05-1-4:二つの計画を巡る――

歌姫は壮烈に舞う

 

 執務室へと戻ってきたエディットは、部屋の明かりをけもせず、応接用のソファに座り込んでいた。ヴェーラを叩いてしまった右手が、いまさらながらに痺れてきている。ケロイドに覆われたざらついた皮膚の下が、じわじわとうずいている。両目の暗視モードが、黒の世界を薄緑色に染め上げている。エディットの視線はややしばらく彷徨さまよった末、目の前の花瓶に固定される。花瓶は今は空だ。後でハーディが何か持ってくると言っていたっけ。

 エディットは暗闇の中で右手を掲げる。醜い手だった。この手を見るたび、鏡を見るたび、あの戦闘を思い出す。顔を失ったあの戦闘で、エディットはあまりにも多くを失ってしまった。思えば人間らしい感情も、あの時に忘れてきたのかもしれない。

 溜息を何度かついてから、エディットは自分の全身の筋肉がガチガチに硬直していることに気が付いた。頭痛さえするほどに。後頭部に手をやりながら、エディットが立ち上がったその時ちょうど、ドアがノックされる。ノックの主は分かっていたので、誰何すいかもせずにデスクの上にある解錠ボタンを押す。

「あっ」

 小さく声を上げたのはハーディだった。予想通りだ。

「天井灯はいつも点けておいてくださいと言ったでしょう、大佐」
「あ、すまない。私自身不便がないものでね」

 エディットはそう言って、デスクの上にあるスイッチを操作して灯りを点けた。若干抑えた明るさであるが、それにはハーディは文句を言わなかった。

「いざという時に大佐をお守りするのも、私の役割です」

 そう言ったハーディは、腰に手を当てて小さく息を吐いた。普段は誰にも見せないくだけた仕草である。エディットは苦笑して、またソファに戻った。ハーディもその向かい側に腰を下ろす。勝手知ったるなんとやら、である。

「さっきのは、見苦しかっただろうな」

 エディットの言葉に、ハーディは目を細める。鋭利な目つきだったが、その内側にある光は柔らかい。

「私には大佐の事情も、あの子たちの心情も理解することができます。ですから、どちらが正しいとか間違っているとか、思うことはできません。ただ、軍として、という視点であれば、大佐の行動は正しかったと言えるかも知れません」
「どうだか」

 エディットが首を振る。

「さっきの私の行為によって、計画が遅延するかもしれんのだ」
「それはないのではありませんか?」

 ハーディは言う。

「ヴェーラもレベッカも、聡明な子たちです。大佐の本心くらい、お見通しですよ」
「本心、か」

 エディットは小さく笑う。

「私の本心とは何なんだろうな」
「大佐はお優しい方です。私には分かっていますよ」
「アレックス、君に言われるとちょっとむず痒いな」
「恐縮です」

 ハーディはほんのわずかに口角を上げる。表情がほとんど動かないハーディの最大限の微笑である。

「しかし、狙撃屋の基本は対称の観察ですよ、大佐。私の見立てに間違いはないはずです」
「そうだな。信じている」

 ハーディはかつて海兵隊に所属していた狙撃手スナイパーである。射殺した敵兵の数は確認できただけで三百を超え、みなしを含めれば更に百は乗ると言われている。陸上戦で最も多くの将校を殺した女、とも言われたことがある。狙撃手には、類稀たぐいまれな忍耐力と集中力を要求される。ハーディはそんな前線で十年近く恐怖の狙撃手として君臨し続けたのだ。そのハーディが軍を辞めるという噂を聞きつけたエディットは、即座に参謀部への勧誘を行った。それが五年前の話だ。

「君はどうして私のところへ来る気になった?」
「大佐に一目惚れしたからですよ」
「また」
「本当ですよ。愛とか恋とかじゃありませんけど」
「私のどこが?」
「お話ししたことはありませんでしたか」
「記憶にない」
「そうですか」

 ハーディは顎に手をやって少し宙を見た。

「そもそも、大佐が私に惚れたのではありませんでしたか?」
「それは、ある」
「私も大佐となら第二の人生を歩めると思っただけです。引退してもすることはありませんでしたし、そもそも私の手は血に汚れすぎた。だったら、撤退戦の天才である大佐の助けをすることが、私の罪滅ぼしであると感じたのかも知れませんね」

 ハーディは肩をすくめてみせる。

「しかし、前線では多くの見たくもないものを見てきましたが、参謀部一帯に比べればまだまだ平和でしたね。前線は鉛玉で解決する話ばかりでしたし」
「物騒だな」
「権謀術数にまみれた参謀部に比べれば、爽やかな話です」
「確かに」

 エディットは苦笑しつつ、ハーディを直視した。機械の瞳が、ハーディを正確に中央に捉えている。

「それで――」
「大佐があれほど激昂した本当のところは、アダムス中佐の件ですか」
「そうだ。T計画。を推進させるわけにはいかない」
「だから、我々の歌姫計画セイレネス・シーケンスを圧倒的優位に持ち込まなければならない」
「イエス」

 エディットは胸の前で指を組み合わせて頷いた。T計画――正式にはテラブレイク計画というのだが、それがアーシュオン侵攻作戦のための計画だと知ったのはつい四ヶ月前、つまり五月の話だ。カティに昔の写真を見せ、酒に付き合わせたあの日だ。

