全くの闇の中に、黒いスーツを身に着けた男が一人、浮かんでいる。システム・バルムンクによって生成された暗黒の空間は、ジョルジュ・ベルリオーズにとっては唯一の安息の領域と言っても良かった。その整った白い顔には、仄かに笑みが貼り付けられている。
「君にとっては無数の試行錯誤の結果に過ぎないかもしれないけど」
ベルリオーズはその表情のまま、そう呟く。暗黒の空間はその声の反響すら許さない。銀髪をなでつけながら、ベルリオーズは微笑する。
「僕の望みは支配することなんかじゃない。この世界を支配したって良いことなんて何もないさ」
その左目が赤く輝く。
「そもそも支配と被支配は同義さ。結局は共依存のようなものだしね。結局はただの言葉遊びの様なものにすぎない。僕はそんなくだらないことの渦中に身を置かされるのだけは勘弁願いたいものさ」
彼はなおも何か言い募る声を訊き、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「僕は支配者なんかじゃない。まして魔王でもない。ただの実業家さ」
その発言の直後、彼の目前の闇が銀色に燃え上がった。炎の内側には、蠱惑的とも言える女性の姿があった。銀の女性は、その赤茶色の瞳で挑発的にベルリオーズを見る。ベルリオーズは目を細めただけだ。
『それこそ、言葉遊びなのではなくて?』
「支配者になろうとは思わない。それは事実さ。だけどね、僕は大衆と呼ばれる低俗な群生意識の存在には本当にうんざりしているんだ」
『そしてティルヴィングに見初められたあなたには、それをどうにかする力があるのよ。あなたは王。この人間世界の王よ?』
「気に食わないから滅ぼしてしまえ。そんな横暴な権力者であろうとは思わないさ、僕は」
『ならばその力をいかがするのですか?』
「そうだねぇ、メフィストフェレス」
ベルリオーズは銀をそう呼んだ。銀は唇を大きく歪めてみせる。
「僕は愉しみたいんだ。多くの塵芥のような人間たちと同じく、この人生をね。そして僕は彼ら塵芥のような人間たちの、無力由来の復讐心を見ているのがたまらなく好きなんだ。滑稽で、虫唾の走るあの精神性を高みから睥睨し、足蹴にし、時として無慈悲に擦り潰すのが。彼らの虚勢と虚栄心が一方的に瓦解させられていく、その時の彼らの絶望的な表情を見るのがね、僕にはなにものにも代え難い愉悦なんだよ」
『悪趣味だこと!』
銀は笑いながら言った。ベルリオーズは一段と左目を輝かせながらゆっくりと腕を組んだ。
「人間は誰であろうとね、僕のこの位置に立ってしまうとこうなるものだろうよ。僕は人間が嫌いじゃない。この饐えた臭いの愚かな精神性の集団は嫌いじゃない。だから僕は導くしかないのさ。彼らが滅ばないように。僕の愉しみがなくならないように、ね」
『導く先は神々の黄昏なのではなくて?』
「僕はロキなんかにはなりたくないって。前も言っただろう?」
『ならば救世を解く? かの、イエス・キリストのように?』
「僕は彼らの低きには降りるつもりはないさ。自ら底なし沼に降り立とうとは思わない」
『それなら、どうやって導くの?』
「力への意思、さ」
ベルリオーズはクククと笑う。銀も微笑する。
「彼らの世界は赤と黒しかない。その彼らの乏しい概念、乏しい語彙を前にして、僕は彼らに銀や金を説明しなくちゃいけない。難儀な話だけど、結局のところ僕の示すものたちによって、彼らは銀や金を知ることになるだろう」
『歌姫たちを用いて?』
「肯定だよ、メフィストフェレス……いや、アトラク=ナクア」
別の呼び名――より本性に近い呼び名をされた銀は、その炎をかき消して輝くばかりに美しい裸身を顕わにした。
「アトラク=ナクア。人は原初に還るべきなんだ。そしてまたそこからやり直すべきなんだよ。その精神性をね。全ての人間の精神の基底にあるものは、何だと思う?」
『虚無ね』
「そう、虚無だ」
ベルリオーズは頷く。
「人間は本来虚無であるべきだ。抽象クラスと言ってもいい。今のこのごちゃごちゃとメソッドを詰め込んだ状況は、人間のポテンシャルには重すぎる。だから僕は歌姫たちの歌声で、人間を最初に戻す」
『この世界は色即是空だと?』
「ゆえの、空即是色だ。僕はその唯一の審判者だ。そして僕は――」
『その能力でティルヴィングの枷を破壊する、と』
「そうだ」
ベルリオーズはまた笑う。
「僕の作り出した娘たちによって、君たち悪魔の世界は終わるだろう」
『できるかしら?』
白金、灰色、そして黒。三人の少女の姿が彼らの前に浮かんでいる。
『この子たちが私たちを出し抜ける、と』
「どうだろうね」
ベルリオーズはわざとらしく首を傾げる。
「それは僕にもわかりはしない。願わくば、神も悪魔も不在の世界を」
『ふふふ……私たちと対立する未来。人間もついにそこまで来たのね』
「世界はどういう答えを求めるのか。それは僕にも、君にも、わからない」
『面白いわ』
哄笑とともに、アトラク=ナクアは言う。
『なればこの娯楽、私も存分に楽しませてもらうわ。演者としても、ね』
「ご自由に。君とてこの宇宙は変えられないのさ。創ることが出来たとしても、ね」
『それは真理ね。でも気に入らなかったら消すこともわけのないこと』
「君の好奇心は、そのスイッチを押すときの抑止力になるさ」
『あははは! そうね、その通りだわ』
アトラク=ナクアはそう言うと不意に姿を消した。
世界が再び闇に落ちる。
「それじゃ、始めようか。歌姫たちの舞台の、第二幕をね」
ベルリオーズは淡々とそう告げた。
ベルリオーズの姿が消え、世界は晦冥の色に完全に塗り潰された。