07-1-3:存在起源

歌姫は壮烈に舞う

 

 通話を終えると、ヴェーラは大きく息を吐いた。リビングのソファに座るエディットの背中が見えている。ヴェーラは今キッチンにいて、通話中に飲んでいた紅茶のカップを洗おうとしていた。エディットが今飲んでいるのはウィスキーだ。テレビの方を見てはいたが、おそらく内容に関心はないだろう――ヴェーラはそんなことを思い、テレビの中で芸人が何事かを喋っているのに一瞬だけ注意を向ける。

 カティに会いたいなぁ。

 ヴェーラはぼんやりと考える。カティという存在は、ヴェーラにとっては支えであると同時に癒やしだった。一切の忖度をすることなく向き合ってくれるからだ。カティはレベッカとはまた違う、ヴェーラにとってはとても大切な人間だった。

「エディット、あの」
「どうしたの?」

 躊躇混じりにかけられた声に、エディットはゆっくりと振り返った。顔の火傷の痕が、シーリングライトを受けて凄烈に浮かび上がる。確かに迫力のある外見ではあったが、しかしそんなことにはもう慣れていた。

「カティが遠くなってく気がする」
「そんなことないでしょ」

 そう応えてから、エディットは少し目を細めた。機械の瞳孔が少し広がる。

「カティは遠くなっていってるんじゃないわ。大きくなっているの。この国を背負って立つくらいの人間になるかもしれない。シベリウス大佐のようにね」
「でも、それじゃ」
他人事ひとごとみたいに言わないの、ヴェーラ。あなたたちだって、その一人なんだから。あなた、ベッキー、そしてカティ。この国の未来を背負うのはあなたたち三人かもしれないわよ」
「エディットは……そうなって欲しい?」
「ええ」

 即答するエディット。ヴェーラは「そっか」と小さく息を吐く。

「でもわたし」

 ヴェーラはエディットの隣に座った。エディットは少し驚く。いつもは同じソファに腰を下ろしたりしないからだ。

「セイレネスは嫌。怖いし、何も知らない人たちに変な影響を与えているって。公害みたいなものじゃない。そんなことで罪もない人たちの人生を歪めるようなことはできない。したくない」
「セイレネス・システムの技術が進めばそんなものはなくなるかもしれない。いえ、そうなってくれないと困る。けど、今はまだ――」
「わかってる」

 ヴェーラは唇を噛む。

「アーシュオンのあの化け物たちから国を守るために、セイレネスの早期実用化が必要なことも、そのために変な影響を出さざるを得ないってことも。だけど、それとわたしの感情は全然一致しない。つらいんだよ。苦しいんだよ」
「そう、ね」

 エディットはヴェーラの美しい白金の髪プラチナブロンドを、ケロイドでカサつく右手で撫でた。

「だけど私は、はいそうですかとあなたの言葉を全部聞き入れるわけにはいかない」
「ベッキーだって大変じゃない。あの原因わからなかったら、もしかしたらベッキーは……」
「その可能性も捨てきれない。わかってるわ」

 エディットの声の温度が下がる。ヴェーラは叩かれるのを覚悟する。

「軍は――」

 エディットは小さく呟き、ウィスキーを一口含む。

「軍の立場は、最悪使、なのよ」
「……エディットは?」
「私も同じ」
「ばか」
「でも違う」
「……?」

 ヴェーラはエディットの目をまっすぐに見る。エディットは無表情に瞬きをし、少しだけ目を細めた。

「私はふたりとも使えないと言われれば良い、と思っているわ」
「どういうこと?」
「セイレネスなんか使わせたくない。あれが使えないシステムだって言われてくれれば。いっそそう思うわ」
「嘘だ」
「本当よ。もちろん、私は失脚するでしょうし、ヤーグベルテは亡国の危機に至るでしょうけど。だからこれは私の儚い望み。それにね、同時に私はやっぱりこの国を守りたいの。そして悔しいけど、それができる手段って、今はたったひとつしかない」
「それがセイレネスっていうわけだ」
「そ。人の心は難しいわ。二元論じゃないの」
「わかってる」

 ヴェーラは大きく息を吐いた。

「わたしだってこの国に滅んでなんて欲しくない。セイレネスの影響の何倍もの人々が死んだり苦しんだりするのは本意じゃない。だけど、私が引いたトリガーで、不特定多数の人たちが悪い影響を受けなきゃならないなんてのも嫌なんだ」
「ヴェーラ」

