カティはまずヴェーラの部屋のドアを叩いた。だが、ヴェーラはカティの入室を拒否した。
「ごめんね、カティ。わたし、カティにどんな顔を見せれば良いのか、わかんないから」
室内からは掠れた重たい声が聞こえてきた。カティは胸がきゅっと締め上げられる感触を覚える。カティは言う。
「そのままでいい。久しぶりなんだから顔を見せてくれよ」
「だめ。ごめん」
ヴェーラの強い口調に、カティは首を振る。ドアノブに掛けていた手をゆっくりと離す。
「アタシさ、朝まではいるから。一度は顔を見たいよ」
「努力する」
それは涙声だった。
「ベッキーのところに行くから」
カティはそう言って、隣のレベッカの部屋に移動する。ノックをするとすぐに「どうぞ」と反応が返ってきた。
「よぅ、ベッキー」
「カ、カティ!?」
机に向かっていたレベッカが驚いた顔で振り返る。レベッカはノックの主がエディットだとでも思っていたようだ。
カティは後ろ手にドアを閉めて、少し腰をかがめて両手を広げた。レベッカは椅子を蹴って立ち上がると、そのままカティに飛び込んでくる。
「カティ! カティ!」
「つらかったな、ベッキー」
レベッカの背中を撫でながら、カティは労う。レベッカは子供のようにしゃくりあげて泣いていた。一分か二分か。二人はそのまま抱き合っていた。カティはただ黙って、レベッカは泣きながら。
「やっぱりカティがいないと駄目だ、私たち」
「アタシなんかが役に立つ?」
「カティじゃないと駄目」
レベッカはカティに抱きしめられたまま、そう応えた。
「ヴェーラもそう。私やエディットじゃどうしようもないの、もう」
「さっき声だけ聞いた」
「うん。あれからずっとあの調子。私はまだ全然マシな方だと思うの。だって、民間人を大勢殺したのは……私じゃないから」
「……セイレネスによる誘導でアーシュオン本土を焼いたって聞いたが」
カティの言葉を受けて、レベッカはようやくカティから離れた。その翳った緑色の瞳が、カティの紺色の瞳をまっすぐに捉える。理知的で深い視線を受けて、カティは意識を集中する。レベッカはぽつりぽつりと話し始める。
「クラゲを撃破できたところまではまだ良かった。艦隊を仕留め損ねたのも、予想外の要因があったから、まだある意味やむを得なかった。これもまだ良かった」
謎の銀髪の歌姫――その存在は気になったものの、未だに何も明らかになっていない。レベッカは小さく頭を振る。
「でも、その後の命令は酷かった」
「本土を適当に焼けみたいな命令だったそうだな」
そのことはカティの耳に入っていた。参謀部第三課にいる協力者からのリークだった。
レベッカは何度も頷いて、また唇を戦慄かせた。
「ねぇ、カティ。私たち、あと何度もこんなことをするの? させられるの?」
――そんなこと、アタシに答えられるだろうか?
