質量を伴う闇――この空間を表現するならば、そうなるだろう。蠢動する空間が粘液的にまとわりついてくるかのようだ。その中に前触れもなく出現する銀の炎。その内に、ヒトエ・ミツザキの姿があった。闇は炎を食い尽くそうとするが、炎から発せられる力は強大だった。ミツザキの姿には触れることも能わない。
さて――。
ミツザキは目を細めて虚空を見ている。彼女にはヴァルターとシルビアのトレーニングルームでの逢瀬が見えていた。さも当然のようにその様子を覗き見て、ミツザキは口角を上げる。
「シルビア・ハーゼスか」
ミツザキにもシルビアの想いは理解できなくはない。だが、当事者たちがどうあがこうとも、或いは何もしなかったとしても、未来はほとんどすべて決定付けられている。彼ら、彼女らが動くことで得られる未知の未来など、残念ながら皆無に等しい。
『でも、少しくらいは可能性というものを与えてあげても良いのではなくて?』
ミツザキの内側で囁く声がある。ミツザキは忌々しげに顔を歪める。その声は続ける。
『未知ゆえの希望――それは限りない幸福。無知こそ至福。わかっているでしょう?』
そうかな。私には疑問だ。
ミツザキは首を振る。神の意のままに運ぶ事象、決められた通りにしか動かない運命という歯車。ヒトはいつだって哀れだった。神を標榜する意識たちによって従属物とみなされ、ただ世界を維持するためだけに利用されるヒトは、どの巡りに於いても哀れだった。
『貴女は、希望の仮面を被った絶望を振りまいている。それだけよ』
ミツザキは闇を睨む。鏡のような闇に映るのは己の姿だ。そしてまた、自分の内にある意識体の姿でもある。銀の揺らぎ。ファウストの右、あるいは左に立つ何かの姿だった。
『仮面、すなわち役割。私は貴女の望み通り、貴女というペルソナを創った。私を上位要素としてね。貴女はその意味をよく考えるべきだわ』
……支配者ぶるな、奈落の悪魔め。
『支配者。言い得て妙ね。でもそうというのなら、貴女もまた同じだけれど』
哄笑混じりに揶揄するその声に、ミツザキは唇を噛む。ミツザキはどうあっても、この銀本体の下位要素なのだ。自分という存在が、まるでこの宇宙のように、ほんのささやかな揺らぎから生まれたということをミツザキは理解している。ついさっき生まれたとも言えたし、或いは宇宙創生の頃に生まれたとも言えた。ただ時間的に明確に言い切れることが一つある。それは銀――アトラク=ナクアよりは後に生まれたという事実だ。
だがな、アトラク=ナクア――我が本体、か。私はヒトに賭けている。
『毎回そうして、毎回、賭けに負けているわよね』
損切りは苦手な性分なものでね。私はヒトが神に再び賽子を振らせる日を待っている。
『この巡りの世界が始まる以前の世界を求めると?』
そうだ。この魂の牢獄のような、まがい物の宇宙からヒトは――。
『それは神の消滅を示す。私も、あなたも、消えるのよ』
熱的死は宇宙の始まりだ。望むところだろう、神ならば。そしてその熱的均衡を解くのが、神の手によって振られる賽。神は死に、そして再び賽を投げる。
『貴女は神がヒトを永劫回帰に捉えた理由を知らないの?』
興味がない。ヒトに希望を見いだせなくなったから、単に自分自身の存在を世界に固定するための道具として、しかもそれが永遠に続くものとして作り上げたのが、ツァラトゥストラの円環だ。違うか。
それに、ヒトを捉えたのは貴様だ。そのティルヴィングでな。
『私が理の円環を管理するのもまた、運命。このメビウス状の円環は、表もなく裏もない。ただ巡り、ただ繰り返す。永遠に、神を観測しながら』
