それから数日後、九月三十日になってようやく、ヴェーラとレベッカは休暇を手に入れた。実に二週間ぶりの完全オフ日である。軍としてはその休暇すら取り消そうとする動きを見せたのだが、セイレネス技術責任者であるブルクハルト少佐が断固としてそれを拒否した。二人の歌姫には十分な休暇が必要だということを常日頃から訴えていたブルクハルトだったが、あまりの軍の聞く耳のなさについに実力行使に出たという次第である。
セイレネスは軍の最高機密に属する技術であったから、軍としても安易に技術本部内で横展開させる訳にはいかないと判断していたし、もしそれが可能であったとしても、やはりブルクハルトの機嫌を損ねるのは得策ではないという忖度も働いた。超巨大な組織の超巨大なプロジェクトであっても、結局行き着くところは属人化である。無論ブルクハルトも体制のバックアップ部隊を組織してはいる。しかし、それがブルクハルトをいざ外したときに正常に機能するかというと、その保証はなかったし、まして天才と言われる彼を除いてシームレスに事態が推移させられると考えるのは、誰がどう見ても都合が良すぎた。
さて、そんな突然の休日を迎えて気が緩んだのか、レベッカが目を覚ましたのは正午を少し回った頃だった。
「え?」
枕元の時計を見、自身の携帯端末を見、レベッカは動転する。
「お、お昼、お昼よね、お昼……って、えええええ!?」
何度見ても午後0時五分である。
「どどど、どうしよう、遅刻! もう、どうして誰も起こしてくれないの!」
ぶつくさ言いながらベッドから飛び出して、クローゼットを開けたところで我に返る。
「なんだ、もう! 今日おやすみだったわ!」
念のためスケジュールを確認するが、間違いなく休みだ。昨日連絡を受けてすぐに携帯端末に登録したのだ。夢じゃない。
ベッドの端に腰をおろした時、盛大にお腹が音を立てる。
「お、おなかすいた……」
あまりにけたたましくお腹がなるものだから、レベッカは赤面していた。可愛らしい薄緑色のパジャマ姿の自分を見下ろして、レベッカは着替えを決意する。先日衣替えをしてしまったので、クローゼットの中には少々保温性の高いものしかない。それは少し時期尚早だったなと思いながら、レベッカは今日の衣装を決めていく。
紺色の細いボーダーの入った白いカットソー、少し色落ちのしている水色のバギージーンズ、中綿入りの藍色のジャケットの三点セットだ。ついでに言えばソックスは白である。最後に深緑色のアンダーリムのメガネをかけた。オフと言えばだいたいこの程度のラフなチョイスになりがちなレベッカである。休日であろうときちんと外出に耐えるコーディネートをするレベッカに対し、ヴェーラは休日は基本的にパジャマのままか着古したスウェット姿で過ごすことが多かったりもする。
「よし、と」
姿見で一式を確認すると、レベッカはその灰色の髪にブラシで梳かす。面白いように髪流れが揃い、長い髪が艶を放った。化粧は基本的にはしない。舞台に上がる時や写真撮影の時はスタイリストが薄く施してくれるのだが、そもそもレベッカは本格的な化粧道具を持っていない。必然的にオフの日はすっぴんである。メイクに興味はあるのだが、周囲の大人たちがほとんどそれに興味を持っていないことも影響している。エディットしかり、ハーディしかり、カティしかり、だ。
「ま、いいか」
レベッカは階下のリビングに移動する。ソファに座っているのはエディットで、手にしたグラスにはブランデーか何かが注がれていた。エディットは、休日はほとんど朝から飲んでいる。どことなくつまらなさそうに。
「あの……おはようございます」
「もう昼よ?」
エディットはレベッカに顔を向けて、柔らかい口調で言った。
「毎日おつかれさま。よく眠れた?」
「あ、はい、大丈夫です。遅刻したかと思って飛び起きちゃって……」
「あはは、真面目ね」
エディットはグラスを置いて立ち上がり、全身を使って伸びをした。ちなみに言えば、エディットはグレーのスウェット姿、すなわち完全オフの出で立ちである。
「ふー。ベッキー、お腹の音聞こえてるわよ」
「えっ……!」
レベッカは慌ててお腹を押さえる。しかし、騒ぎ立てる胃のあたりにいる何かを止めることが出来ない。エディットは「座って座って」とレベッカにソファを促し、自分の携帯端末を軽く振ってみせた。
「ピザでも取ろうか? それとも何か作る? 食べに行く?」
「ぴーざー……!」
いつの間にかリビングの入口に立っていたヴェーラらしきものの姿に、エディットとレベッカは同時にビクッと硬直する。
「びっくりするじゃない!」
レベッカはソファから立ち上がると、ヴェーラのようなものの前髪を後ろに流す。それでようやく、憔悴した表情のヴェーラが現れた。レベッカはヴェーラの腰に手を回すと、そのままソファに座らせ、自分もその隣に腰をおろした。
「エスコートごくろう! で、ピザ! ピザって聞こえたんだけど……!」
「どういう聴覚なのよ、ヴェーラ」
レベッカはそう言い捨てて洗面所に向かい、ブラシを手にして戻ってくる。
「もー、きれいな髪なのに台無し」
「くるしゅうない~」
