そのやり取りから二時間後には、エディットたち三人はハーディの従妹が働いているという動物保護施設に到着していた。施設入り口にはタガート兵長がいて、エディットの後ろにはジョンソン兵長がついてきていた。大型のペットショップも幾つか存在はしており、そのため飼育放棄や多頭崩壊という問題は未だ存在していた。それゆえの動物保護施設である。
この施設ではほぼ常時、譲渡会が行われていた。譲渡対象もおよそあらゆる愛玩動物を取り揃えているのではないかという程にバリエーション豊富である。ヴェーラとレベッカは、仔犬や仔猫にメロメロにされており、新しい個体を見つけるたびに歓声を上げていた。それを見守るエディットは無自覚に微笑んでいた。参謀部にいる時にはまず見せない表情である。二度見必至である。
エディットはいくらオフであるとは言っても、さすがにスウェット姿のままではなかった。灰色のカットソーに黒いジーンズ、その上に薄手の黒いトレンチコートを羽織っている。襟を立てたそのスタイルは、染み付いた軍人の立ち居振る舞いと、何より顔の大火傷の痕も相俟ってなかなかにインパクトがあった。
ヴェーラは、というと、落ち着いた赤い長袖のワイシャツに白いジーンズ、その上にベージュのコートと黒のベレー帽というスタイルである。レベッカは起きてきたときのスタイルに、白いコートを身に着けている。スニーカーはふたりともお揃いのもので、白ベースに赤い繊細な装飾が施されたブランド物だった。
施設に到着してから二時間が経過するも、ヴェーラたちは動物と戯れることに夢中になっており、何を引き取るかという議論にまで到達していないようだった。エディットは「今日は無理か」とジョンソンと会話を交わしつつも、二人から目を離さずにいた。閑散としているとはいえ、無人ではない。不特定多数の人間が行き交うこの場所で、油断は禁物だった。この場において、ジョンソンとタガートという屈強な二人がいてくれるのは、エディットにとってはとても心強いことだった。
「ねぇ、エディット」
「うん?」
「本当に飼っていいの? わたしたち、世話あんまり出来ないきがするんだけど……」
ヴェーラは灰色の小さなウサギを抱き上げていた。仔ウサギだ。怯える風もなく、大人しく抱かれている。どころか、ヴェーラの白い指をペロペロと舐めてさえいた。
「くすぐったいよ」
ヴェーラは目を細めてしゃがみ、仔ウサギをケージの中にそっと戻す。
「世話に関しては心配要らないわ。私もするし、留守にする時は頼めるアテがある。そうね、嫌な言い方になるけど、これはあなたたち二人の精神状態の安定のための措置なの。大きな目的があって、ということなのよ」
「うん、わかってるよ。わたしたち、賢いからね」
ヴェーラはレベッカと手をつなぎながら応える。レベッカは頷いていたが、その視線はさっきまでヴェーラが抱いていた灰色の仔ウサギに向けられていた。仔ウサギの方も二人をじっと見上げている。
「じゃぁ、この子がいいな、わたし。ベッキーは?」
「私もこの子」
「決まり」
ヴェーラはそう言うと、しゃがみ込んでケージの扉を開け、「おいで」と呼びかけた。仔ウサギはすぐにヴェーラのところまでやってくる。
「珍しいですね」
施設の職員がやってきて唸る。彼は人懐こい笑みを浮かべながら、エディットに向かって言った。
「ウサギは警戒心が強いので寄ってこないんですよ、普通。こと、この子はエサすらあんまり食べない子で」
「そうなんですか」
レベッカが驚いたように言った。今はそのウサギはレベッカの胸に抱かれている。職員は頷く。エディットは「よし」と呟くと、職員に手続きを依頼した。
「やった」
ヴェーラは小躍りしそうなほどに明るい声で言った。そこでエディットははたと気が付く。
「ああ、そうだ。ウサギの飼育に必要な用品を一式お願いしたいのですが」
「承知しました。まずは基本的な所をこちらで見繕いますね」
「ありがたい。何も予備知識がなくて」
「ガイドもつけておきますし、必要ならウチのハーディ主任に連絡いただければ」
「何から何までありがたい」
