだと。
ヴェーラは「それはわたしの役目だ」と言うのです。
マリオンたちの意識が介入したのか、否か。
セイレーンEM-AZがその雷霆を放つ前に、アキレウスとパトロクロスが、最後の戦艦にとどめを刺すのです……。