謎の戦闘機を撃墜した――そう思った瞬間、レベッカは強烈な浮遊感を覚えた。世界が急速に暗くなり、さらなる暗黒の中に落ちていく。悲鳴をあげることすらままならない恐怖と不安、そして何よりも不快感が胸を満たす。
それまで自分が座っていたシートの感覚もなく、今自分がどういう体勢にいるのか、どういう状況にあるのかがまるで理解できない。ついには何も見えなくなった。自分の呼吸音さえ聞こえない。ただ落ちていくだけだった。
レベッカはヴェーラを呼ぶ。反響すらなくただ消えていく声に、虚しさと絶望が覆いかぶさる。しかし今、頼ることができるのはヴェーラだけだ。
「ヴェーラ! ヴェーラ! どこにいるの!?」
返事はない。何もない。一切の虚無だ。ただ落ちていく感覚しかない。
夢の世界、なんだろうか。こんな――。
セイレネスの暴走で気を失っているだけ、とか?
そう思うと少しだけ気分が楽になった。セイレネスが見せている夢に過ぎないのだと強く思えば、この気持の悪さも幾分かはマシになる。しかし、全天に広がる虚無の闇は、雄弁な沈黙の下でレベッカの願いを潰そうとする。
まさかこれ、現実なの? セイレネスの何か、なの?
不安に泣きそうになった時、レベッカの右手が強く引っ張られた。次の瞬間、レベッカは背の高い女性に抱きしめられていた。
「……?」
背の高い栗色の髪の女性。しかし顔が見えなかった。いや、見えてはいたが、記憶に残らなかった。顔として認識はしているのに、意識がそれを記憶にしようとしない。
「ベッキー、だいじょうぶ?」
「えっ……?」
いつものヴェーラの声に驚いて、意識をその女性に向ける。そこにいたのは紛れもなくヴェーラだった。身長も髪の色も、レベッカの知っているヴェーラだった。レベッカは眼鏡をかけ直して、ヴェーラを凝視する。ヴェーラは肩を竦めてから、またレベッカを強く抱きしめた。
「変だよ? だいじょうぶ?」
「ヴェーラ、だよね?」
「それ以外、誰がいる?」
ヴェーラはレベッカの耳朶に向けて囁き、レベッカはその吐息を受けて力なくヴェーラに身体を委ねた。ヴェーラは「やれやれ」と呟くと、またレベッカの耳に息を吹く。
「キスしようか?」
「なっ、何言ってるの……」
「とか何とか言って。本当はして欲しいでしょ」
「今そういう話しなくていいじゃない」
レベッカは心音の高鳴りを隠しながら首を振って続ける。
「そういう状況じゃないでしょ」
「ま、それもそうか」
ヴェーラは微笑んだ。空色の瞳がキラリと輝く。
いつの間にか二人は地面に立っていた。暗黒の世界がほんのりと色付いていた。いわば薄闇だ。どこまでも続く薄い闇は、現実には起こり得ない眺めだ。
「ヴェーラ、ここはどこ? っていうより、なに?」
「わたしときみの持つ情報量は同じだよ」
わかるわけないしと、ヴェーラは続ける。レベッカは「それもそうか」と納得してヴェーラの左腕を胸に抱きしめる。ヴェーラはそんなレベッカの頭を軽く撫でた。
「こういう時きみは本当に甘えっ子さんになるねぇ」
「私は臆病だもの」
「きみがそうだから、わたしはこうなんだよ」
「でも私はあなたになれない」
「それが役割ってものだよ、ベッキー。わたしたちはわたしたちという役割を演じているだけの役者なんだ」
「役者?」
レベッカはヴェーラの美しく整った白い横顔を見る。ヴェーラはまっすぐ前を見たまま頷く。
「消えよ、消えよ、刹那の灯り。人生とはただ彷徨う影のごとし、哀れなる役者に過ぎぬ」
「マクベス?」
「イエス」
ヴェーラは頷く。
「その役割からは誰も逃げられない。だけど、その役割の中でわたしたちは全力で生きる。それが観客の心を揺さぶることもあるだろうし。というか、それしかできないだろうし」