「ウチはこの子たちの幸せが第一ですからね。良い飼い主を探し、良い飼育環境を作ってもらう。そこまでしてこその保護施設ですよ」
職員は胸を張ってそう言って、ヴェーラとレベッカに視線を遣った。
「やはり特別なんですねぇ」
「うん?」
「動物たちがこれほど警戒心を持たないなんて、正直うらやましい。ウチってほら、虐待とか放棄とかされた子が多いものですから」
「なるほど」
エディットは頷く。動物は人間の本質を敏感に見抜くのだろう。
「でも逃し屋さん。あなたも動物には好かれる性分みたいですよ」
「まさか。寄っても来ない……」
「どの子も警戒していませんよ。あなたは危険な人間ではない、と思われてるということです」
「ヴェーラとレベッカのおかげ、と言えるのでは」
「その二人があなたに心を許しているのだから、とも?」
「どうだろうか……」
エディットは小さく溜息をついた。各種の書類手続きを進めながら、また溜息をつく。
私も結局、この子たちから貰うばかりだ。貰ってばかりなんだ。こうして二人に何か提案するのも、二人のためなんかじゃない。大人の都合だ。大人の都合の押し付けなんだ。
エディットの心の中に、そんな燻りが生まれる。仔ウサギの入れられた小さなキャリーバッグを大事そうに抱えるヴェーラと、それを心配そうに見つめるレベッカを見ながら、エディットは内心でがっくりきていた。
帰りの車の中でも、エディットの気持ちはどこか曇り空だった。
「どうしたの?」
後部座席の真ん中に陣取ったヴェーラが、エディットを気遣う。その空色の瞳に射抜かれて、エディットは少し狼狽えた。
「ウサギじゃないほうが良かった? もしかして……」
「え、いえ、そうじゃないわ。意外ではあったけど」
エディットは首を振って極力自然な微笑を見せようと努力する。が、ヴェーラはその真意をえぐり出そうというかのような視線でエディットを捕捉し続ける。数秒の攻防の後、エディットは白旗を上げた。
「わかった、わかったわ。うん。言うけど」
エディットはヴェーラとレベッカを順に見る。
「軍人としては、あなたたちには本当に申し訳ないと思っている。大人の都合で勝手なことばっかり。そして近い将来……あなたたちを戦場に駆り出そうって――」
「それはさ、エディット。言いっこなしだよ。わたしたち、最初からそうなんだから、きっと」
「そうです」
レベッカも同意する。
「私も覚悟は決めてるつもりです。カティを戦わせておいて、自分はイヤですとか、ありえません」
「そうそう」
ヴェーラは強く肯いた。エディットは髪に手をやって小さく息を吐く。
「そう、か……。これはもう、私が心配するようなことじゃなかったみたいね」
エディットの心境は複雑だった。まるで親離れされてしまったかのような。
「はぁぁ……。じゃぁ、あなたたちの保護者としての話。この際だから言うけど。正直ね、私、あなたたちにどう接していいか全然わからなかった。今だって手探りで、おっかなびっくりで。でも、少しでも家庭みたいなものを知ってもらおうと思って、家族にはなれなくても、限りなくリアルな家族ごっこはしたいなって。私だって、私なりに努力してるんだけど、全然だめで――」
「えー?」
ヴェーラが妙な声を発する。
「すごく楽しいけど、わたし」
「え?」
「楽しいんだよ? 士官学校にいたときとか、それより前? みたいなのよりもずっと今が楽しいよ。ね、ベッキー」
「うんうん」
レベッカはキャリーバッグの中にいる仔ウサギを見ながら頷いている。その表情はいささかだらしない。
そんな二人を見て、エディットは混乱してしまって言葉を紡げない。そこにヴェーラが追い打ちをかけてくる。
「だってさぁ。家に帰ったらエディットがおかえりって言ってくれるじゃん? 休みの日は起きたらおはよって言ってくれるじゃない、エディット。わたしの一日のおわりに、ちゃんとおやすみなさいって言えるのはエディットがいてくれるからじゃない?」
「そんなこと――」
「もー。あのね、わたしたちもう子どもじゃないよ。わかってるつもり。エディットがいつだってわたしたちのことを考えて、心を砕いてくれてること。厳しい顔、厳しい言葉。そういうのもあるよ。でも、その奥にあるエディットの言葉はちゃんと聞こえてる」
