08-1-2:青い火花

歌姫は壮烈に舞う

 ヴァルターと別れたシルビアは、俯いたまま早足で自室へと向かっていた。靴音が狭い通路で跳ね回る。

 私は、落ち込んでいるのか?

 シルビアは少なからず混乱していた。胸が痛いし、頭の奥が重い。そんな気がする。

 私は何を一番に守りたいと思っている?

 何度も自問したことだ。答えははっきりしている。知っている。理解している。だが、それを口にしてはいけない。一番を決めてはいけない。いや、それが一番であってはならない。シルビアは首を振る。もし私がそうしたいと言ったところで、受け入れてもらえる可能性は万に一つもない。それもわかっている。だが、シルビアの中に秘められているが、それを求めている。認めて、受け入れてもらえることを強く求めている。

 だけど。

 シルビアはその感情を信じきれなかった。シルビアという人格を構成しているその基盤ベース部分が、信じられないのだ。シルビアは情報部員としての訓練を受けていた。その感情、そして理性の全てを論理で解決できるようにされてきた。そして同時に、情報部員としての性質も叩き込まれ、焼き付けられていた。マーナガルムへ配属されてから三年にもなるが、ヴァルターに惹かれていると自覚したその瞬間から、その「自分自身とはなにか」という問い掛けをし続けてきている。

 しかし、未だにその答えは出ていない。

 自分が思う自分の思いが、本心なのか。それとも、情報部としての人格ペルソナが、任務に適当であると判断してでっちあげた想いなのか。それがわからなかった。

 シルビアが自室への最後の角を曲がった時だ。

「やれやれだねぇ」

 不意にからかけられた声に、シルビアは硬直した。

「いつ気付くかなって思ってたんだけど、全然ニブいね、あんた」

 知っている声だった。だが、それが知っている人物と結びつくのに時間がかかった。声の温度にあまりにも差があったからだ。その人物はふわりとシルビアの前にやってきて、シルビアを見上げた。フォアサイトだった。いつもの快活で脳天気な表情ではなく、限界まで冷えた刃のような鋭い表情だった。

「あんたさー、情報部関係者の癖に、めっちゃ喋るよね。二流? いや、三流かな」

 その声にシルビアは圧倒される。小柄なフォアサイトを前に、シルビアは何も言えなかった。そのくらい、今のフォアサイトには有無を言わせぬ迫力があった。

「ま、あたしの本当の部屋に行くよ。ここらへんは耳目が怖い」
「本当の部屋?」
「そ。存在が公になってない部屋ってのが幾つかあるわけ。すぐそこだよ」

 フォアサイトはシルビアの右手を引っ張るようにして歩いて行く。そしてある壁の前に立つと、指で壁をリズミカルに叩いてみせた。すると壁に扉が出現して、音もなくスライドして開いた。

「……狭いな」

 シルビアの感想通り、その部屋は狭かった。そして机と椅子の他には簡易ベッドが置いてあるだけで、そしてそれで部屋の密度は飽和寸前だった。

「ま、座ってよ」

 扉が閉まるのを確認してから、フォアサイトはシルビアを椅子に座らせる。自分は机にお尻を乗せて腕を組む。シルビアはフォアサイトを睨むように見つめて、その真意を探ろうとした。しかしフォアサイトのほうが数段上だったらしく、シルビアは何の情報も得ることができなかった。そんなシルビアを見て、フォアサイトは口を歪める。

「さすがは大理石マーブルだねぇ。もう落ち着いちゃってさ。クールだよねぇ、ほんっと」
「用がないなら――」
「せっかちは嫌われるよ。それにあんたはあんたの意志ではこの部屋からは出られないよ。あたしの生体認証が必要だからね」
「じゃぁ、何の用だ」
「あんたが情報部かどうかなんて大した問題じゃなくてさー」

 フォアサイトはシルビアを見下ろす。シルビアはその視線に強烈に射すくめられて、腰を浮かすことすらままならなくなっていた。

「イライラするんだよねぇ、あんたに。煮え切らないっつの?」
「本題はなんだ」
「おお、怖い怖い。筋肉は硬直してるのに、思考は冷静なんだねぇ」

 フォアサイトはシルビアの状態を完全に見抜いている。シルビアが口を開きかけたその瞬間に、フォアサイトはその人差し指をシルビアの唇に当てた。

「あんたさ、隊長のことが好きなんでしょ。好きで、心配で、でも自分には任務が。それよりなにより隊長には嫁がいる。ああ、どうしよう私! この思いどうしたらいいの!」
「やめろ!」

 イライラとした口調でシルビアが吐き捨てる。

「おお、怖い怖い!」

 フォアサイトは演技じみた動作で両掌を天井に向けた。

「で、さぁ。お待ちかねの本題なんだけど。今、あたしが確認したいことは一つだけ。あんた、今回の戦闘の件では、情報部からは何も?」
「意味が――」
「あんたはんだよねって訊いてる。わかる?」