 エディットは一度右手を握りしめてから、ゆっくりと開いた。そしてヴェーラを強く抱きしめる。

「なかなか、上手くいかないものね」
「そうだね」

 ヴェーラもエディットの背中に手を回す。

「ヴェーラ、あのね。これは単なる自己満足とか自己欺瞞かもしれないけど。誰かが非道を為さなければならないというのなら、私は……私がそれをする役を担いたいのよ」
「なんでそんなに善人なの?」
ね。一番気の利いた嫌味ね」
「嫌味じゃないけど」
「それはね、私が一番上手く非道に振る舞えるという自信があるから、よ。他人に任せておけないだけ。中途半端な非道はそれこそ余計な悲劇を生むわ」

 エディットはそう言ってからヴェーラを離し、ウィスキーの入ったグラスを持ち上げた。

「これからもずっとぶつかり合うと思うわ、私と、あなた。だけどそれでいいと思う」
「わたしは争いたくなんてないけど」
「でも、あなたは黙っていられない。ベッキーが我慢すればするほど、あなたは戦おうとする」
「……よく見てるね」

 ヴェーラは肩を竦めて立ち上がった。

「エディット、好きだけど、嫌いだよ。ごめん」
「それでいいのよ。ありがとう、ヴェーラ」

 エディットはそう言って、グラスを置いてソファに横になった。

「ベッド行かないの?」
「ちょっと寝るだけ。ベッキーによろしくね」
「わかった」

 ヴェーラは頷くと、そのままリビングを出た。そして階段を上がって、「あれ?」と呟いた。ヴェーラの部屋の扉が少し開いていたからだ。さっきまでレベッカが寝ていたのはヴェーラの部屋だ。部屋を覗くが。そこは無人だった。ヴェーラはその足で隣のレベッカの部屋の扉をノックする。

「ベッキー?」
「おはよ……って時間でもないか」

 レベッカはベッドで本を読んでいたようだ。眼鏡をかけていないところをみると、あまり本気で読むつもりではないようだった。表紙を見れば、それはレベッカが大事にしている絵本だった。飛行機乗りが砂漠に不時着し、不思議な少年と出会って……という物語だったはずだ。

「起きてて平気なの?」
「寝すぎちゃったくらい。また訓練中に気を失ったんでしょ、私」
「うん。いつも通りに」
「いやないつも通りね」

 レベッカはため息をついて本を閉じ、ベッドサイドの小さなデスクの上に置いた。そしてそのままベッドに腰掛けて、隣にヴェーラを誘う。

「いまさ、カティと電話してたんだよ」
「あ、私も話したかった」
「寝てると思ったから、ごめんね」
「いいのよ。それでなんて?」
「心配してた。エディットのことも告げ口した」
「まぁ」

 レベッカは小さく笑う。

「でもヴェーラ、エディットのことを悪く言ったらダメだからね」
「エディットとは本音で戦ってたいんだよわたし。セイレネスは嫌だけど、カティの助けにはなりたい。そのためにはセイレネスを一刻も早く完成された兵器にしなきゃならない。その過程でヤーグベルテの少なくない人に何らかの汚染をもたらしてしまう。だけど……ね」
「わかってるわ、ヴェーラ。私も同じ気持ちだもの。私はエディットに噛みつけないけど」
「キャラじゃないもんね、ベッキーのさ」
「ごめんなさい」
「謝るところじゃないし」

 ヴェーラは幾分ムスッとして言った。レベッカはしばらく自分のつま先を見つめてから、意を決したように尋ねた。

「マリアって、知ってる?」
「聖母マリアのマリア?」
「ちがう」

 レベッカは首を振る。

「黒い髪の、私たちと同じくらいの年かな。そんな子」
「知らないなぁ」

 ヴェーラは脳内の人物データベースを検索したが、該当者は見つけられなかった。そもそも同年代の知り合いが極端に少ないヴェーラたちだから、そんな子が存在していたら忘れるはずもない。

 マリア、ねぇ?

 ヴェーラはレベッカの顔を直視し、右手をレベッカの左手の甲に重ねる。レベッカの深緑の瞳は曇っていた。普段あまり見せないその表情に、ヴェーラはにわかに不安になる。気を失った後におかしなことを口にするのは初めてではなかったが、そういう時にレベッカが放つ一種異様な雰囲気には、ヴェーラは毎回背筋に冷たいものを感じさせられていた。

「あのね、マリアは私が気を失っている時、いつもいるの。いるはず。そんな気がする」
「そ、そうなんだ?」
「うん。いつもはすごくぼんやりしているんだけど、今回はすごく鮮明。はっきり覚えてる。マリアって名乗ったのも、その顔も」