ヴェーラはその美しい顔に輝くような笑顔を乗せる。レベッカもエディットを見て、気持ち目を細めていた。
「あなたたちは、ほんとに――」
そこで不意にヴェーラがニヤリとする。
「ピザ頼み放題だしさ!」
「台無し!」
ヴェーラの言葉にものすごい反射神経で型どおりに突っ込むレベッカである。その二人を見て、エディットは思わず吹き出して声を立てて笑った。
「もー! 不意打ちズルいわ、ヴェーラ」
エディットはそう言って、ヴェーラの白金の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「泣かせてくれて!」
機械の眼窩には落涙の機能なんてないんだけど――エディットは意識的にまばたきを繰り返した。
「あのね、ヴェーラ。ずっともやもやしてたから、せっかくだし今言うね」
「う、うん? どうしたの、エディッ――」
「ごめんなさい」
いきなり謝られたヴェーラは目を丸くして「ええ!?」と声を上げる。
しばらく沈黙が続いたが、やがてヴェーラが手を打った。
「あのさ、もしかして、だーいぶ前の、ほっぺたひっぱたかれ事件?」
「……ええ」
神妙に応えるエディットに、ヴェーラはケラケラと明るい声を上げて笑う。
「あの時はさー、わたしも頭にカーッと血が上っちゃって。わかってたんだよ、エディットの立場、仕事。そういうの。だけど、わたしにも譲れないものがあって。あの時はその折り合いをわたしの中で付けられなかったんだ。ガツンってぶつかっちゃった」
「今は、つけられるの?」
「わかんない。でも、今はいいじゃない? 何度もぶつかるかもしれないけど、今はその時じゃない。今はわたし、エディット大好き。エディットもわたしを好きだよね? その時その時でイラッとすることがあるとしても、わたしはエディットのこと好きだから。それ大前提だから」
「ヴェーラ……」
「あの時、ひっぱたかれたこと。エディットがわたしをひっぱたいたこと。それがあったから今があるんだ。わたしはわたしの言いたいことを言えたから。エディットがわかってくれたって確信持てたから。でも、エディット、ずっと悩んでたんだね。だから、わたしのほうこそ、色々迷惑かけてごめんね」
「迷惑?」
エディットはヴェーラの膝の上に移動してきたキャリーバッグの中に視線を送る。開けられた天井からはウサギの姿が丸見えだ。その小さな背中にそっと指で触れてみると、思いのほか温かかった。
「あなたたちの存在が迷惑なんて思う人がいると思う?」
「思わないって言ったらそりゃちょっと傲慢じゃない?」
「はは、それもそうね」
エディットは苦笑する。ヴェーラの切り返しの速さに、エディットの頭脳を持ってしてもついていくのが精一杯だ。
「でもま、わたしたち天使みたいなもんだから」
「どっちかというとあなたは小悪魔でしょ」
――そこに的確なツッコミを入れるレベッカの知力にも驚愕する。
「ベッキーはお笑い芸人枠」
「なんで! そうなる!」
「自覚ないでやんの!」
「あ、あなたなんて、あなたなんて……イクラの乗ってない軍艦巻きよ!」
「なにその取ってつけたような悪口」
「悪口ってわかればいいのよ」
「悪口言ったらダメなんだよ。道徳道徳」
「ああ、もうっ! ああ言えばこう言う!」
まんまとヴェーラの術中にはまり、レベッカは悶絶している。
それを見てエディットはまた笑う。
「いくらでも迷惑かけてくれていいわよ。私たち大人があなたたちに課していることに比べたら、そんなの全然たいしたことない」
「わたしたちが迷惑かけてるってことは否定しない系?」
ヴェーラは破顔する。その笑顔は太陽のように眩しい。エディットは目を細める。機械の眼球が小さな音を立てる。
「だって、事実なんでしょ」
「そうだね。事実だよね」
ヴェーラはそう言うと、エディットの太腿に触れた。少し驚くエディットを見て、ヴェーラは少し悪い笑みを見せる。
「本当に困ったら、ひっぱたいていいよ」
「本当に困るまで叩かないように努力するわ」
エディットは肩を竦めてそう言った。