これ、夢? かな?
レベッカは周囲を見回す。何もない、色もない。強いて言えば真っ白な空間だ。どこまでも同じ白が広がっていて、この空間の全体を把握することはできない。レベッカ自身の影もないのだ。
マリア?
目の前に現れた黒髪黒瞳の少女。それは間違いなく見覚えのある顔だった。
しかし、その顔はいつもよりも遥かに鮮明で、息遣いさえ感じられるほど生々しい。レベッカはしげしげと自分を見つめる少女を観察する。
そうだ、私いま、セイレネスでの実験中だった。……だったよね?
レベッカはようやく自分が何をしていたのかを漠然と思い出す。あの戦いから一週間が経過していたが、レベッカとヴェーラには休息は与えられなかった。戦艦の運用コストは莫大なものがある。だから帰路に於いても遊ばせておくわけにはいかない――それが議会の意見だった。それは、マスコミが「税金の有効利用を促す」と正義感を発揮した結果でもあった。
軍隊アイドルとしてすでに十分な知名度と人気を獲得していた二人の歌姫が、あの恐るべき戦闘能力を示した戦艦の操り手であることについては、国民は驚きをもって迎え入れた。そして戦闘時の映像から聞こえてきた不思議な音に、それをリアルタイムで観た国民の大半の精神に、何らかの影響が現れた。端的に言えば、躁や鬱といったものである。
それはこの時点ではまだ有意に関連があるとは言い得なかったが、早くもセイレネスの危険性を示唆する専門家たちが現れた。
その事実については、すでにクロフォードを通じてレベッカやヴェーラにもたらされていた。しかしこれだけの大戦果を挙げた事実がある以上、具体的かつ分かり易い証拠のない危険性の示唆については、多くの国民が無視した。軍としても、故意に無視した。
そんなことより――レベッカは目の前の暗黒の少女、マリアを凝視する。
自分より若干幼く見えなくもないが、同年代と言われればそうとも言える。もしかすると無垢で美しい笑顔が、その全体を幼く見せているのかもしれない。長い漆黒の髪は、この白い空間に於いてはひときわ目を引いた。深淵の瞳はレベッカを捕らえ切っていた。レベッカは目を逸らすことができなかった。
「あなたはどこから入って来たの? セイレネスに干渉したの?」
「どこから? いえ、それは違います。私はずっとここにいました。この空間はそもそもが私たち、OrSHのもの。そのリソースの一部を物理層ニ都合よく反映させているに過ぎないのよ、お姉さま」
「何を言われているのかさっぱりだわ」
レベッカは腕を組んで眉根を寄せる。マリアはにこやかな表情を崩さぬまま、腰の後ろで手を組んでレベッカに半歩近づいた。彼我の距離は四歩半だ。
「マリア。あなたがセイレネスをどうにかできる、ええと、その、オーシュという存在だということはわかったんだけれど。私たちもその一人だということもわかったつもり。だけど――」
「今はそれだけで十分です、お姉さま」
マリアの動脈血色の唇が、優しく弧を描いている。
「私の役割はまだまだ未来にあるのです。だから今はまだ、お姉さまたちをお手伝いすることはできません。苦しみも、悲しみも、孤独も」
「未来にある?」
「ええ、未来です。私の本当の役割は、次世代のディーヴァたちと共にあるから」
「次世代のディーヴァって?」
レベッカの問いかけに、マリアはまた一歩近づいた。
「歌姫は地に満ちるのです。そしてその時、世界はシフトすることになるでしょう。そのために、その時をもたらすために、お姉さまたちは創られた。私も、また、そうです」
「歌姫が地に満ちる? 私たちみたいなのがたくさん出てくるっていうこと?」
「イエス。歌姫は世界を覆う。世界は歌に包まれる。その先にあるのが平和なのか、混沌なのか。それは我が創造主のみが知ること」
「……ごめんなさい。さっぱり、わからないわ」