 ため息交じりに説明するフォアサイトに、シルビアはしばし押し黙る。フォアサイトも沈黙を貫き、やがて根負けしたのはシルビアだった。

「私が仮にイエスと答えたところで、それを正しいと説明できるのか? できないだろう。それに私がノーというメリットはなにもない。つまり答えはイエス。何もしない、だ」
「めんどくさいねー、あんたは」

 フォアサイトは机の上で胡座あぐらをかいた。

「でもさぁ、シルビア。あんたに複雑な事情があることくらい、わかってる。ていうか、知ってる。あたしだって自分の本当の任務や立場について教えてやれるわけじゃないけどさ。でもさ、でもね、あんた、やるべきこととかさ、やりたいこととかさ、ほんとうはハッキリ理解してるんだろ?」
「私には任務が――」
「じゃっかしいわ」

 その一喝に、シルビアは顔を引き攣らせる。終始完全に押し負けている。

「あんたさぁ、いったいぜんたいここで何をしたいワケ? 立場と本音に挟まれて悶々としてる自分のツラを鏡で見て、ああ私本当にかわいそう! とか思っちゃってるワケ? 誰かにそう言ってほしいってワケ?」

 畳み掛けるような鋭利な言葉を前に、シルビアは沈黙する他にない。

「あんた、隊長のこと好きなんでしょ。隊長を守りたいんでしょ、何からもさ、本当は。隊長の嫁とか、情報部とか、そんな諸々言い訳にしてナルシシズムに酔ってるんでしょ」
「そんなことはない。それに私には」
「うっせーっての。黙って聞けよ三流情報部のアホ。あんたの任務は隊長の監視。敵の捕虜になりそうな事態に陥ったら、をお膳立てする。つまりぶち殺す。そういうところだろ、おおかた。アイツラの考えそうなことだ」
「それは――」
「うっさいうっさい! シルビア・ハーゼス。あんたね、今そういうくだらないことを考えられたらね、あたしたちも困るんだわ。分かってると思うけど、今回の出撃はマズい。本気でヤバい。を呼び出すためにあたしたちをダシに使い、そしてそのままあたしらをまとめて始末しようという魂胆も透けて見える」

 フォアサイトは机の引き出しを開けて拳銃を取り出した。シルビアは反射的に腰に手を持っていったが、今は拳銃を携帯していなかった。出撃時以外の武器の携帯は禁じられている。

 フォアサイトはニヤリと笑うと、そのまま慣れた手付きで拳銃を分解し始める。パーツを几帳面に机の上に並べながら、フォアサイトは言う。

「いいかい、シルビア。あんたが隊長をどうするこうするなんて、あたしにとっちゃどーでもいいの。些細で些末な問題。だけどね、あんたが今みたいにフラフラグダグダしているのは良くない。あたしたちの命に関わる。あんたは今回、隊長の二番機だ。覚悟を決めな。惚れた時点であんたの負け。情報部としても三流、下の下。負けだよ。負け犬らしく覚悟決めて気合入れてキャンキャン吠えなよ。あんたと隊長だけが死ぬってんなら止めやしない。だけどね、そんなソープオペラは戦場に持ち込むな」
「……心配するな。私はちゃんと戦える」

 隊長に信じられている。私は、ヴァルター・フォイエルバッハから信頼されている。少なくとも戦闘に関する限りは。だから――。

 シルビアの心の声は、しかしフォアサイトには受け容れられない。

「そうじゃないのよなぁ」

 フォアサイトは今度は拳銃を組み立て始める。シルビアはガラスの瞳でその様子を見つめた。

「……ま、いいか、めんどくさい。三年一緒にいながら、まだあんたとはまともに会話出来ないってことがわかった。人形臭さは取れてきたなぁと思っていたけど、気のせいだったか。でもま、この預言者フォアサイト様の目はごまかせないよ。しっかりやんな、次の作戦」
「……善処する」

 シルビアはようやく立ち上がる。身体が重たかった。そしてドアの方へと身体を向けかけて、ふとフォアサイトを振り返る。

「私は、迷っている。悩んでる」
「ほぅ?」

 意外そうに目を細めるフォアサイト。その手には完成した拳銃がある。

「私は、そう、下の下だ。でも、それでもいい。私は、好きなんだ。好きになってしまった。だが、この思いすら私の本当のものなのかわからない。私の立場が生み出した幻想なのかもしれない。誰かが私が隊長を好きになるように仕組んだだけなのかもしれない。そんな錯覚の発露なんじゃないかって」
「くくくくくっ! はははっ、あははははっ!」

