地下深くにある駐車場でヴァルターを出迎えたのは、クルマ素人のヴァルターにでもわかるほどの高級車だった。艶のある黒色をベースに、マットな赤がアクセントカラーとして配置されているカムテールだ。相当なクルママニアしか手を出さないと言われるタイプの趣味車とも評されたことのある車種だ。
シルビアは助手席のドアを上方にスライド展開させ、ヴァルターを促した。
「こりゃコックピットかい」
ヴァルターは思わず口にする。内装はおよそ乗用車のものではなく、さながらハンドルがついている戦闘機のコックピットだった。
いったいどれほどの金を注ぎ込んだらこうなるんだ?
ヴァルターはそんなことを思ったが、口には出さなかった。この話題を引っ張られても、クルマに興味のないヴァルターにはそれなりに苦痛だったからだ。
そんなヴァルターの心境はお見通しとばかりにシルビアは微笑む。
「シートベルト、締めてくださいね、一応」
「一応?」
「どのみち命の保証はできないということです、万が一の場合」
シルビアらしからぬ少し弾んだ声で言われ、ヴァルターは思わず腕を組む。シルビアは車載の音楽プレイヤーを起動し、フロントガラスにプレイリストを表示させる。
「隊長の音楽の趣味は?」
「流行りものにはあんまり」
「そうですか」
答えながら、シルビアは何度か左手を動かして、曲目を決定した。すぐに前後左右のスピーカーから、不定形で喧しいサウンドが流れ始める。
「すごく古い曲ですが。当時はプログレなんて呼ばれていたそうです」
「俺も知ってる、これ。クラシカルなのが好きなのか?」
「たかだか一世紀でクラシカルはないと思います」
シルビアはそう言うと、ハンドルに手を置いて、ペダルを踏み込んだ。
「手動運転?」
「この自動運転には趣がありませんから。便利ですけどね」
シルビアってこんなに喋る人だったのかと、ヴァルターは少し驚いている。シルビアは思い出したように胸ポケットに入っていたサングラスを装着し、ハンドルを回し始める。車両は流れるようにそれに追従していく。戦闘機の機動と同様に、優雅かつ無駄のない動きだった。
「君と二人というのは初めてだな」
「そうですね」
シルビアは慣れた手付きで地上へと向かって車両を動かしている。しかし会話が続かない。黙ってても会話が途切れることのないクリスティアンという存在は実はありがたかったのだと今更ながらに気が付く。そんなヴァルターの気配を感じながら、シルビアは左手でポケットをまさぐり、タバコの箱を取り出した。
「それ、タバコか?」
興味を引かれたヴァルターが尋ねると、シルビアは「あっ」と声を出してタバコの箱をもとに戻した。
「すみません、癖で」
「ここは君の車だ。好きに――」
「奥様に余計な気遣いはさせたくありませんから」
「え?」
ヴァルターは首を傾げる。
「このタバコ、吸うのはほとんど女性なんです。なので隊長が女性とプライベートを共有したというのは一発でバレますよ」
「その言い方じゃ、俺が浮気してるみたいじゃないか」
「私が誘ったら浮気になると思いますよ」
「それには乗らないよ、残念ながら」
「隊長の行為や決定は関係ないです」
シルビアの断定に、ヴァルターはしばし考え込む。
「それじゃまるで罠だ」
「隊長は――」
シルビアは横目で助手席のヴァルターを伺った。
「常に脇が甘い。気を付けて下さい」
「君や仲間をすら信じるなと言うのか?」
「信じてほしいです。でも、それではよくない」
シルビアは奥歯に物が挟まったかのような口調でそう言った。ようやく地下駐車場からの出口が見えてきた頃合いだ。
「私たちは確かに隊長の部下ですし、戦闘機に関しては嘘はありません」
「なぁ、シルビア。君がそういうことを突然言うようになったのは、やっぱりあの三種の神器の影響か?」
「……それはあるかもしれません。何にしても、あれらの登場によって事態はあまりにも急激に動き始めてしまったんです、私たちの側、では」
「なるほど」
ヴァルターはよくわからないなりに肯定した。
「アーシュオンというのは、それそのものが伏魔殿。隊長もよく覚えておいてほしい」
真剣な口調を笑い飛ばすわけにも行かず、ヴァルターはしばし沈黙する。駐車場の出口のところでクリスティアンとフォアサイトの二人がじゃれついていた。二人はヴァルターたちに気付くと、いかがわしいジェスチャーを送ってくる。ヴァルターは観なかったふりをして、今度はシルビアに視線を送る。シルビアは厳しい表情で車外の二人を見つめ、おもむろにアクセルペダルを踏み込んだ。
