二〇八六年八月二十八日、一四一五時――アーシュオン第四艦隊二所属する遊撃分艦隊が、ヤーグベルテ第二艦隊に強烈な先制攻撃を浴びせかけた。先のAX-799処女戦の際に航空戦力が半壊してしまっていた第二艦隊は、未だ満足な補充を受けられていなかった。その結果として、最初の一撃で制空権を奪われた。第二艦隊は避退行動を取りながら、ひたすら対空戦闘を行うこととなり、確実に数を減らしていった。
ヤーグベルテとしてはクレタ島嶼群を簡単に明け渡すわけにはいかなかった。ゆえに、第二艦隊には死守命令が出された。最低限、四風飛行隊の到着まで持ちこたえろ、ということだ。四風飛行隊といえば、ボレアスはイスランシオ大佐を失って以後は戦力の大幅減も相まって機能不全、ノトスとゼピュロスは別方面で沿岸部攻撃部隊を迎撃中だった。となると残る力は、暗黒空域シベリウス大佐率いるエウロス飛行隊だけだった。そして彼らエウロスは出てこざるを得ない。なぜならアーシュオン第四艦隊にはあの「マーナガルム飛行隊」が所属しているからだ。
中央参謀司令部二課の統括、グスマン准将は氷のように冷たい印象を放つ白髪の中年の男だった。およそ参謀には似つかわしくないがっしりとした体躯に、表情筋の著しく欠落したような表情が合わさり、とてつもない威圧感を放っている。公には経歴は秘匿されていたが、かつては情報部に所属していたという噂もまことしやかに流れている。それほどまでに冷徹で、かつ、敏腕なのだ。
「マーナガルムが壊滅しても構わん。暗黒空域を空域に縛り付けておいてくれさえすれば良い」
グスマンは携帯端末を前に言い放つ。
『しかし彼らは代え難いトップエースだぞ、グスマン准将。暗黒空域一人と刺し違えさせるのではあまりに交換レートが良くない』
「ならばせめて同数以上のエウロスを撃墜してもらえばよい。お釣りが来るのではないか」
『いや、しかし』
会話の相手は、第四艦隊司令官、猛将との誉れ高いドーソン中将だ。階級社会であるアーシュオンではあったが、階級が二つも低いグスマンは全く意にも介さない。
「わかるかな、ドーソン中将。たかだか最前線の小部隊ごときに、我々の貴重なPFA001を二機もまわしたのだ。使い捨て覚悟でな。わかるかな、ドーソン中将、この理屈が」
『グスマン、しかし』
「話は終わりだ、ドーソン中将。エウロスが出た」
グスマンはそう言うなり、携帯端末に触れて通話を終了した。そして後ろにいつの間にか立っていた副統括、ヒトエ・ミツザキ大佐に身体を向ける。
「ミツザキ大佐」
「なんだ」
ミツザキは赤茶の目を細めて無愛想に応じる。しかしグスマンは気に止めた様子もない。グスマンは他人の態度にまるで感心がないのだ。グスマンは短く尋ねる。
「ISMTは」
「滞りなく」
負けず劣らずの短い応答をすると、ミツザキは軍帽をかぶり直してそのまま部屋を出た。グスマンはメインモニタの方に目をやり、第四艦隊分艦隊が確実に第二艦隊をすり減らしていくのを無表情に見つめた。
部屋を出たミツザキは、唇に仄かな笑みを乗せて「さて、と」と呟いた。脱いだ軍帽を指で回し、廊下の壁に背を預ける。銀髪に赤茶の瞳、透き通る白い肌。それらが冷たい天井灯に照らされて、床と壁に鮮やかな影を落としている。
ミツザキは真正面、廊下の壁を見据えて口を開いた。
「いまさら何の用だ」
「あら、つれない」
目の前に現れたのは金だった。鮮やかな金の長髪、澄み渡る碧眼――これ以上ないほどの美貌の持ち主だった。黒尽くめのスーツを身に着けていたが、その容貌は完全に女性だった。金は言う。
「あたし、あなたの目的がよくわからないのよ」
「ふん、知ってどうする?」
ミツザキは軍帽をかぶり直す。右目だけが金を睨んでいる。ミツザキは唇を歪めて言う。
「我々が互いに何の目的があるにせよ、我々は互いに素であったはずだ。関与する必要もされる理由もない。違うか、気まぐれな獣の神とやら」
「そうね、あたしはそう呼ばれもする。でも、あなただって冥界奈落の女郎蜘蛛と名乗っているのではなくて?」
その金の言葉に、ミツザキは鋭い微笑を見せる。だが、その炎のような瞳からは、何の感情も伺えない。
「私とアトラク=ナクアとの間には、複素数敵であるという以上の共通点などない」
「そうなの?」
「少なくとも貴様と、ハルベルト・クライバーという疑似人格よりは関係性は遠いだろうな」
「……それは意外ね」
「では私の質問に答えてもらおう。貴様はなぜわざわざここにこうして現れた。てっきりもうこの巡りでは傍観を決め込むものと思っていたがな」
「そのつもりだった」
金は口角を上げる。
「でもね、興味が湧いたのよ。他ならぬ、あなたに」
「私に? 興味?」
「そ。正確には、アトラク=ナクアに纏わるものに。もちろん、あなたを含めてね。メフィストフェレスだか、女郎蜘蛛だかはさておいて。それで、あなたたちは、あのジョルジュ・ベルリオーズとともに、いったい何をしようとしているの?」
「関心があるだけだ。次はどうなっていくのかな、というな」
ミツザキは鋭い眼光を送る。金は髪をかきあげる。
「ゲームマスターがプレイヤーを兼務するっていうのはどうなのかしら?」
「私はアトラク=ナクアとは違う個体だと言っている」
「そうというのならそうなのかもね」
金はあっさりと引き下がる。無駄な議論はごめんだと言わんばかりの態度だった。金は目を細める。碧眼がギラリと光る。
「あなたは何度もこの世界を振り出しに戻してきた。今回も?」
「ははは! まるでゼロへの回帰を既定路線のように言う。勘違いするな、私の目的はそれではない。人間に関心があるから、何度でも繰り返させるし、何度でもティルヴィングを与えてきた。不安定要素を世界に配備するためにな。貴様の存在とてそれの一端に過ぎん。貴様もまた、ティルヴィングの従属物に過ぎないのだからな」
「あらあら。そうと言うのならそうなんでしょう」
金は肩を竦める。
「ま、がんばりなさいな、ヒトエ・ミツザキ? あなたはせいぜい、人間の感情というものを学びなさいな」
「貴様が言うのか」
ミツザキが吐き捨てた時にはもう、金の気配はなかった。
ミツザキは未だにあの一件、セプテントリオの一件を忘れられずにいる。ヘレーネ・アルゼンライヒという女の遺言のみならず、その存在すら人々の記憶から抹消した金。ミツザキの中では、それはフェアプレーとは言い難かった。もっとも、それがあったからこそ、イスランシオをこちら側に引き入れることが出来たとも言えるのだが――。
いや? 待て。
これは、アトラク=ナクアとしての記憶にして感情なのではないか? であるならば、私とアトラク=ナクアは、私が自覚している以上に近いということになる。それは……私は私が思う以上に人間であるということではないか。
ミツザキは無限に続く白い廊下の中で考え込む。幾度となく繰り返してきた巡りと、今回の違いを。
――あるいは、そのためのARMIA……?