ヴェーラはそう言いながら、エディットから携帯端末を受け取っていた。もうすでにピザを注文する確率は百パーセントになっているということだ。
「ちょっと、ヴェーラ。二週間前にも食べたわよね、四枚、一人で」
「二週間前なんて遠すぎる過去だよ。わたしには永遠にも等しい」
「一ヶ月に一回でも多くない?」
「毎日でもいいのに。バリエーション考えてみてよ、ハーフも駆使したら、一ヶ月以上サイクルまわせるじゃん」
「いや、そんな生き急がなくても」
レベッカのツッコミをヴェーラは涼しい顔で回避する。
「それにさ、四枚食べたってきみは言うけど、最初の一枚は前菜でしょ? 次の二枚がメインディッシュで、最後の一枚がデザートだよね、常識的に考えて」
「どこの惑星の常識よ」
「というわけで八枚注文したよ、おっきいやつ」
「はや!」
二人の掛け合いを見て、エディットは声を上げて笑っている。
「あなたたち、本業芸人かなにか?」
「わたしたち、軍隊アイドルだからね」
ヴェーラは空色の瞳を細める。邪気のない微笑に、エディットは苦笑を返す。
「エディットさぁ。毎日ランチにピザ支給してほしいんだけど。公式に」
「いや、あのねヴェーラ」
レベッカがヴェーラの両肩を掴みながら生真面目な顔で声をかける。
「ピザが嫌いな人もいるのよ。食べられない人もいるじゃない」
「そういう人たちはわたしにくれればいいじゃん?」
「いや、その理屈はおかしい」
レベッカが眼鏡の位置を直す。
「もー。しかたないなぁ。ピザさえあればもっと働けるのに」
「それ以上働かせるのはちょっとね」
エディットが少し真面目な声で応じた。
「もう少しまともな環境で仕事させたいんだけど」
「それはいいんだよ」
ヴェーラが言い、レベッカも頷いた。レベッカが言う。
「むしろ、私たちがブルクハルト教官に無理なお仕事をお願いしているんです」
「そ、そうなの?」
「教官は常日頃から私たちの休憩とか休暇に気を配ってくださっているんですけど、私たちが一分一秒を惜しんでるんです。でもさすがにいろんな数値が悪くなってきたからって、昨日になって『明日は絶対に休め』って言われたんですよ」
「ブルクハルト教官も不眠不休だったしね」
ヴェーラの言葉にエディットは唸る。
「あまりよくないわね。でも――」
「ねぇ、エディット」
ヴェーラが口を挟む。
「わたしたちの戦艦が完成するまで後一年。だよね?」
「そうね。その予定」
「わたしたちね、決めたの。その日までに絶対にセイレネスの調整を終わらせて、実戦レベルに持っていくって」
「そうしたら軍の皆さんの負担も減らせる。国も守れるかもしれない。とにかく何も出来ない今の状態を一刻も早くどうにかしたいんです、私たち」
二人の言葉を聞いて、エディットは苦い微笑を見せた。
「私、不甲斐なくてごめんね、ふたりとも」
「どうしたの、エディット。なんか調子狂うよ」
ヴェーラが立ち上がりながら言う。そのまま冷蔵庫のところへ行くと、サイダーのボトルとグラスを二個持って戻ってくる。エディットはグラスに注がれていく透明な液体を乾いた目で見ながらつぶやく。
「最近、逃し屋の仕事もほとんどなくて。ずっと激務をやってきたから、こうして間ができちゃうと考えちゃうのよ、色々と」
「エディットはちゃんとしてるよ、大丈夫だよ?」
ヴェーラはサイダーを飲みつつ頷いた。エディットは残りのブランデーを一気に煽って息を吐く。
「ちゃんと、か――」
エディットは首を振る。
「みんな私を置いてっちゃうなぁって最近思うの。カティもそう。あなたたちもいつの間にかしっかり大人だし」
「エディット、酔ってる?」
「泣いて良い?」
エディットの言葉に目を丸くするヴェーラを見て、エディットは笑う。
「冗談よ、冗談。泣くとしてもお風呂の中で一人で泣くわよ。この目じゃ涙は出ないけど」
「泣くのは悪いことじゃないですよ?」
レベッカの言葉に、エディットは頷く。
「アンディが死んだ時も私は泣かなかった。だから私は私のためには泣けないの」
「わたし、代わりに泣こうか?」
ヴェーラの優しい言葉に、エディットは思わず胸が詰まる。しかしその時にはすでに、ヴェーラの隣に座っているレベッカが眼鏡を外して目を拭っていた。そんなレベッカの肩をヴェーラは抱いている。
「もう、ふたりして私の頭の中をぐちゃぐちゃにしようとして!」
エディットはそう言って立ち上がり「あ、そうだ」と思い出したように二人を見た。
「二人とも、何か動物世話してみたいと思わない?」
「動物?」
二人の声が揃う。
「アレックスの従妹が、動物の保護施設で働いているらしいのよ。いろいろいるらしいから、見るだけ見てみない?」
「お、お世話できるのかな」
ヴェーラの声が少し弾んでいる。レベッカは眼鏡を掛け直すとエディットとヴェーラを交互に見た。
「嬉しいんですけど、私たちにそんな余裕あるんでしょうか。スケジュールもびっしりですし」
「あなたたちのメンタルの安定のためなら、私、公私混同も辞さないわ」
エディットは胸を張る。
「だからとりあえず見に行かない? 引き取るかどうかはその先の話。気分転換にはなると思うわ」
「さんせい!」
ヴェーラは少しそわそわしながら右手を上げた。