二〇八八年六月十二日、早朝――。
アーシュオン第四艦隊は三個艦隊相当の戦力を動員し、未だ暗い海原に重層な陣を展開していた。対するヤーグベルテは、クロフォード准将率いる第七艦隊のみ――表向きは――だ。ヤーグベルテ第七艦隊は、第四艦隊に誘い込まれた体を装い、三倍もの戦力と正対することと相成った。
そんな第七艦隊旗艦、空母ヘスティアのCICにて、第七艦隊の司令官であるところのリチャード・クロフォードがマイクを握っている。
「ヴェーラ・グリエール、レベッカ・アーメリング。敵は東に三百キロ。見えているな?」
『敵艦隊、すべて識閾下に入っています』
レベッカが応じてくる。ヴェーラも「同じく」と伝えてくる。クロフォードは敵艦隊が半包囲体勢を敷いてくるのに合わせて後退を指示する。第七艦隊は時間を稼げればそれで良いのだ。距離はまだある。長距離ミサイルも脅威にはならない。クラゲは歌姫たちが索敵してくれている。
「よし、ふたりとも。戦闘行動を開始せよ」
『ヴェーラ・グリエール、了解』
『レベッカ・アーメリング、了解しました』
二人の声は緊張を孕んでいる。初の現地実戦だ、無理もない。いくらシミュレータで訓練を重ねたとはいえ、実機――戦艦の癖もまだわかるまい。
「クロフォードより、歌姫。艦体制御の類はすべて艦長を信じろ。お前たちの船の乗員は、百戦錬磨の強者で揃えてある。心配するな。お前たちがやるべきことをやりさえすれば、必ず圧勝できる」
クロフォードにしては楽観的な表現だったが、彼は誰かがミスをすればそれが脆くも崩れ去ることを知っている。それに今この戦いでは、ただ勝つことは誰も求めていない。明らかなる完全な勝利――政府も国民も、もちろん軍部も、それしか求めていないのだ。戦艦が中破でもさせられようものなら、その全責任はクロフォードにのしかかってくるだろう。
頼むぞ。
クロフォードは思わず呟く。事ここに至っては、もはやクロフォードにできることはないのだ。歌姫たちが上手くやってくれることを祈る他には。
「ああ、そうだ。グリエール、アーメリング。第四艦隊を殲滅することは第一目的ではあるが、第四艦隊所属の飛行隊、マーナガルムには注意しろ。そして可能な限り撃破しろ。奴らは危険過ぎる」
『マーナガルム。わかりました。純白の機体を擁する部隊ですね』
レベッカが機敏に応答してくる。
『ヴェーラ、最優先でマークしましょう』
『了解。第四艦隊とぶつかる前に飛行隊が出てくるはずだ。まずは彼らを殲滅する』
『そうしましょう。放置しておける敵ではなさそう』
クロフォードの読みでは、包囲網の完成に焦れた第四艦隊はそろそろ飛行機を飛ばしてくるはずだ。そのタイミングで第七艦隊は反転して全速後退、舞台をニ隻の戦艦に明け渡す。一瞬の判断の迷いが第七艦隊に被害をもたらすだろう。
『クロフォード准将』
その時、別口の通信が入る。ホットラインに直接通信できるのは、(陸上の司令部を除けば)艦隊後方に控えているエウロス飛行隊隊長、カティ・メラルティンだけだ。艦橋のメインスクリーンの右側に小さく顔が映っている。
「なにかな、メラルティン少佐」
『自分がそばにいることでセイレネスの活性は上がる。そう聞いています。万が一の際――』
「その際には君の判断で空に出てくれ」
『了解』
「ただし、他のエウロスは出すな。戦艦にだけ花を持たせたい」
『承知しています。我々はあくまで囮、いえ、戦艦の隠れ蓑ですか』
「そういうことだ。さて、敵さんが動くぞ」
『わかりました。では』
カティはさっさと通信を切る。クロフォードは苦笑しつつ、全艦に反転を命じる。敵の空母群に動きがあったからだ。
あの子たちがここまで大人になるとはね。
士官学校で出会ってから、もう六年になろうかという頃合いだ。三人とももはや立派な成人だったし、精神的にも大人になってしまった。クロフォードの中ではヴェーラたちはまだまだ子どもなのだが、それでももう一端の軍人として育ってしまったのだということを感じざるを得ない。