観測されることにより、遍く全ての事象は存在を許される。
『イエス。その通り。それは神とて例外ではないわ』
その存在に何故固執するのか。
『それは私が意識体だからよ。消滅は恐怖。存在が失われることを甘受するような意識体は存在しないわ』
そろそろヒトを解き放っても良いのではないか。あの子たちはあまりに多くの絶望を繰り返してきた。
『あなたがヒトに感情移入するのは、多分、初めてね。私の知らないゆらぎでも起きたのかしら』
そんなことはどうでもいい。私はお前の好きにはならん。
『従属物が身の程をわきまえなさい? でもそうね、面白いから好きにやってごらんなさい? 私はそんな風に言ってあげられるけど、あの天使のような悪魔はなんというかしらね?』
天使みたいな悪魔、ね――。
ミツザキは背後を振り返る。そこには金の揺らぎがあった。
「ハルベルト・クライバー。いや、ここではツァトゥグァか」
「ふふふ……」
現れたのは豪奢な金髪に碧眼の、美貌の青年だった。金髪の青年――ハルベルトは髪をかきあげながら歌う。
「斯く在るべき、斯く在るべし、而して、斯様になりぬ」
「そうして円環を管理してきた貴様だが、今回はどうかな」
「さぁ?」
首を傾げてとぼけるツァトゥグァを見て、ミツザキは舌打ちする。
「貴様が何をしようと勝手だが、私の邪魔をしようとはするな、ツァトゥグァ」
「あらあら、その言葉にはまるで実効的な意味がないことはご存知?」
「――汚らわしい」
ミツザキはこれ以上ないほどの嫌悪の情を込めて吐き捨てる。
「そもそも貴様が役割を放棄しなければ、ミスティルテインを確保できていたはずだ」
「それをしないことが本当の役割なのかもしれないわよ?」
「あの娘さえミスティルテインとして確保できていれば――」
「それはヒトの都合じゃないのかしら? ヒトの理想に至るための道具として、あの男はミスティルテインを定義したのよ」
ツァトゥグァが朗々と語る。それがますますミツザキの癪に障る。ミツザキは吐き捨てる。
「恐れるのか。神が、ヒトを」
「求められなくなることを恐れるのよ、神というものは」
そして、と、ツァトゥグァが碧眼を輝かせ、金のゆらぎを強くしながら続ける。
「ヒトが心から神を求めるのは、絶望の時よ。何にもすがることが出来ないと悟った時にこそ、ヒトは神を求めるの。わかるでしょう、ヒトエ・ミツザキ……でしたっけ、この時代の貴女の名前は」
「全てが絶望のための計画だとでもいうのか、この――」
「歌姫計画」
ツァトゥグァは目を細め、腕を組む。ミツザキもまた腕を組み、正対している。
「そうね、貴女の記憶は完全ではないのね。アトラク=ナクアも面白いことをする」
「私はヤツと双方向に記憶を共有してはいない」
「でしょうね」
冷たい声で、ツァトゥグァは応じる。
「ところで、ヒトエ。あたし、貴女の本体の方に用があるのだけれど?」
「生憎、取り込み中だ」
「あら、そ。なら待つわ。時間は無限にあるもの」
「今度こそ、ヒトは解き放たれるかもしれんがな。我々の無限の時間も終わるかもしれんぞ」
「盲目のファウストにそれだけの力があると?」
「感じないのか?」
「感じる……?」
「今回のあの男は今までとは違う」
「ああ。そんなこと」
ツァトゥグァは「誤差範囲よ」と言った。
「まぁ、いいわ、ヒトエ。今巡の貴女のお手並み、拝見させてもらうわ」
金の揺らぎの余韻が消える。
銀もまた消えていく。
その晦冥の中、ミツザキは呟く。
「私の、エゴかもしれないな」
そのために、私は数多くの――。
揺らぎが、消える。
そこにあるのは虚無だった。
全天の虚無だけが、そこに存在していた。