 自分たちのことを「お姉さま」と呼んでいたことも。ただ、マリアはあまりにも闇だった。何を考えているかもわからない。何を望んでいるのかも見えない。その暗黒の虹彩は、レベッカにはあまりにも深淵だった。吸い込まれてしまいそうで、一度飲まれたら二度と戻ってこられない。そんな恐怖すら覚えるほどに。

「ヴェーラ、あのね、私、マリアが怖いの」
「こわい?」
「マリアが言うことを理解するのがとても怖い。とても怖い。思い出そうとするだけでも心が痺れる」

 レベッカはヴェーラの肩を掴んで目を見つめた。ヴェーラは反射的に目を逸らそうとしたが、間に合わなかった。

「――ッ!?」
「ベッキー! 何をしたの!?」
「えっ……!?」

 目を丸くするレベッカと、険しい表情で睨みつけるヴェーラ。ヴェーラはあの瞬間に、レベッカのを受け取っていた。まるで動画ファイルのように、レベッカの記憶がヴェーラの中に転送されてきていた。二人は他人の記憶を覗き見る能力を不安定ながら有していたが、それを反転したようなものが今レベッカの内側で発動していた。記憶を他人に強制的に送り込む力だ。

「もう絶対しないで! いくらベッキーでもこんなのだめだ!」
「ご、ごめんなさい、でも、私――」

 やろうと思ってやったんじゃない。レベッカはそう言おうとしたが、言えなかった。口が動かなかった。ヴェーラは勢いよく立ち上がると、室内をぐるぐると歩き回る。明らかに苛立っている仕草だった。

「それで、この子がマリア?」
「うん、多分。仮想人格モジュールを疑ったりもしたけど、ブルクハルト教官にもわからないらしいわ。外部からの侵入も疑ったけど、あのシステムに外部から入ってくることは考えられないし」
「うーん……」

 ヴェーラは再びレベッカの隣に腰をおろした。レベッカはおずおずとその右手に触れた。

「私の妄想、かな、これ。ねぇ、ヴェーラ」
「それが一番しっくりくるけど、なんか、ね」

 ヴェーラはレベッカの肩を抱いた。レベッカはその勢いのまま、ヴェーラの肩に頭を乗せる。

「ねぇ、ヴェーラ」
「うん?」
「私たち、何から生まれてきたの?」
「な、何言ってるの?」

 ヴェーラは目を見開いてレベッカを伺う。しかし、レベッカは凍ってしまったかのように動かない。何も読み取れなかった。そのレベッカが訥々とつとつと続ける。

「私たち、カティに出会うまでどうやって生きていたの?」
「ベ、ベッキー、何を言ってるの? そんなの――」
「決まってる? 覚えているの? はっきり言える?」

 その冷たい詰問に、ヴェーラは狼狽ろうばいする。身体が硬直してしまったかのようだ。

「覚えていない?」
「そんなはずなくて!」
「何を覚えているの? それは確かな記憶? 本物?」
「だって、そうじゃなかったら、わたしたち」
「どうなるの?」

 レベッカらしからぬ早口の問いかけに、ヴェーラはますます胸が重くなる。何を言おうとしても喉に何か塊が詰まってしまっていて、言葉にできない。

 レベッカはヴェーラの頬に触れて、鋭い視線でヴェーラを貫く。

「ベッキー、怖いよ……」
「私たち、いつ出会ったの? どこで?」
「えっと、その、それは、そんなの忘れてるはずなくて!」

 八歳だった。いや、違う。六歳で、えっと、確か軍の施設で。

「軍の施設」

 レベッカは言う。ヴェーラは頷きかけたが、レベッカのその無表情の前に身じろぎ一つできなくなる。

「どこの? どんな? その時私たち、どんな服装だった? どんな話をしたっけ? 私たちなら忘れてないはずよね。そんな大事なイベント。忘れてることのほうが少ないはずよね、私たち」
「えっと、えと、わたしは、その」

 ヴェーラの唇が小さく震えている。

 嘘だ――ヴェーラはガランとした心の中で呟いた。

「わたしの記憶……どうして、こんな」

 いつから? 最初から?

 ヴェーラは首を振る。レベッカはヴェーラから目をらして息を吐く。

「ねぇ、ヴェーラ。私たちは、いったい何なの?」
「わたしは……」

 ヴェーラは唾を飲み、自らの肩を抱いた。体温が急激に逃げていき、眉間のあたりが冷たくなったように感じた。

「わたしは……」

 にんげん、だよ、ね……。

 ヴェーラの空色の瞳が光を失った。

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