カティは唇を噛んで答えとした。レベッカも言葉なんて求めてはいなかった。カティは再びレベッカを抱きしめた。そしてひょいと持ち上げてベッドに座らせる。カティもその隣に腰を下ろした。
「カティ……?」
「立ちっぱなしってのは良くない。落ち着こう」
「私、落ち着くなんて」
「ベッキー、ここ」
カティは自分のふとももを軽く叩いた。レベッカは少し頬を染めたが、すぐにそこに頭を乗せた。
「あったかい」
「だろ?」
カティはレベッカの灰色の髪を撫でながら、天井の方に視線を向ける。
「誰もが怖がっている。お前たちのこと、お前たちの力、お前たちがやったこと、お前たちにやらせたこと。それがどんな結末に結びつくか、それを怖がっている。国家間チキンレースは、もう止まれないところまで来ちまった」
カティは膝枕しているレベッカの小さな頭を見下ろした。その横顔は涙に濡れている。
「そして誰もが後悔してる」
「だれもが?」
「そう。ほんの一部の、本当に後悔すべき連中以外の誰もが」
カティはレベッカの肩に手を乗せる。
「でも、きっとこの流れは……もうどうしようもなかったんだ。そもそも誰にも止められるものでもなかった」
「どうしようもない?」
レベッカの虹彩が動き、横目でカティを捉えた。物騒な光がそこにあった。長い付き合いのカティでも、レベッカのこんな刃のような視線を見たことはなかった。レベッカはすぐに目を逸らしたが、カティはしばらく発話の能力を失ってしまった。
「どうしようもないで、私の……いえ、ヴェーラのつらさが片付けられてたまるもんか」
ぽつりとした呟きに、カティは胸を詰まらせる。レベッカは横を向いたまま、目を閉じた。
「私たちは、結局……無力なのね。圧倒的な破壊の力を持っていても、結局道具として使われるだけ」
正直で実直なカティは、「それは違う」とは言えなかった。事実、軍上層部はヴェーラやレベッカを戦争のための道具としか思っていない。エディットですら本音は違うが、建前ではそうだ。いや、多くの軍人たちは同様だろう。誰もこの大きな流れに抗うことはできないのだ。それは自分でさえ例外ではないだろうとカティは思っている。
痛むほどに眉間に力が入る。奥歯が欠けそうだった。カティは努めてゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「ヴェーラはね、直接聞いたの。その瞬間の断末魔。呪詛と言ってもいい」
ヴェーラは?
カティは視線を鋭くする。レベッカは相変わらず横を向いたまま、訥々と語る。
「弾頭の制御は、最終的には全てヴェーラがやったの。私の分も全部奪って。奪い取られたミサイルはほとんど人のいないところに落ちた。海や山奥みたいな」
制御を奪い取った? 何を言っているんだ?
「ヴェーラは自分が操っていた弾頭を都市部に落とした。それでも最後まで、直撃だけは避けさせようとしていたの。でも、私たちとミサイルの間には距離がありすぎた。細かなコントロールはできなかった。避けた先に都市があったりもした。もし私の制御を奪わなかったら、もしかしたらコントロールできたかもしれない」
「結果として、ヴェーラだけが人を殺した、と」
「ええ」
レベッカは身を起こして、少し躊躇した末にカティの肩に頭を乗せた。
「ヴェーラは命令にないことをしたの。私の制御を奪い取るっていう。だから結果として、あの子だけが断末魔を浴びた。私は後からその光景を目にしただけ。あの子のつらさに比べたらどうってことなんてない」
「つらさ、か」
カティはレベッカの髪を撫でた。
「お前も苦しいんだ。苦しさの比較なんてできやしいないよ、な?」
「でも! でも、私! ヴェーラと同じつらさなら、苦しさなら、どこまでだって耐えられる。そう信じてる。だけどあの子! 本当にどうしようもないの。同じ罪を背負わせてもくれない!」
「ベッキー。今はヴェーラのこととか、置いておけ。まずお前が傷を癒やすんだ」
「癒えないよ、こんなの」
「癒える」
カティは断言した。レベッカはカティを凝視し、うつむいた。カティはまたレベッカを抱き寄せて囁く。
「どんな出来事でも、ちゃんと過去になる。辛くて重たい現実であればあるほど、過去になった時に力になる」