「AX-799、テラブレイカーでしたね」
「超高高度戦略攻撃機。四万メートルから砲撃を行う空中要塞。そんなものが空を飛ぶとはにわかに信じ難いが、イスランシオ大佐の情報だ。確度は高い。うちの調査部も裏を取っているしな」
「ええ。もっとも、ただ飛ばすだけではレールガンの餌食になるだけでしょうが。しかし、アダムス中佐は、保身に関しては間違いなく天才。そのような部の悪い賭けに出るとは到底思えません」
「勝算が?」
「テラブレイカーは或いはただの張り子の虎かも知れません。が、あの男がそう簡単に失脚するような道に踏み込むとは思えません」
「同意だ。何らかの確度の高い勝算がなければ、T計画の責任者に手を挙げたりはせんな、あの男は」

 エディットは頬の火傷痕に触れつつ、眼光を鋭くした。

 アダムスのことは大嫌いだったし、卑小で卑屈で嫉妬心と猜疑心に満ちた男だと思っていた。だがしかし、エディットはアダムスを侮ってはいない。味方にすることは選択肢にないにしても、敵に回せば恐ろしく厄介な男であることは明白だったからだ。しかしアダムスは第六課、もとい、エディット本人を目の敵にしている節がある。事あるごとに第三課は第六課を陥れようとするし、実際に幾度も術中にはまった。

「それに、さらに悪いことに今はアダムス中佐への追い風が吹いています」
「逆襲の機運にあるからな。今こそ報復を、という声が大きくなっているのは知っている。まったく、水は低きに流れ、だよ」
「我々は今まで一方的に殴られすぎました」
「しかし、今このT計画で逆襲に出れば、我々は奴らを批判する言葉を失う。成層高度からの砲撃、まして核を打ち込むなどとなれば、どちらが善でもどちらが悪でもなくなるだろう」
「戦争で死ぬのは軍人だけで十分です」

 ハーディはそう言って眼鏡を外して胸ポケットに収めた。エディットは裸眼のハーディを珍しそうに眺める。ハーディの鋭利すぎる視線がエディットをまっすぐに受け止める。

「私は彼らへの憎しみだけで、ここまで戦ってきました。私は彼らが憎い。しかし、一般市民を殺すようなことには断固反対の立場です。T計画はそれを真正面から否定する」
歌姫計画セイレネス・シーケンスなら」
「使い方を誤らなければ、あれは――」

 ハーディは天井を仰ぐ。エディットは「だな」と頷いてソファに背中を深く預けた。

「大佐の立場は皆、理解しています。無論、ヴェーラも、レベッカも。カティも」
「だといいな」
「間違いありません。三人とも聡明な子たちです。あの子たちと本音でぶつかり会えるのも大佐だからですよ。どういう未来にあっても、大佐も、あの子たちも、艱難辛苦かんなんしんくを避けて通ることはできません。その時にこそ、大佐や我々大人たちの真価が問われるのだと思いますよ」
「そう、だな」

 エディットはおもむろに立ち上がると、ゆっくりと両腕を回した。ハーディも立ち上がり。眉間のあたりを指で抑えつつ言った。

「状況をコントロールするのが我々参謀部。いざその時が来た時のためにできる行動というのは、意外と少なくないと思いますよ、大佐」
「だな」

 エディットは髪を掻き上げる。半分以上が人工の毛髪で、触ると少しごわついた。

「なぁ、アレックス。私はあの子たちの保護者に相応ふさわしいのだろうか」
「少なくとも私よりはずっとうまくやれるでしょう」
「そうかな。君の気配りには到底かなわないが」
「完璧な人間が良い保護者というわけではありませんよ」

 ハーディは少しだけ目尻を下げた。エディットは苦笑し、やがて声を上げて笑い始める。

「確かに君は完全無欠だ。だがよじ登るには引っかかりがなさすぎるな」
「鋼鉄の女ですからね、私は」
「私はさながら……なんだろう?」
脚立きゃたつですかね」
「バカにした?」
「とんでもない」

 ハーディはわざとらしく手を振る。エディットはまた笑う。

「私はあの子たちには姉と呼ばせている」
「姉、ですか。母、ではなく」
「そこまでトシは離れていない」
「そうですか?」

 ハーディの直球の疑問文にエディットはつんのめる。

「まぁ、お好きになさるとよろしいです。私も姉に加えてもらえますかね」
「叔母くらいでは」
「……言いますね」

 ハーディはそう応えると、「あ、そうだ」と手を打った。

「動物でもお飼いになられてはどうでしょう。話題に困った時に助けになることが間々あります」
「ど、動物? ペットということか? イグアナとか?」
「爬虫類も悪くないですが」

 ハーディは少し思案する。

「私の従妹が動物の保護施設の管理人をやっています。良ければ話を通しますが」
「私は自分の世話すらできない女だぞ?」
「大佐の世話はカティがしてくれますから」
「……今日はずいぶん言うな?」
「お互い様です」

 ハーディはしれっとした顔でそう応じ、目を細めた。彼女なりの最大限の笑顔である。

「それでは大佐。今日は早く帰ってください」

 そう言い残して、ハーディは出ていった。それを見送って、エディットは自分のバッグを取りに執務デスクの方へと向かう。

「アンディ、私、頑張るから」

 いつか褒めてもらえるように。

 エディットは大きく息を吐いた。

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