ヤーグベルテ統合首都、春の終わりの頃、二〇八八年五月二十六日、夜間――。
エディット邸のリビングに、ヴェーラたち四人が久しぶりに集合していた。エディットは次の作戦のために連日連夜の会議で帰ってくることが稀だったし、カティに至っては逆襲作戦の随伴戦力として八面六臂の大活躍を見せていたおかげで、帰宅は実に二ヶ月ぶりだった。そしてその甲斐もあって、「空の女帝」の圧倒的戦力は国民により広く深く知れ渡るに至っていた。
リビングのテーブルの上には、大量のピザと炭酸飲料、そしてアルコールの類が山となって置かれていた。ヴェーラは徹頭徹尾、黙々とピザを胃の中に移動させる作業に取り組んでおり、レベッカはサラダをウサギのようにもふもふと食べていた。エディットは言うまでもなく、室内着を着崩した状態で浴びるようにビールを飲んでいる。カティは持参したスパークリングワインを飲みながら、右手で紙媒体の雑誌をめくっている。
「わざわざ紙のを買って持ってくるんだもんなぁ」
「いや、ヴェーラ。これには事情があってな。戦闘機の機内大気の時って、携帯端末が使えないんだよ。そうなってくると下手すると数時間待機になって暇になる。そこで使えるのがこういう紙媒体」
カティにしては流暢な説明に、ヴェーラは「お、おう」と圧倒される。
「戦闘前に、軍隊アイドル殿のひらひらした服とか、すらっとした足とかを眺めておくのは、脳にいい」
「やめてよぉ。そういう目で見てるの?」
「きれいなものは見ていたいだろ」
カティはヴェーラとレベッカを横目で見て、また雑誌に視線を戻す。
「ていうかさ、カティの身体だって超絶綺麗じゃん」
「自分の身体は筋肉の付き方くらいにしか興味がないな」
カティは至極真面目な顔でそう答えた。ヴェーラは「さいですか」とまたピザを食べる。
「しっかし、かわいいなぁ、お前たち。妖精か天使みたいだな」
カティは大写しになっているページを開いてヴェーラとレベッカに見せる。エディットもいつの間にか寄ってきていてそれを覗き込んでいた。
「音源ももちろん全部聴いてるんだぞ、ヴェーラ、ベッキー」
「もー、やめてよぉ。恥ずかしいなぁ」
「こ、こっそり、こっそり聴いてくださいね」
ヴェーラは顔を真っ赤にしながらそう言った。エディットは自分の指定席に戻ると、少し沈んだ声を発する。
「広報活動、資金集め、それは来るべき日のための下準備……」
「その日っていうのが、明日から始まる作戦ってことか」
カティは憂鬱な口調で応じた。そして雑誌を閉じてテーブルの上に置く。エディットはため息でもって肯定の意思表示とした。カティはワインで唇を濡らす。
「今回はアタシたちエウロスも、クロフォード准将の第七艦隊も後方待機。全く問題ないと思うけど、マーナガルム飛行隊にだけは気を付けろ」
あの戦いの後も、カティはマーナガルム飛行隊と二度戦っている。その際にも熾烈を極める戦闘が展開されたのだが、結果としては双方被害ゼロで終わっている。
「マーナガルム飛行隊って、すぐ判る?」
ヴェーラが新たなピザを切り分けながら尋ねる。
「純白の機体が二機混じっている部隊だ。純白の戦闘機は他に見たことがないから、白いのを見かけたら間違いなく奴らだ。マーナガルムは全部で四機編成なんだが、全員が全員恐ろしく強い。うちのエンプレス隊が十二機で取り付いてどうにか被害なく押し返せるくらいだ。被害を覚悟すればある程度はやれるとは思うんだが、とにかくギリギリだ」
「ひえぇぇ」
「あのエンプレス隊でやっとなんですか、カティ」
ヴェーラとレベッカの反応に、カティはまた生真面目に頷いた。
「もっとも、お前たちなら多少の攻撃ならものともしないだろう。万が一被弾したとしても、あの巨大戦艦だ。たいした打撃にはならないさ」
「カティにしては楽観的で雑な分析だねぇ」
ヴェーラが鼻歌を歌いながらそう言った。ピザを一切れ、レベッカに取り分けている。その横からエディットが一切れ持っていく。
ソファに戻るなり、エディットはピザをビールで流し込んだ。
「だいじょうぶよ、今回は。アダムスのクソ野郎の作戦指揮というのがとてもとても気に入らないけど。でも第七艦隊も百キロの位置に控えるし、万が一不測の事態が起きたとしても大丈夫よ。クロフォード准将は作戦に於いては信頼できるから」
