何度目だっけ?
ヴァルターは運転席に座るシルビアの凛とした横顔を盗み見て思う。その大理石のように冷たい横顔からは、彼女が何を考えているのかを読み取ることはほとんど不可能だ。シルビアはサングラス越しに一瞬ヴァルターを見遣り、ほんのわずかに口角を上げた。
「初めてそこに座っていただいたのが三年半前。今日でちょうど五十回目のドライブです」
「え? カウントしてたのか」
「報告書に書いてますから、間違いありません」
シルビアはしれっとした様子でそう言った。報告書というのは情報部向けのリーク情報のようなものだ。それを当人に向けて堂々と明かすのだから、シルビアはやはり得体が知れない――そんなことを思う。
「五十、か。そりゃ君の運転にも慣れるわけだ」
「恐縮です」
シルビアは遠慮なくアクセルを踏み込み、時速百キロの壁を楽々飛び越える。これでもいつもに比べればとても遅い。
「君がこのスピードってことは、俺に何か話があるってことだと思うんだが?」
「さすが隊長。というより、隊長の意見を訊きたいと思っています」
「俺の?」
「隊長が考えているのはヤーグベルテの切り札? それとも我々の?」
「うーん」
ヴァルターは腕を組む。
「正直どっちにも関心はないな。いずれにせよ、俺がどうこうできる問題じゃない」
「ヤーグベルテの切り札も?」
「わからんものを悩んでも仕方ない。とりあえず俺たちの超兵器レベルのサプライズは見込んではいるが、それもおよそ役に立つとは思わないな」
「そうですか」
車のスピードが落ち、時速八十キロ程度でキープされる。ヴァルターの動体視力では、壁に書かれた施工時のメモや傷すらはっきり捉えられる。
「でもまぁ、そうだな」
ヴァルターはまたシルビアを見た。
「戦力的にはほとんど壊滅していたはずのヤーグベルテが、この時期に主力をつぎ込んで逆襲してくるというのはちょっと不思議だ。専守防衛の精神をかなぐり捨てるほどだから、背水の陣。しかし、よほど勝算があるのだろう」
「私たちには何をされても文句を言う権利はありませんね」
シルビアは硬い声で言う。
「私たちはヤーグベルテに対してそれだけのことをしてきたのですから」
真正面を睨むシルビアは、唇を噛んでいた。ヴァルターは沈黙でそれに応える。
核やISMT、あるいはそれに匹敵する反応兵器や化学兵器、あるいは無差別爆撃で百万単位の民間人を殺戮した。軍の施設を狙ったのだとアーシュオン首脳部は主張するが、それはヴァルターにしてみても無理筋というものだった。誰がどう見ても、アーシュオンは堂々と一方的な――いわば大殺戮を繰り返してきたのだ。
ヤーグベルテの反アーシュオン感情は推して知るべしだ。まして何らかの新兵器が生み出されたということであれば、なおだ。AX-799以上の何かがあるという可能性が高い。
「だが、だからといって黙って殴り返されるわけにもいかない。ヤーグベルテが民間人の殺戮を行うというのなら――」
「やり返しますか?」
素早く繰り出された問いかけに、ヴァルターはまた沈黙する。そして絞り出すような声で言った。
「俺たちにできるのは敵を撃ち落とすことだけだ」
「そうとでも思わないとやっていられませんものね」
「俺は……別に敵が憎いわけじゃない。だが、殺しに来るというのなら、こっちも命をかけて立ち向かう。それだけだ」
「国家間の大義など関係ないと」
「……そこまで背負えるほどの人間じゃない」
ヴァルターは苦々しげに言う。
「国家の英雄ともいわれる隊長がそれでは、じゃあ、誰がそれを言えるのかという話になりましょう」
「そんなことをしたら情報部に消されるだろうが」
ヴァルターは慎重に言葉を選ぶ。シルビアはまた口角を上げた。
「その通りですね。私もあなたを撃ちたくない。だから、感謝しています」
「……君は何のために戦っているんだ」
ヴァルターは車載の音楽プレイヤーを操作する。勝手知ったる、である。プレイリストの先頭に出てきたのは「LOVE SONGS2」という無味乾燥なタイトルだった。興味を惹かれて再生をタップする。
