01-1-1:眩暈

歌姫は壮烈に舞う

 

 西暦二〇八四年五月――桜がそろそろ咲き揃う季節だ。高緯度帯にあるヤーグベルテの統合首都の春は遅い。

 あの士官学校襲撃事件から三ヶ月。その凄惨さ、悲惨さは、たしかにメディアを賑わせた。しかし、それはほんの一時だった。それに先んじて行われたアーシュオンによる超大規模空襲――通称八都市空襲――の被害と恐怖があまりにも強すぎて、人々の心はほとんど完全に麻痺していたのだ。士官学校というピンポイントで起こった事件と違い、八都市空襲は紛れもなく無差別に行われたものであり、自分が標的になるかもしれないという恐怖心を誰もに抱かせたからだ。何しろヤーグベルテには、未だにあのアーシュオンの新兵器による攻撃を防ぐ手立てがないのだ。やられたら、狙われたら、終わり――人々はまさにその一点に於いて恐怖していた。

 それにしても、それなのに、なぜ人々はこうも危機感がないのだろう。

 恐怖しているのは事実なのに、どうしてこうも他人事ひとごとの顔をしていられるのだろう。自分は大丈夫、自分のところに敵は来ない。彼らは無意識にそう信じているかのようだ。

 カティは眩暈めまいすら覚えながら、足を進めていく。人間たちによって、広い歩道は著しく過密だった。半径一メートルの隙間すらない。人々はなぜかある程度規則的に、右と左に分かれて歩いている。車道を行く自動運転オートマ車両もまた、規則正しく移動を続けていた。そしてそれを続けている限り、人は誰ともぶつからないことを知っている。

 しかしそれはその現状に疑問を持ってはいけないということの裏返しでもあった。余所見よそみをすれば前からくる人にぶつかるだろうし、立ち止まればたちどころに後ろを歩いていた人間が背中に衝突するに違いない。誰もが暗黙のルールに従い、そして誰もが周囲に嫌というほど気を配って生きている。カティはこの張り詰めた、そしてそれでいて他人事感のあふれる空気が苦手だった。

 ――そしてそんな自分がもっと苦手だった。

「どうしたの、カティ」

 カティの右腕をしっかりと抱えている少女が尋ねる。白金髪プラチナブロンドの髪を風に遊ばせながら、少女はその空色の瞳でカティを見上げている。純白の春用コートが陽光を反射して輝いて見えた。少女は爪先立ちになって、カティに尋ねる。

「つかれた?」
「……少し」
「そう」

 少女はうなずく。しかし歩みを止めることはなかった。が、少しだけカティの腕を強く抱えた。

 アタシたちは赤信号に遭遇するまで止まれない――そんなことを考えた瞬間、カティの腕が強く引っ張られた。

「見て! 子犬だ!」

 白金髪プラチナブロンドの少女が声を上げる。大きなガラスの向こうに、何頭かの子犬がいて窓の外を見つめていた。

「動物保護団体? こんな店あったっけ」

 引っ張られるままにガラスのところにたどり着いたカティは、ようやくそこで足を止めた。そこにはすでに先客がいて、おかげで人々の波はそのポイントを避けていたからだ。

「ちょっと、ヴェーラ。急に止まらないでよ」

 タイミングよく後ろを振り返った眼鏡の少女が口を尖らせる。桜色のコートを着た、灰色の髪の少女だ。彼女は白金髪プラチナブロンドの少女――ヴェーラがそうすることを知っていたかのようだ。

「だってほら、かわいいじゃない。かわいいを見たら立ち止まる。人の業というやつよのぅ」

 おどけてヴェーラが言うが、カティは笑わなかった。そんなカティを見上げ、ヴェーラと眼鏡の少女――レベッカが同時に小さく息を吐いた。

「カティ、元気出してなんて言えないけど」

 ヴェーラは言う。カティは申し訳なく思い、ビルに切り取られた狭い空を見上げる。

「とりあえずお腹はすくよね?」
「お、お腹?」

 予想外のボールにカティは思わずヴェーラを見た。ヴェーラは「へへ……」と笑い、自分の携帯端末モバイルを取り出した。それを見てレベッカが「やれやれ」と首を振る。

「今日さぁ、お得意様キャンペーンのコードが送られてきたんだよ。割引なんてどうでもいいんだけど、出かける直前に来たから、これは天命だぞって」
「ヴェーラ、ピザにするつもり? バイキングの予定だったじゃない」
「ごめんごめん。あ、カティが嫌ならバイキングにするよ」
「私の意見はないの?」

