ヴァルターは露骨に身構えた。エディットはその顔から笑みを消し、機械の瞳でヴァルターを捕捉する。ヴァルターは視線を逸らすことができなくなる。
「何かの協力というのは……?」
「なに、拷問や人体実験とは違う。これは保証するが、貴官の心身に危険の及ぶような実験ではない」
「……それの目的は?」
「我が軍の戦力拡充のため。いや、もっと本質的な回答をするなら、あの戦艦たちのより一層の強化をおこなうための実験だ。是非とも貴官には協力して欲しい」
エディットの発言に、ヴァルターは開いた口が塞がらない。
「そ、そんな実験に、なぜ俺が協力すると考えた?」
「協力してくれるとは思っていない。今のところはな」
エディットはまた冷たい微笑を見せる。ヴァルターは剣呑な視線をエディットに向け、その人となりを把握しようと探りを入れる。だが、その凄絶な火傷に覆われた顔からは、今ひとつ感情のようなものが読み取りにくい。ヴァルターにしてみれば、エディットは何を考えているのかよくわからない人物だった。
「私はね、フォイエルバッハ少佐」
エディットは左頬の火傷の痕を軽く撫でながら言った。
「私は、世界平和というヤツに貢献したいと、前々から思っていてね」
「世界平和? 参謀が?」
「そう、世界平和だ。私が失業するほどの世界平和だ。争いのない数年、できれば数十年。そんなものを作り出したいと常日頃、思っている」
表情のないその声音が、ヴァルターの指先を硬直させる。
「我が国が配備した戦艦たちが、貴国が開発した超兵器を凌ぐことはもはや明白。そしてあの戦艦を無敵たらしめているのが、セイレネスというシステムだ」
「セイレネス……歌姫計画の……」
「肯定だ。詳しいところはさておくとして、ともかくも我々はセイレネスをより完璧なものへと昇華させていきたいと考えている。それが成就したあかつきには、アーシュオンは我々に手を出せなくなるだろう。ゆえに世界平和に大きく近付くことができると、そういうわけだ」
「ばかばかしい」
ヴァルターは思わずそう吐き捨てた。今更そんなことで戦争の流れが断ち切れるものか、と。
エディットは両目を細め、畳み掛ける。
「先ごろ我が軍が貴国にしたことを考えれば、貴官のその想いも理解できないものではない。だがな、忘れるな、フォイエルバッハ少佐。先に我が国の民間人を無警告に三百万も殺戮してくれたのは、誰あろう貴国だ」
静かな、しかし重たい口調に、ヴァルターは押し黙る。エディットは続けた。
「我が国は百年以上維持し続けた専守防衛のスタンスをかなぐり捨てた。完全に捨てた。そして今、我が国では貴国への逆襲の機運が非常に高まっている。もはや危険水域と言ってもいい。最強の第四艦隊を撃滅し、最強の飛行隊の隊長を虜囚とし、そしてなにより、貴国の超兵器をスクラップにする能力が実証されたわけだからな。当然の流れだ」
エディットの機械の瞳がヴァルターを撫で斬りにする。
「正直、かつ、正確に言おう。現時点であっても、我が軍がセイレネスにまつわる戦力を総動員した場合、貴国は確実に敗北し、焼け野原になるだろう」
「それは……俺の責任範疇の話ではない」
ヴァルターは首を振る。そしてその黒褐色の瞳でエディットを睨んだ。
「それに貴官がそのように断定するのであれば、やって見せれば良いではないか。アーシュオンが滅んでもまた、世界平和に近付くだろう? セイレネスの強化なんていうまどろっこしいことをしている時間があるのなら、そのほうが良いではないか」
「はは、その通りだ、白皙の猟犬。だがな、私は逃がし屋だ。犠牲は一人でも減らしたい。それはおかしなことかな?」
「ただ勝つのではなく、完全に勝つ状況を作りたいと?」
「肯定だ」
エディットは頷き、追い打ちをかける。
「セイレネスをより完璧に近付けることができれば、戦わずして、我が軍は勝つことができよう。いかなる国にも攻め込まれることのない、盤石な防衛体制となるだろう」
「しかし貴国は専守防衛を捨てたと言った。ならば今度はその武力を背景に、逆の立場になるのではないか」
「それは政治の仕事だ」
エディットは歪んだ笑みを見せる。
「外交的努力により友好関係を築くならよし。敵対するのであれば、またもセイレネスの剣を振りかざすことになるだろう。だが、平和は平和だ」
「俺にはどうにもきれいごとにしか聞こえない。夢見がちだな」
「万象は変化し、我々もまた変わるもの。世界の構造は変わる。それにかかわることができるのだ、面白いとは思わんかね、少佐」
「しかし俺はアーシュオンの人間だ。ああまでやられて、いくらセイレネスが登場して勝てないとわかっていたとしても、唯々諾々と従うなんてことはありえない」
ヴァルターは感情を抑えた声で言った。エディットはまた表情を消し、腕を組んだ。
「不幸の連鎖はやめないかという話をしている。起きてしまったことについて、とやかく言っても始まらん」
「差し引きゼロだといって納得できるはずもない!」
ヴァルターは椅子を蹴って立ち上がった。エディットは億劫そうにその様子を見守っている。
「それに俺がどう思おうが、アーシュオンは簡単には終わらない」
「貴官は大切な人間を我々の攻撃で失った。そういう情報がある」