「うちの母艦も近くに潜伏待機するからな」
カティはワイングラスを空にした。炭酸が食堂をすっきりと洗い流していく。エディットはいつの間にか冷蔵庫のところにいて、冷えたビールを手に戻ってくる。
「最強の艦隊と飛行隊がバックアップ。アダムスの野郎のくせに、盤石の体勢を確立したと評価するわ。あいつ、もともと保身の天才だから、そういうところは本当に慎重にやるのよね」
「嫌いでも評価はするんだね」
ヴェーラが言うとエディットは「当然でしょ」と口にする。
「嫌いな相手ほど適正な評価が必要よ。さもなくば逆に足元をすくわれることになる。
ともかく、今回の作戦では第三課に主導権がある。私が政治的に敗れてしまったのもそうだけど、それ以上にあいつの根回しが巧みだった。悔しいけど」
「今回、クラゲはどうなんでしょう」
レベッカの問いかけに、エディットは「そうね、ベッキー」と呟く。
「多少の懸案材料にはなっているけど、アダムスたちは脅威とまではみなしていない。私もそれには同意見。あなたたちがいまさらクラゲに苦戦するとは考えにくい。それにそれなりに高価で、撃沈には国民感情の反発というリスクを招く代物である以上、安易にはぶつけてこない――そういう考え」
「確かに、そうでしょうね。もし万が一出てきても負ける気はしません」
レベッカにしては珍しく、強い口調だった。ヴェーラはその肩を抱きつつ「だよね」と頷く。その手にはジンジャーエールがある――のだが、その半分はビールでできている。
「でもさ、またいっぱい殺すんだよね」
ヴェーラがぽつりと言う。
「最初に三百万殺したから後は平気だろ、みたいな感じでみんながわたしたちに人を殺させる。わたしたちはノーリスク。一方的な殺戮を命じられて、その命令のままにわたしたちは大勢殺してきた。地獄行きだ」
「……あなたたちには申し訳ないと思っている」
エディットはビールの缶を握りつぶしながら呻く。が、ヴェーラは間髪入れず「仕方ないよ」と応えた。
「わたしのできることって、これだけなんだ。平和のためにできることって、こうして圧倒的な力を見せて、圧倒的な勝利をもたらすこと。これを繰り返せば、アーシュオンはいつか諦める。一世紀以上続いてる戦争だって終わっちゃうかもしれないでしょ。ばかばかしくなってみんな武器を捨てちゃうかもしれない。だって、強すぎる相手には向っても無駄だもん」
ヴェーラは半ばビールのジンジャーエールを一口飲む。
「だいじょうぶ。絶対に平気とは言えないけど、でも、だいじょうぶ。この一戦でアーシュオンはみーんな逃げちゃう。ヤーグベルテだって、そんな一方的な戦いを見てしまったら、みんなもうやめてあげてってなると思うんだ。だから、今回は徹底的にやらせてもらう。アーシュオンには可愛そうだと思うけど、文字通りに完膚なきまでに、ね」
「ヴェーラ……」
呼びかけるレベッカの声は少し震えている。ヴェーラはあっけらかんとした表情で、何食わぬ顔でカティのワインを少し拝借した。
「美味しい!」
「お、わかるか」
カティはグラスを掲げてみせると口角を上げる。紺色の瞳が柔らかく光を反射している。
「高いワインでしょー」
「残念、フェアで売ってたヤツいやつ」
「ええ、そうなの」
「まだまだ舌が育ってないな」
カティはニッと笑い、ワイングラスを一つ持ってきた。
「飲むか?」
「飲む飲む」
ヴェーラは嬉々としてグラスを受け取って、ワインを注いでもらう。
「ねぇ、ヴェーラ」
「ベッキーが何と言っても飲むもん」
「そうじゃなくて。いや、それはあるけど、でもそうじゃなくて」
そこでレベッカが意を決したように両手を握る。
「ヴェーラ、ねぇ。今度は私が攻撃を担当したい。私にも――」
「い、や、で、す、よーだ」
ヴェーラは食い気味にレベッカの提案を却下する。
「ベッキーはバックアップ。わたしが殺す」
「ヴェーラ、でも、あなた……」
「これはね、あの時みたいな咄嗟の判断じゃないよ。考えた結果だ。しっかりと、ね」
「でもヴェーラ、私だって!」
「手を血に染めたい?」
ヴェーラは正味五枚目となるピザを頬張りながら、モゴモゴと尋ねる。レベッカはその直接的な表現を受けて、表情を強張らせた。ヴェーラはごくんとピザを飲み込む。
