09-2-3:冷たい身体

歌姫は壮烈に舞う

 それから一ヶ月半、十二月も半ばの頃。ついに恐れていた事態が起きた。いつもなら誰かが帰宅するなり立ち上がり、頭を撫でろと前足をバタバタさせていたクレフだが、今日はエディットの姿を見ても、横になったまま身動きをしなかった。いつもより呼吸が早く、目も半開きだった。

「クレフ……」

 エディットはコートを脱ぎもせずに、クレフを抱き上げる。ウサギはいよいよな状態になるまでは、苦しいことを決して表に出さないのだという。どれだけ苦しくてもジッと耐える性質を持っている。そして耐えに耐え、いよいよ限界がきたらパタリと死ぬ。それが草食動物というものなのだと、あの獣医師も、ハーディの従妹も、ネットの情報サイトでもそう言っていた。

「なんでこんなことに」

 エディットは苦悩する。どうしてヴェーラが選んだ子が、よりによってこんなに早く……。どうしてあの子たちに十分な癒やしをあげられないの。どうしてわざわざ苦しませるようなことになるの。こんなんじゃ、私、何もしなかったほうが良かったんじゃないの。

 考えても仕方のないことが、いくらでも頭の中に湧いてくる。

 獣医師の言葉が蘇る。

 ――生き物を飼うという行為には、その最期の瞬間まで飼い主は自分自身と向き合い続ける勇気が必要なんですよ。

 勇気なんてない。なかったんだ。エディットは胸の苦しさを深呼吸で誤魔化そうとする。

 勇気がなかったとしても、最期の瞬間は確実に近づいてきている。看取らなければならない瞬間が。いつこの呼吸が止まってしまうのか。小さな心臓が動かなくなってしまうのか。エディットは「せめて」と祈る。あの二人が帰ってくるまでは生きていて、と。

「見送るのが私だけ、なんて、あんまりだもの」

 クレフは微睡まどろみの中にいるかのように目を半分閉じたり開いたりを繰り返している。呼吸が次第に落ち着いてきている。撫でる以外にできることはない。何もできない。病院に行く時間もないだろう。もうタイムリミット――そのくらいはエディットにも確信が持てる。

 その時、玄関が騒がしくなり、リビングの扉が勢いよく開いた。

「クレフは!?」

 ヴェーラはケージを見て、エディットを見て、その膝の上に小さな命を確認する。二人もまたコートを脱ぎもせずにクレフに駆け寄った。

「よかった、まだ……」

 ヴェーラは深く息を吐いた。二人はクレフがもう長くないことを知っていた。そして今日は何か強い確信のようなものを抱いてもいた。

「わたしね、後悔してる」

 エディットの膝で眠るクレフを撫でながら、ヴェーラがポツリと言う。

「わたしがクレフに苦しみを強要した。はたくさんあった」
「そんなことないよ」

 レベッカが涙を拭いながら言う。しかし、ヴェーラは首を振る。

「ベッキーは何度も決めようとした。わたしにチャンスを作ってくれた。でも、私が絶対にノーって。そんなこと絶対にダメだって、言い張った。ベッキーには決断する勇気があった。でも、わたしには、なかったんだ。一緒にいることが一番幸せだって、思い込みたかった」

 ヴェーラはエディットからクレフを受け取り、ソファに座った。弱々しく呼吸を繰り返すクレフの身体は、もう冷たくなり始めていた。レベッカはそんなヴェーラの隣に座ると、恐る恐るヴェーラの肩を抱き寄せた。

「そんなことないんだよ、ヴェーラ。私、卑怯なだけ。あなたが絶対にノーだって言うことを知ってた。安楽死なんて絶対に認めないって知っていたから、だから私は、その道を示したりした。あなたが絶対にそこに向かわないと知っていて、だから、その、私のためにそんなこと。だから、私に勇気なんてない。卑怯なだけ」

 レベッカの震える声が静かな部屋に柔らかく響く。ヴェーラはクレフを撫で、エディットは乾いた両目で二人を見ていた。

 クレフは目を完全に閉じ、そしてすぐに呼吸も止めた。

「クレフ……」

 ヴェーラの両目から涙があふれ出る。それはやがて嗚咽、慟哭に変わる。レベッカも声を出さないようにして泣いていた。エディットはただ息をひそめた。

「勇気も、覚悟も、わたしにはどっちも、なかった」

 ヴェーラは途切れ途切れにそう言った。掠れた、重たい声だった。

「いいえ」

 エディットは静かな声でそれを否定する。

「ヴェーラ。あなたがノーと言い張れたのは、あなたの覚悟の証拠よ」
「……そうなの、かな」
「そうよ、間違いない。絶対に間違いないわ」

 エディットはゆっくりと立ち上がってヴェーラの前で膝をついた。そして冷たくなっていく一方の小さな身体に触れる。

「あなたは立派にこの子の世話をした。短い間だったけど、この子、幸せだったと思う。だから今も、あなたのことを待っていたのよ」
「……だったら、いいな」

 ヴェーラはぼろぼろと涙をこぼし、しゃくりあげる。レベッカは歯を食いしばってヴェーラの肩を抱きしめる。エディットはクレフに触れるヴェーラの手に、自分の手を重ねた。

「つらいよ」

 ヴェーラは声を絞り出す。

「お別れする覚悟は出来ているつもりだった。だけど、その時になって、こんなにわたし、動揺してる」
「あたりまえじゃない」

 レベッカが言う。

「お別れの覚悟なんて、本当は誰にもできやしないわ。その時が来るまでの間、自分を誤魔化すための見せかけよ、覚悟なんて」
「そうだね……そうだったよ」

 ヴェーラは静かに同意した。

「明日、サヨナラしようね、クレフ」

 なんかじゃない。きみがわたしにくれたのは、そんなものじゃない。そんなものであるはずがない。――ヴェーラは目をきつく閉じて首を振る。

「哀しいね……」

 レベッカがそうささやく。その声がますますヴェーラの心を重たくする。肩に伝わるレベッカの感触が哀しかった。

「ベッキー、今夜は寝ないで」
「……ええ」

 レベッカは静かに頷いた。ヴェーラはレベッカに身体をすっかり預けた。

「わたしが寝るまで、寝ないで」
「わかってる」

 レベッカは頷き、ヴェーラの白金の髪プラチナブロンドを撫でた。

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