レベッカは顎に手をやって、言った。マリアは微笑みを絶やさない。
「十年後くらいまでには、きっとこの意味が理解できるようになります」
「十年……?」
それはまた遠い未来だなとレベッカは一瞬空中に視線を飛ばす。マリアはレベッカにくるりと背を向けた。
「そう、十年。歌姫戦艦は、そのためにある。歌姫戦艦は、次世代の歌姫を生み出すために創られた。いわゆる増幅器のようなもの。そして最後はエキドナに繋がるの」
「エキドナ……?」
「そう、エキドナ。すべての母にして、共鳴させる者。彼女という媒体を通じて、セイレネスの論理領域は加速度的に拡大します」
ええと? ええと……。
はぁ……。
多分、これ以上の会話で何かを得られることはないんだろう。レベッカは思わず座り込みたくなったが、何故か身体が動かなかった。
その瞬間、マリアがまたレベッカに向き直り、つかつかと歩いてきて、そして、抱きついた。レベッカの背にその小さな手が触れるのがわかる。驚いて硬直するレベッカに、マリアは囁いた。
「お姉さまたちは、決して離れてはならない。決して」
「言われなくても、離れたりなんかするはずがないわ」
レベッカが言うと、マリアはその暗黒の瞳でレベッカを凝視する。レベッカは息を呑む。
「早くあちらの世界でもお姉さまたちに姿をお見せしたい。でも、それはまだまだ先。私がもっとお姉さまたちに干渉できるようになれば、少しは」
「マリア……?」
「お忘れなきよう。私は何があろうとお姉さまたちの味方です。お姉さまがヴェーラお姉さまを想うのと同じように、私もまたお姉さまたちをお慕いしております。それだけは」
マリアの姿が薄れていく。
「それではまた、お会いしましょう」
「待って!」
レベッカは呼びかけたが、マリアの姿は戻っては来なかった。
『ベッキー! ベッキー!? 大丈夫? 起きてー! おーい!』
突然空間が暗黒に変わる。いや、違う。ここはコア連結室だ。レベッカはヴェーラの喧しい呼びかけを聞いて我に返る。
『ベッキー、起きてるー? おーい!』
「あ、うん、ごめんなさい。少し――」
『ははーん、暗くて温かいからって本気寝してたでしょ』
「う、うん。そうかもしれない」
やっぱり今のは夢だった? それにしては鮮明な……。
『もぅ! 珍しいことしないでよ。わたしみたいでしょうが、そんなん。ほんと、心配したよ!』
「ご、ごめんなさい、ヴェーラ。疲れてて」
『わかる。わたしもヘトヘトだよ。でもやっとこの艦から降りられるよ』
「港に?」
『うん。後三十分くらいで降りられるよ。エディットとカティも待ってるって、クロフォード提督が教えてくれたよ』
そっか。
レベッカはゴーグルを外し、ゆっくりと立ち上がる。自分の指先がほんのわずかに確認できる程度の暗黒の空間だ。ノイズの一つもない、落ち着く空間だ。
「帰ってきたのね。ずいぶん遠い旅をしていたみたい」
『出港から半月も経ってないけどね。でも、わたしたちは変わっちゃったかもね』
「うん……」
『だいじょうぶだよ、わたしは。だいじょうぶ。でも、つらいよね』
「ええ」
レベッカは沈鬱な声を出した。ヴェーラの呼吸が静かに伝わってくる。
『でもわたし、エディットやカティに心配かけたくないんだ』
「ヴェーラ、あなたはまたそうやって自分で――」
『……とは言ってないよ、ベッキー。わたしはきみを抱きしめたいんだ。いま、猛烈に』
ヴェーラの言葉にレベッカは頬が熱くなったのを感じた。
『きみには本気で、本音で、話をする。わたしはきみにだけは地獄まででも付き合ってもらうつもりだから』
「そうね。私もあなたを地獄まででも追いかけていく」
『……ありがと、ベッキー』
ヴェーラの声は掠れていた。
その奥には、底知れぬ奈落がある――レベッカはなぜだか強くそう感じたのだった。