それは少し寂しくもあった。
しかし、歌姫たちの軍事的、あるいは社会的役割を知る者としては、同情で動くことはできなかった。クロフォードたちは、歌姫を徹底的に利用しなくてはならないのだ。投じられた甚大な税金を考えれば、ヴェーラとレベッカは、国家のために最大限に活用されなければならないのだ。そこに人権など、考えてはいられない。国民の税金という投資に対して、最大のリターンを返す。その目的のためには、手段を選ぶ自由もない。
「戦艦メルポメネ、戦艦エラトー。各艦、準備はいいな」
クロフォードの乗る第七艦隊旗艦、航空母艦ヘスティアが、超巨大海上構造物――戦艦とすれ違う。航空母艦のニ倍にも迫るスケールの艦である。あまりにばかげたそのサイズ感は、何度見ても笑えてしまう。駆逐艦クラスなどは、体当たりでも粉砕されてしまうだろう。
各戦艦の艦長から「戦闘行動準備よし」の応答がある。
「クロフォードより第七艦隊へ通達。全艦、このまま輪形陣を維持しつつ西進し戦闘海域を離脱! 然る後反転し、待機。」
『エウロス飛行隊は母艦リビュエと共にこの場で待機。万が一の際は支援行動を実施する』
カティがすかさず指示を明確にする。クロフォードは頷く。
「さすがはシベリウス大佐が後継者として選んだだけある。良いスピード感だ」
エウロス隊長、か。
カティ・メラルティン。クロフォードにもいささか読めない経歴の持ち主だ。アイギス村襲撃事件と士官学校襲撃事件。無関係なようにも思えるが、偶然と言うには出来すぎてもいた。なぜならどちらの大事件にも、その中心にはカティがいたからだ。そしていまや、ヤーグベルテの最強の戦力、エウロス飛行隊の隊長だ。サクセスストーリーとしては、あまりにも良く出来ていた。或いは誰かが仕組んでいるのか? だとしたら、何のために?
クロフォードは督戦席に腰を下ろすと腕と足を組んだ。
いや、今考えることでもない。
『クロフォード准将』
ヴェーラの声が聞こえてくる。その声は硬い。過度な緊張状態が続いている。
「グリエール、アーメリング。君たちに求められているのは圧倒的な勝利だ。圧倒的火力で第四艦隊を殲滅せしめよ。第四艦隊が潰滅させられれば、アーシュオンはおいそれと出張っては来られなくなる。平和への第一歩だよ」
『平和のために人を殺すだなんて、とんだ欺瞞』
ヴェーラがボソリと言う。クロフォードは敵の艦載機が飛び始めたのを確認しながら諭すようにゆっくりと伝える。
「グリエール。我々は殴られ続けてきた。もはや言葉での解決ができる段階ではない。誰がどう言ったところで、我々は殴られ続け、奪われ、殺され続けてきた。その我々は力を手に入れた。専守防衛の錦の御旗が降ろされた今、我々にできることは、同じ痛みをアーシュオンに教え、彼らに我々の苦しみや怒りを理解してもらう他にない」
『それじゃアーシュオンもまた同じことをするよ』
「だからといって、我々が殴り返すのを我慢させられる道理はなかろう?」
クロフォードの言葉にヴェーラは黙り込む。
「君が国民全員を納得させられるだけの言葉を持つのなら、それを行使するがいい。戦争で家族や恋人を失ったものは大勢いる。彼らの不幸は、そもそもアーシュオンが武力行使をしなければ生まれなかったものだ。彼らは家族や恋人のために戦う。君はそれを否定できるのか、ヴェーラ・グリエール。復讐を誓った彼らの信念を、間違えていると糾弾できるのか、君には」
『それは……』
ヴェーラは口籠る。
クロフォードは表情を引き締め、深く息を吸った。
「戦艦メルポメネ、および、エラトー。目標、敵第四艦隊。突撃し、殲滅せよ。戦闘行動、開始!」
『アーメリング、了解、突撃します』
『グリエール、同じく』
女神よ、怒りを歌い給え――か。
クロフォードは遠ざかっていくニ隻の戦艦に思いを馳せた。