「カティ……」
「説教臭くなってすまんな。だけど、大丈夫だ。お前たちは現実から逃げていない」
「思い切り逃げてる気がする……お仕事もしてないし」
「そんなことは問題じゃない。頭の中の話だ」
カティはレベッカの髪をまた撫でる。艶のある繊細な髪だった。
「さて」
カティはヴェーラの額にキスをした。
「えっと……」
動揺するレベッカにカティは小さく笑う。
「額くらい良いじゃないか。ヴェーラじゃないと駄目だったか?」
「そ、そういう……」
「お前、ヴェーラのことそういう目で見てるだろ」
「え、えっと、そんな、ことは」
「少なくともアタシにはお見通し。応援するよ」
「あ、ありがとう」
済し崩しに認めさせられたレベッカは、頬を染めながら頷いた。
「さて、ヴェーラに会ってくるか」
「待って! それはまだ」
「アタシにはアタシの覚悟ってものがあるんだよ、ベッキー。アタシはヴェーラと話をしなくちゃならない」
「責めるのは、やめて。ヴェーラが壊れちゃう……」
レベッカの表情が曇る。しかしカティは首を振って立ち上がる。
「アタシにとっては、ベッキー、お前のこともヴェーラと同じくらい大切なんだ。ヴェーラに二度と同じことをさせたくない。ベッキーに同じ悲しみを負わせたくなんてない。だから、アタシが話をつける。お前たち二人が傷つくことがあるとしたら、アタシは全力でそれを排除する」
「でも、でも、カティ。ヴェーラは本当に傷ついてる。簡単に死んでしまいそうなくらい」
「だとしても、だ。このまま時間が過ぎるのを待ってたら、本当に取り返しがつかなくなるかもしれない。アタシは何もしない後悔だけはしたくない」
「でも!」
「いいかい、ベッキー」
カティはベッドに座ったままのレベッカの頭に手を置いた。
「心の傷は時間が癒やしてくれる。よくそう言われる。アタシもずっとそう言われ続けてきた。けどね、時間は何もしない人間には、本当に何もしちゃくれない。時間が手を貸してくれるのは、その人が精一杯に努力をしている時だけなんだ。足掻いてもいい、怒ってもいい、泣き叫んだっていい。でも、ただ自分を責めて閉じこもっているだけの人間は、その時間にさえ置いていかれるんだ」
「カティ……」
レベッカは何も言えなくなった。カティの壮絶な過去や経験を知っているからだ。
「なぁ、お前さ、ヴェーラにその苦しい思いを伝えてないんだろ、言葉では」
「伝わってるとは思う」
「そうじゃない」
カティは首を振る。
「お前たちの不思議な能力で、確かに情報は伝わっているだろうさ。だけど、思いは言葉にしなければ本当には伝わらないとアタシは思っている。お前たちは言葉が足りない。だからな、少し落ち着いたらちゃんと二人で話をしろよ」
「……はい」
レベッカは頷いた。カティはドアを開ける前に、ベッドから動けずにいるレベッカを振り返る。
「前を見ている限り、絶対に物事はうまくいく」
「カティ、でも、私は……」
「一人でやる必要はない。アタシも、ヴェーラも、姉さんもいる。一人で悩むな」
「でも、私……!」
「ベッキー」
カティは一度レベッカの前に戻った。
「お前はヴェーラの苦しみを共にできないことに苦しみ悲しんでいる。そうだよな」
「うん……」
「アタシもお前のそのつらさを分けてもらえないことに悲しんでいる」
「でも」
「つらいから他人に味わってほしくない、そういう思いだろう?」
「は、はい」
カティの鋭い言葉がレベッカを貫く。レベッカは頷くことしかできない。
「アタシたちがお前たちに頼られてないわけじゃないことはわかってる。お前の優しさがそうさせているってことも理解している。だけどな、寂しいよ。もっと弱音を吐けよ。アタシだけにでもいいから。これからもっともっとつらいことが起きる。だけど、そのつらさや苦しみは、ちゃんとアタシにも押し付けてくれないと困る」
カティの掌がレベッカの頭頂に体温を伝える。
「心配するな。アタシはアタシにできることをちゃんとやるから」
カティはそう言うと、部屋から出て行った。
「カティ……」
ありがとう、ごめんなさい――どちらを先に言うべきだったのか。レベッカは唇を噛んで項垂れた。