 抗議するレベッカの唇に、ヴェーラは人差し指を押し当てた。

「きみはいつだって、わたしがしてほしいことをしてくれる。だから聞くまでもない」
「ぼ、暴論よ、それ」
「じゃぁ、ピザは絶対だめ? 死んでもだめ?」
「そこまで大袈裟な話にしなくても……」
「だめじゃないよね?」
「え、ええ。そこまでダメじゃないけど」
「じゃオッケーってことだね。ありがと、ベッキー」
「えっと、いや、あのね、ヴェーラ」
「それ以上言うなら、公衆の面前でキスするよ。長いやつ」
「ちょっ、な、何言ってるのよ」
「したくないの?」
「人前でするものじゃないし……」
「じゃぁ、二人っきりの時ならいいってことだね!」

 そう言って笑うヴェーラと、頬を染めるレベッカである。カティはそこでようやく少しだけ表情を緩め、ヴェーラが素早くそれを認める。

「焦らずゆっくり。わたしたちがいるからね、カティ」

 ヴェーラはそう言うと、またカティの手を引いて歩き始める。絶対に離すものかという執念があるようにも思えた。

「じゃ、いざゆかん、ピザ屋さん。カティも疲れてるだろうから、休憩にもちょうどいい。ピザは偉大だねぇ」
「……?」

 カティは難しい顔をしながらついていく。

 しかしその表情とは裏腹に、カティの心にかかったもやは少し晴れてきていた。

「ありがとうな、ふたりとも」
「カティのためなら何だってする」

 ヴェーラは振り返らずにそう呟いた。前を行くレベッカは無言だった。

「カティ、もしかしてお腹すいてない?」
「あ、ど、どうだろうな」

 あれ以来、食欲なんてまるでない。退院してから一ヶ月が経過したが、カティは最低限の食事しかしていなかった。食べること、ひいては生きることへの罪悪感が拭えなかったからだ。

「ま、美味しいピザの匂いを嗅いだら、頑固なその食欲中枢の門番もうっかり居眠りするよ」
「そうですよ、カティ。人間、お腹がいっぱいならそれだけで少し幸せになるんです」

 レベッカが少し振り返って言う。人の波がだんだんとまばらになってきていた。町外れ方面に向かっているからだ。カティはようやく一息つく。

「幸せなんて感じる権利があるんだろうか」
「カティ、あのねぇ」

 ヴェーラがカティの腕を自分の胸に押し付ける。

「権利とか義務の話なんてしてないよ。お腹いっぱいになったりお風呂で温まったり気兼ねなく二度寝ができたり。そういう時に感じるものが幸せなの。今のカティはそれに気付けなくなってるだけ。幸せって、そこら中に転がってるんだよ。気付くか、気付かないか。それだけなんだ」
「でも、アタシ」
「わたしたちとデートするのは楽しくない? 気分は少しは晴れたりしない?」
「……楽しくないわけじゃない、けど」
「カティ、あのね」
 
 ヴェーラはそう言うとカティの身体を強く抱きしめた。目を丸くするカティに、ヴェーラがモゴモゴと言う。

「焦んなくていいから。でも知っておいて。わたしたちはどんなときでもカティのそばにいる。どんなときでも味方だし。何があったって、わたしたちにとってカティは大好きで大事な人なんだよ」
「そうですよ、カティ。さしあたり、小さな幸せのためにお店に入りましょ」
「ピザの幸福度は大きいよ、ベッキー」
「あのね、ヴェーラ。そういうものには個人差があるの」

 二人の美少女が連れ立ってピザレストランに入っていく。カティは後ろをついてきている護衛、ジョンソン伍長とタガート兵長の気配を確かめてから、二人を追った。

 幸せに、か。

 カティは迷っている。ヨーン、そしてエレナのためにも、幸せにならなくちゃならない。そう思ってはいる。しかし、二度と笑えない二人を差し置いて、自分だけ幸せになって良いものかという思いもある。

「こっちだよ、カティ」

 さっそく席についていたヴェーラがカティを呼ぶ。その空色の瞳がカティをまっすぐに貫いている。

 ――わたしのために、幸せになって欲しいんだ。

 ヴェーラの声が、聞こえた気がした。

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