現れた新たな気配に、ミツザキは気が付いた。この論理空間では、およそあらゆることが起こり得る。ミツザキの制御するこの空間にアクセスするためには相応のアクセス権が必要ではあるのだが。
「……で、どうなんだ、ARMIA」
「それは」
姿を現した黒髪黒瞳の少女は小さく肩を上げる。
「どの私への問いかけと考えればよろしいですか、ヒトエ・ミツザキ」
「どれでもいい」
ミツザキはぞんざいに応じる。少女はクスッと笑い、両手をパチンと打ち合わせた。
「それならば今、もっとも姉様方を愛している人格、マリアとして回答させてもらいますね」
「好きにしろ」
ミツザキは無表情に言い放つ。マリアはにこやかに「はい」と応じて、「そうですね」と一度間を置いた。
「私は、姉様方をお守りしたいだけです。どの道を択ぶにしても、姉様方は哀しい決断を強いられます。だから私は、その傷を少しでも浅くしたい。その苦痛を少しでも早く取り去りたい。そう思っているだけです」
「それは貴様自身の感情なのか、塑像の人形」
ミツザキは冷たい微笑を見せる。貴様らOrSHに感傷など、と。しかしマリアは純粋な瞳を細めて微笑みを返す。
「どう捉えていただいても結構ですわ、ヒトエ・ミツザキ。間違いないのは、私と姉様方は特別だということ。それこそ、あなたの思っている以上には」
「笑止」
ミツザキは軍帽の位置を軽く整えた。
「セイレネスを使える程度で特別だと? 私と話をする上ではその程度、実に瑣末な能力と言わざるを――」
「セイレネスが使えること自体は特別でもなんでもありません。ヒトである以上は。今、私が特別だといったのは、ここでこうしてあなたとお話をする能力についてですよ、ヒトエ・ミツザキ」
その柔和な言葉に、ミツザキはしばし沈思する。
「確かに、そうだな、マリア。この空間に侵入ができるというのは、確かに特別、か」
ミツザキはマリアの深淵の黒瞳を見据えて言う。
「しかしな、マリア。貴様の行為は何をも変えることはない。ゆえに無駄――」
「そうでしょうか? 結果として何も変わらなかったとしても、過程には意味がありますよ」
「しかしあの娘がミスティルテインになれなかった以上、もはや貴様の言う姉様たちは救えない。それは確定だ。なぜならあの二人の物語の、最後のシーンはとうに決定事項となったのだからな」
「言うだけ言えば良いのです。未来の事象は何一つ確定などしていません。未来は変えられる」
「ははは! 未来が変えられる?」
ミツザキは哄笑する。マリアはしかし、全く臆せずに応じた。
「希望が未来を作る。私はあなたたちの作った未来を、姉様方と共に書き換えてみせる」
「未来は既知となった瞬間に絶望に変わる。希望は絶望に変わる。希望が大きければ大きいほど、明るければ明るいほど、巨大な絶望に変わる。やめておけ、マリア。希望など持つな」
「いいえ」
マリアは首を振る。
「今、あなたが確定したと言っている未来ほど、私にとって辛く哀しいものはありません。であるならば、私は足掻く。少しでも姉様方の希望が守れる未来を作ろうと、私は足掻きます。どんな手段を使っても。たとえ、あなたがた神々の力が邪魔をしようと」
「或いはベルリオーズが何かを企もうとも? お前の主、創造主の意向がそれに反していたとしても?」
「あの方にはあの方の理想が。私には私の望みが。そもそも我が主となれば、私の思いや行為などお見通し。なれば私は私のやりたいようにします。希望は棄てない」
黒髪の少女は毅然として言う。
そしてアルカイク・スマイルを浮かべると、ふわりとその空間から姿を消した。ミツザキは軍帽を脱ぐと流れるような動きで脇に抱えた。
「パンドラの匣が開かぬことを祈るよ、マリア」
さて――。
ミツザキは白い空間を見渡して、頷く。
「幕開けと行くとしよう、か」
そう言うと、ミツザキはその空間から離脱した。銀の揺らぎが、消えた。