そのラインナップは決して新しいとはいえないものだった。新しいものでも二十年前、古くは一世紀も前の歌が混じっている。
「私、いい趣味でしょう?」
「否定したら消されるだろう?」
「違いないですね」
シルビアは冗談とも本気ともつかない声でそう言って、小さく溜息を一つついた。
「私の戦う目的。それはひとえに任務だから、です」
「任務、か」
「そうです。単純で迷いがない理由でしょう? 私の行動はすべてが任務ゆえです。隊長は?」
「俺は、エルザを守るために戦っている、と言っていい。そのためにはアーシュオンがどうにかなられても困る」
「なるほど」
シルビアは思い切りアクセルを踏み込んだ。前方を走っていた陸軍の装甲車両を一瞬で抜き去る。
「隊長が戦うことで奥様を守ることができると?」
「何もしないよりはマシだ」
「そう、ですね」
シルビアはアクセルから気持ち足を浮かせる。時速百キロちょうどで減速が止まる。
「何もしないでいるよりは、何かできたと思い込める方がいいでしょうね」
「シルビア……」
ヴァルターは胸の奥に重たい何かを覚える。
「私たちの――」
シルビアはそこで一つ呼吸を整える。
「私たちの任務が空の上だけだったなら、どれほど良かったか。考えることが増えました」
「君たちは情報部ありきだからな」
「ええ。くだらない」
シルビアの声が掠れている。
「ほんとうに、くだらなくて。情報部だのなんだの。彼らの……いえ、私たちの行いは、およそ民主国家が聞いて呆れるようなものです。そしてそう思っていながらも、私は結局情報部の言いなり。その枷から逃げられない」
「君は――」
「私が私のままでいいとか、私の思うままにすればいいとか、そんなくだらないことは言わないでください、隊長」
先手を打つシルビア。彼女は優しいヴァルターならなんと言うかくらい、お見通しだった。ヴァルターは一瞬言葉を失ったが、すぐに首を振った。
「俺には情報部がどうのなんてよくわからん。君が俺を殺す可能性があることくらいは知っているが。彼らにとって一飛行士でしかない俺の価値なんて、せいぜいが喧伝工作の素材に過ぎない。しかも、俺が死んだとしても利用できる。俺の生死なんて関係ない」
「……ええ」
「だけどな、シルビア。マーナガルムとしての俺たちの任務はあくまで空だ。空を制る。シンプルにこれだけだ。空さえ守りきれば、負けない。きっと負けない。そうならエルザだって守れる。俺だって勝ち続ければ利用価値が出てくるかもしれない。そうなれば情報部だってあるいは、ってところさ。だから俺は戦う。戦わなくちゃならない。そう思っている」
ヴァルターはまたシルビアの美しい横顔に視線を飛ばす。シルビアは無表情を貫いていたが、やがて口を開けて笑い始めた。
「あはははは!」
シルビアらしからぬ笑い方に、ヴァルターは少しだけ動揺する。
「隊長はわかりやすいですね。呆れるほど、隊長らしい。あははは!」
「そこまで笑う必要あるか?」
「だって、なんか、夜が来るたびに一人で悩んでいた私が滑稽で。私、隊長に抱かれる想像しながらやり過ごしていたんですよ、毎晩」
「シルビア、ジョークがキツイぞ」
「そう、ジョークだからキツイんです」
シルビアはそう言って、これみよがしに溜息をつく。
「私、奥様に嫉妬してます。でも、だからといってどうこうするつもりはありませんから」
「わかってる」
「私はそこまで惨めな女じゃありませんから」
「わかってるよ。ありがとう、シルビア」
「そういうところ」
シルビアはアクセルを思い切り踏み込んだ。
「そういうところが私を傷付けるんです」
「……すまん」
ヴァルターは半ばわけも分からずに謝罪する。シルビアはまた溜息をついた。
「でも、そういう隊長じゃなければ好きになんてならなかった。本当に罪なパラドクスですね、こういうの」
シルビアはヴァルターに気付かれないように、小さく、しかし強く唇を噛んだ。