「あなたはそれで満足なの?」
「満足? 冗談じゃないよ。すごく損な配役だと思ってる。でも、わたしにしかできないことがあるなら、わたしはやるし。多分ベッキーだってそうでしょ」
ヴェーラはそう言って空を見る。闇の空だ。
「あの戦闘機はなんだったんだろうね。とても象徴的に感じたけど。でも、通常の手段で侵入なんてできっこない。論理回線のセキュリティの次はブルクハルト大尉の防壁だ。普通じゃない手段で作られたオブジェクトとしか思えないね」
「どうやって?」
「さぁ。でも、セイレネス・システムなら何でもありだ。作ったホメロス社にだって何がなんだかわかってないんじゃないかな」
ヴェーラはおもむろに腰を下ろした。レベッカはその隣に寄り添うように座る。
「きみはわたしが好きなんだなぁ」
「あたりまえでしょ」
「それは愛情? 友情?」
「……どっちでもいいでしょ」
「ふふ」
ヴェーラは小さく笑い、そして「ああ。そうだ」と思い出したように呟く。
「以前、わたし、セイレネスはゲートウェイのようなもんじゃないかって言ったの覚えてる?」
「ジークフリートが私たちにアクセスするための、だったっけ?」
「うん、そうそれ。異なる世界の異なるプロトコルを連結するためのシステム。それがセイレネス・システムなんじゃないかなって。案外あたってるかも?」
白金の髪を揺らしながらヴェーラが言う。
「闇の先にあるこの空間。こここそが玄関口なんじゃないかって。異世界へのね。というより、こっちのほうが現実世界だったりしてね」
その声音に、レベッカは寒気のようなものを覚えた。ヴェーラの顔を見て、それは怖気に変わる。この二ヶ月で度々見せてきた氷のような表情、その視線。それがレベッカをまっすぐに捕えていた。その目はレベッカを超えて、ありとあらゆるものを睥睨しているかのようだった。
レベッカは思わず息を呑む。ヴェーラはそんなレベッカの肩を抱く。冷たい体温がレベッカに伝わってくる。整いすぎた顔がレベッカに近づく。その唇がレベッカの唇に触れそうになる。レベッカは苦労して唾を飲み、しかしヴェーラから離れることはできなかった。不安と期待がせめぎあい、そのどちらもレベッカが動くことを良しとしなかった。
「ヴェ、ヴェーラ、唇……」
「ほしい?」
「だめだよ、だって――」
「だって?」
ヴェーラの吐息がレベッカの中に入り込む。ヴェーラはレベッカの頬を両手で挟み、唇を重ねた。
――ヴェーラ!?
目を丸くするレベッカに、ヴェーラは微笑む。
「この世界でのキスはノーカンだよ。お互いね」
ヴェーラは立ち上がる。レベッカも唇に触れながらゆっくりとそれを追う。
「わたしたちは所詮役者。所詮は道具。わたしたちはそれを知りながら、目をそらして生きている。未来を予想してみたところで、それはつまりは主観的な希望でしかない。ロジックの悪用に過ぎない」
「ヴェーラ……?」
「私は抗いたい。お仕着せの現実、誰かの望む未来、そんなものを全て否定したい」
ヴェーラの髪が揺れる。レベッカの前を歩いて行く。
「ベッキー、きみは、どうなんだい」
振り返ったヴェーラを薄緑色の光が包む。それを見てヴェーラは「あはは!」と声を上げて笑う。
「不都合な話になるとすぐこれだ! だからこの世界の舞台は面白くないんだ!」
「ヴェーラ、待って!」
「ベッキー、今度は本気でキスを――」
ふわりとヴェーラの姿が消えた。
世界は再び闇に落ちる。
「ヴェーラ! ヴェーラ!」
レベッカは叫ぶがその声は響きもしない。
レベッカは独り、闇の中に取り残された。