「答える必要性を感じない」
思わぬ攻撃を受けたヴァルターは、動揺を隠せぬまま吐き捨てる。エディットは机に肘をついて、両手を組んだ。
「私もね、貴国の特殊部隊にかけがえのない男を殺されている。痛みとしては同じようなものだと思うが、どうかな」
穏やかな口調で言われ、ヴァルターは勢いを殺される。エディットは無表情に続ける。
「彼は軍人だったから、貴官の状況とは少し違うだろうが、それでも私にとってはかけがえのない男だった。喪失感の大きさについては、貴官と何ら違うことはないだろう」
「それは……そうかもしれない」
ヴァルターは椅子には座らず、壁に背を預けた。
「しかし、貴国の戦艦が、セイレネスが強力なものであることは認める。だが、それは兵器という枠組みの中での話だ。決してこの世界への万能薬にはならないし、まして兵器の一つが世界平和をもたらすだなんて、そんな与太話があるものか」
「そうかな?」
エディットは足を組んで、ヴァルターを斜に見た。
「クラゲやISMTの類が出てくるまでは、世界にとっての究極的抑止力は核兵器だった。我々もまた、その抑止力に抑えられた状態での戦争を続けていた。要は、ギリギリのところで戦っていた。しかし、クラゲどもが出てきてからは、そのボーダーラインは雲散霧消だ。究極的抑止力の地位を追われた核兵器は、さながら通常兵器の顔をして、何発飛び交ったのやら、だ。我らヤーグベルテ人は、伝統的に核兵器を忌避する性質があった。だが、それもいまや過去のものだ」
「そしてそのクラゲどももまた粉砕された」
「イエス」
エディットは右手で頬杖をついた。
「陥落しない砦はない。貫けぬ鎧もない。だからこそ数百年に、あるいはそれ以上に渡って、延々と連綿と、軍備増強や兵器研究が進められてきた。だが、セイレネスの完成によって、我々はその不毛な競争を、少なくとも減速させられると考えている」
「セイレネスは、そこまで圧倒的だと。そういうことか」
「その通りだ」
エディットは深くゆっくりと頷く。
「セイレネス自体、謎だらけでな。我々とてもその全てを掌握しているわけではない」
「貴国の兵器だろう。そんなバカな話があるか」
「あるのさ。システムコアのほとんどの部分がブラックボックス化されていて、我々にはその中身を知る術がない。演繹的に推測し、逆構築していくことしかできんのだ」
エディットはやや呆れたように言う。セイレネスがどういう経緯でヤーグベルテにもたらされたのかは、エディットも知らない。恐らく国家上層部の限られた者しか知らないのだろう。
「しかしルフェーブル大佐。俺は敵の将校だぞ。そんなことを漏らしてしまって大丈夫なのか」
「お気遣い痛み入る。だがね、私はセイレネスに関する全ての権限を委ねられている。無論、私が今こうしている件についても、参謀本部トップの承認を得ているし、何の問題もない」
エディットは立ち上がり、ヴァルターの隣に並ぶ。壁に背をつけて、顔だけをヴァルターに向ける。
「実験に協力してくれるのならば、もっと多くの秘密を知ることになるかもしれんよ。不可抗力的に、な」
「……考えさせてくれるか」
「無論だ」
エディットは視線を外し、反対側の壁を眺める。
「だがな、フォイエルバッハ少佐。貴官の立場は極めて危うい。こと、アーシュオン国内ではな。知っているだろう?」
「スパイ容疑をかけられいることは」
「そうだ。仮に今、この状態で帰国できたとしても、貴官を待っているのは憲兵と銃口だ。大きな土産でもあれば別かもしれんがね」
エディットは冷たく微笑む。ヴァルターはその表情の真意が読み取れず、必然的に無表情になる。
「貴官が生に固執しないというのであれば、我々は我々なりの土産をつけて、貴官を捕虜交換の材料にするだろう。我々に協力するということであれば、我々はそれなりの土産を貴官に持たせるということもまた吝かではない」
「協力しないのであればスパイ容疑者から容疑者の文字を外すということか」
「そうなる」
エディットは視線だけをヴァルターに向けた。ヴァルターはグッと息を呑む。
「我々としては貴官には二度と空に上って欲しくはないのだ。白皙の猟犬は、実に手強いからな。相手にできるのはエウロスの隊長くらいなものだ」
「メラルティン大佐。空の女帝、か」
「イエス」
エディットは短く肯定し、ヴァルターに顔を向ける。ヴァルターは重たい溜息を吐いてから首を振った。
「整理する時間をくれ」
「もちろんそのつもりだ」
エディットは扉の前に立ち、解錠キーを押す。憲兵二人の姿が見える。
「いずれの結論に至っても構わないが、その際は私に連絡を」
「……わかった」
ヴァルターはエディットに促されて、先に部屋を出る。憲兵たちが形式的に銃口を向けてくる。
エディットは右手を振って銃を降ろさせ、遠ざかっていくヴァルターに声を掛ける。
「戦争はロクなものではないな」
「当事者たちがよくも言う」
ヴァルターは振り向かずに肩を竦めてみせる。
「だが、完全に同意する」
その言葉に、エディットは「ふっ」と息を吐いた。
「終わらせてみないか、私たちの力で」
聞こえる距離ではないことを承知の上で、エディットはそう囁いた。