「うわっ?」
予想もしなかった急加速に、ヴァルターは思わず声を上げる。さながらオーグメンタを点火したときのような加速度が、ヴァルターをシートに押し付けた。車両は一瞬で時速ニ百キロ近いところまで加速して、勢いよく軍専用道路に飛び出した。戦闘機はこの何倍もの速度が出るが、体感速度では今この車内で感じでいるもののほうが上だった。何もない空と比べて、ありとあらゆるものの距離が近いのだ。
「ちょ、ちょっとシルビア、スピードを落としてくれ」
「感じませんか? ゾクゾクしませんか? 私が少し間違えただけで、私も隊長も即死です。こんなに簡単に死ねる。こんなに近くに死がある。楽しくなってきませんか?」
「縁起でもないし、冗談でもないな」
ヴァルターの回答に、シルビアはやや速度を落とした。
「予想通りの回答ですね、隊長。戦闘機乗りとしては超一流でも、政治屋としては三流です」
「俺は政治屋じゃないし」
「味方を作って下さい」
ヴァルターの言葉を待たずに、シルビアは言う。
「信じる、信じないなんていう曖昧で脆弱なものではなく。例えば隊長はヤーグベルテの血を引いています」
「母がな。だが、それは」
「私たちの国は、ヤーグベルテの技術者たちを数多く受け入れてきた。そのために用意された受け皿が、ヤーグベルテからの亡命者を特権階級的に扱う制度。隊長も恩恵は受けてきたはずです」
「覚えはある」
ヴァルターは無表情に言った。アーシュオンに於いてはヤーグベルテからの亡命者は何不自由なく暮らせるのが通例だ。もちろん、アーシュオンに全面的に協力するという条件付きではあるが。しかしそれは同時に、アーシュオン人からの反発を招く。ヴァルターも超エースとして認知される以前は、仲間たちから幾度となく妨害を受けてきた経験がある。そして今でも、「ヤーグベルテ系の超エース」として「いつ寝返ってもおかしくない」などと書き立てられる事が少なくはない。また、反動保守政党による「純血アーシュオン人による国政奪還」というスローガンが人気なことも知っていた。ヤーグベルテ系が特権意識を持てば持つほど、彼ら反動保守政党は強力になっていくのだ。
「だが俺は――」
「不断の努力によってそういったものを弾き返してきた」
先回りして言うシルビアに、ヴァルターは「あ、ああ」といった反応をせざるを得ない。
「誰も努力なんて見ません。見ても理解しません。今あるその姿と、ヤーグベルテ系である事実。それしか理解できないのが大多数。現に、ヤーグベルテ系だから今の隊長の地位になれたとか、ヤーグベルテ系で敵と通じているから多大な戦果を挙げられた、そういった妄言なんて枚挙に暇がないほどでしょう?」
「それはそうだが、しかし」
「努力し続ければ認められると?」
「そう思ってやってきた」
憤然とした様子のヴァルターを見て、シルビアはまたスピードを上げ始めた。
「面白いですね」
「何がだ」
「隊長が、です」
シルビアは正面を見たまま微笑む。
「私はその隊長の考え方に同意はできない。他人はいつだって裏切るものだし、他人はいつだって自分の努力なんて見てくれない。他人はいつだってその人が思うままの姿を相手に求めるもので、それから逸脱していれば拒絶するか糾弾するかするだけ。しかし、隊長は、もしかしたらそんなものは本当にはねのけるかもしれない」
「褒められたのか?」
「最大級に」
シルビアは頷き、手早く自動運転に切り替えた。そしてヴァルターの方へと身体を乗り出す。今にもキスされそうな位置にシルビアの唇が近付いてきて、ヴァルターは強張った。
「キスしたら怒りますか?」
「ああ」
「その続きまで提供しても?」
「もちろん」
ヴァルターは毅然として言い返す。それを見て、シルビアは微笑する。ヴァルターでなければ簡単に転がされそうなほどに蠱惑的な表情だった。
「私、隊長のこと、好きですよ」
「突然だな」
「言う機会がなかっただけ。先約がいるんじゃしょうがないですけどね」
「すまんね」
「一つ、難しい質問しても良いですか?」
「なんだ?」
ヴァルターが促すと、シルビアはまた手動運転に戻して前を向いた。
「私は女性として魅力的でしょうか」
「それは疑いようはないんじゃないか」
実際に、美しい人だとヴァルターは思っている。中身はかなりミステリアスではあるが。
「ありがとうございます、隊長。隊長は嘘がつけませんね」
「嘘なんて言ってない」
「……額面通りに受け取りますよ?」
シルビアは小さく笑うと、アクセルペダルを限界まで踏み込んだ。