「でしょ? ね? 嫌なもんは嫌なんだ。わたしはさ、ベッキーにあんな思いは絶対にさせたくないんだ。このことについては、わたしはほーんのわずかも迷ってない。それになにより、わたしはアーシュオンを皆殺しにする心の準備はばっちりさ」
ベッキー、君の覚悟は甘いんだ――レベッカにはそう聞こえた。
「でもねベッキー。君は確かに直接人を殺してはいない。だけど、同じことなんだ。わたしがこれだけの数の人間を殺すことができたのは、誰あろう君のバックアップのおかげだ。そしてたぶん、この考え方は正しい」
「それは……そうかもしれないわね」
レベッカは眼鏡の位置を直しながら言った。二人の様子を見て、エディットが小さく息を吐く。ヴェーラはニコリと笑って言う。
「だいじょうぶだよ、エディット」
「ヴェーラ……」
エディットは気付いていた。ヴェーラのその空色の瞳は、微塵も笑っていないことに。その瞳は完全に奈落だった。完全な闇とでも言えばいいのか。とにかくヴェーラの瞳の奥にあるものは虚無だった。
「だいじょうぶ、次もちゃんと――」
「人を殺すことが罪だというのなら」
ヴェーラの言葉にカティが割り込んだ。
「アタシだってもう山ほど十字架を背負ってる。でも、アタシは自分でこの道を選んだ。お前たちは選ぶ権利すらなかった。お前たちのことを軍部は兵器とみなしている。人間としてカウントしていない。表で何と言っていようとね」
「ひっどい話だと思うけど、まぁ、そうなんだろうね」
ヴェーラはカティとグラスを合わせながら頷いた。
「ISMTをも凌駕する超兵器、と、軍のプレスでも言われてたしね」
「大量殺戮兵器として国際的に認定もされた」
レベッカが絶望的な口調で言った。ヴェーラはそんなレベッカの肩をまたも抱いて、「まぁまぁ」となだめるような声を出した。
「アタシからお前たちに言えることは一つだ。死ぬな。それだけだ」
カティは二人を見て言った。二人の歌姫は小さく頷く。
「誰を殺そうがどうだろうがどうだっていい。お前たちは生き続けなければ。どんな手段を使ってでも生きていれば、それでいい。だからそのために必要なことは、機械になることだ。感情や感傷は、真剣勝負にあっては邪魔だ」
「それがエウロスの強さなのかな」
「そうだ、ヴェーラ。アタシたちは戦っている間は、人間性を捨てる。それゆえの強さだ」
カティの言葉の説得力に、ヴェーラたちは是非を唱えることができなかった。現実として、カティたちは無敵なのだ。
「どんな非道と言われようと、お前たちは死ぬな。お前たちのためじゃない、アタシのために、生きろ」
「死ぬのならカティのためにって?」
「アタシのために死ぬのだ、か」
カティは小さく笑った。
「国家や大義のために生きろというより、よっぽど意味がありそうだな」
「いいね、わたしのために死ぬのだ、って」
ヴェーラは笑う。
「わかったよ、わたし、ちゃんとカティのために生きるよ。ベッキーやエディットのためにもね」
「安心した」
エディットは肩を竦めてみせた。
「私だけ、蚊帳の外かと思っちゃったわ」
「時々エディットのことは嫌いになるけど、でも、わたし、エディットのこと大好きだよ、基本的には」
「……ありがと」
エディットは目を閉じる。口の中に残ったビールの味はひどく苦かった。
「さ、明日の作戦に障る」
カティは立ち上がる。
「そろそろ休もう。ま、作戦が始まったらアタシは母艦で昼寝三昧の予定だし、姉さんは執務室でサボり放題になるだろうけど。という未来にするためにも、ヴェーラ、ベッキー、頼むぞ」
「二人楽しすぎじゃない?」
ヴェーラの剣呑な目を受けて、カティとエディットは小さく笑う。ヴェーラもケラケラと笑っている。そんな三人を尻目に片付けをしていたレベッカが「あ、そうだ」と取ってつけたように口に出した。
「ヴェーラ、お風呂」
「もー、ベッキーは一人で身体洗えないのぉ?」
「い、一緒に入るなんて言ってないでしょ」
「じゃぁ、わたし先に入るね」
「え……」
絶望的な表情をするレベッカに、ヴェーラは吹き出す。
「わたしに取り繕うのは禁止だよ、ベッキー。きみがわたしを愛してることは知ってるんだ、わたし。だから今日は一緒にお風呂に入って、一緒に寝よう。いいよね」
テキパキと片付けを手伝いながら、ヴェーラは微笑んだ。