 フォアサイトは耐え難いと言った様子で笑い始める。シルビアは無表情だったが、内心では非常に狼狽していた。

「ガキみたいなこと言ってんじゃないよ。いくら恋愛経験希薄っつったってホドがある」
「私はそういうのは――」
「心配いらないさ、石頭マーブルヘッド。人を好きになるってのはそういうもん。誰もはっきりした答えなんて持ってない。不安と期待の狭間をウロウロする。そういうもん。だからね、好きかもしれないと思った時には手遅れ。もう囚われてるの。わかる? わかんないか」

 フォアサイトは机の中に拳銃を放り込んだ。

「ま、そうと理解できたなら、あとはその時その時に任せて好きにやりゃ良い。あたしのモットー教えてやろうか。役に立つよ」
「……モットー?」
「一番後悔しないであろう選択肢を選ぶ、これだけ。立場とか役割とかまるっと無視して」
「しかしそれでは」
「あんた、隊長の眉間をぶちぬけんの?」

 端的な表現にシルビアは硬直する。フォアサイトは「ほらね」と嘲笑する。

「隊長を撃ち殺すか、隊長と共に逃げてふたりとも殺されるか。今のあんたはどっちを選ぶ?」

 フォアサイトは目を細める。ギラリとした光がそこにあった。

「人生そんな選択の繰り返し。あたしは小さい頃からそんな選択肢ばっかりの中で生きてきた。それに比べりゃマーナガルムの三年間はぬるかったねぇ」

 フォアサイトはシルビアを追い越してドアのロックを解除する。

「シルビア、最後に一つ。あんたね、自分を決めな」
「自分を決める?」
「そ。あんたは自分が何かによって作られたものだと思っている。それはそれでいい。誰もがそんなもんさ。組織かもしれない、家庭かもしれない、学校かもしれない、社会かもしれない。そんなもののとやらに従って、人間てのは自分を着飾るように、いや、取り繕うように出来てるんだ」

 フォアサイトはドアを開ける。ドアは小さな擦過音とともにスライドする。

「あんたはあの組織を神のようなものだと誤解してる。だけど奴らにも、あんたの本質まで変えられたりはしない。だから自分の心の声はちゃんと聞いときな。それができなきゃ、何をしたって後悔しか生まれない」

 フォアサイトは顎で廊下を示す。シルビアは重たい足取りでフォアサイトの前を横切る。

「フォアサイト」
「ん?」
「作戦が終わったらまた話せるか」
「あたしでよければ」

 フォアサイトは蒼い目を細め、尖った微笑を見せた。シルビアは小さく頷くと、そのまま去っていく。

「やれやれ、盗み聞きとは趣味が悪いねぇ、クリス」

 室内に戻ったフォアサイトは天井を見上げる。光学迷彩を施された小型のカメラとマイクがそこにはあった。

『……いつから気付いてた?』
「出撃の時から。ってーかさぁ、あたしが気付かないとでも思ってた?」
『こっちの部屋は油断してると思ってたな』
「見くびられても困るねぇ。あたしは預言者フォアサイトだ。あんたたちが何をしようとしてるかなんて、たいてい全部お見通しだよ。で、あんたはあんたでお役目ご苦労なこったね」

 フォアサイトはそう言うとジャケットを脱いだ。そのままシャツも脱ぎ、上半身を半ばあらわにする。

「眼福眼福」
『自分で言うのか、それ。俺は貧乳にゃ興味ねぇよ』
「そのくせ抱いたじゃん?」
『任務』
「はいはい、あたしも任務。ま、気持ちは良かったよ」

 フォアサイトのすさんだ笑みがカメラに向けられる。
 
『で、フォアサイト。シルビアをどうするつもりだ。あんなのはシナリオにないんじゃないのか』
「一流の役者はね、アドリブ仕込む権利を持ってんの。そもそもああでもしなかったら、シルビアに本隊二番機なんてさせられない。任務以前に全滅させられちゃうでしょ」
『ま、まぁな。俺だって変なところで死ぬのは御免だ』
「ならあんたはあたしに感謝して。次はもっと気持ちよくさせてよ」
『……抱かれたいのかよ』
「男なら誰でもいいけどね、ぶっちゃけ」

 フォアサイトはククっと喉の奥で笑い、迷彩で見えないカメラを指差した。

『ま、いいさ。じゃぁ、生きて帰ったら、たっぷり仮初かりそめの愛でも味わうとしようぜ』
「死亡フラグ立てるのは、やめてほしかったなぁ」

 フォアサイトはそう言うと、携帯端末モバイルを取り出して手慣れた様子で操作する。

「カメラもう要らないでしょ。壊すよ」
『それさぁ、回収したいんスけど』
「見つかったから壊された。シルビアとフォアサイトのやり取りは記録できなかった。報告書一行で済むでしょ」
『いや、うん、まぁ、そうだな。しかし経費が』
「ん? それとも何、そんなに情報部に報告したいわけ? あたしとシルビアの熱い逢瀬の内容」

 フォアサイトはニッと笑い、携帯端末モバイルに浮かんでいるボタンをタップした。

 それきりクリスティアンの声は聞こえなくなった。

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