しかし落涙はヴェーラを癒やすことはなかった。家に帰ってからもヴェーラはソファの上で膝を抱え、じっとテレビを見つめていた。あれから一言も発することなく、レベッカが入れてくれた紅茶にも手をつけず。時刻は午後五時。まもなく日が暮れる。
「ねぇ、ヴェーラ。気に病んでもどうにもならないんだよ? 仕方がなかったんだよ?」
「仕方がないで納得とか、できるわけないし」
しばらくぶりにヴェーラが応答した。レベッカは掠れた声で「でも」と言ったが、ヴェーラはそれに「だから」と被せた。
ヴェーラの空色の瞳がレベッカを捉える。薄暗くなってきた部屋の中でも、その目は異様に鋭く光って見えた。
「だからね、ベッキー。わたしは自分のしたことを受け入れなきゃならない。わたしは今、そのための努力をしてる」
ヴェーラは自分の胸を押さえ、肺に溜まった空気を押し出そうとするかのように力を込めた。
「わたしはね、今、わたしが殺した人たちのことを考えてる。目を逸らし、耳を塞いできた自分にさっき気が付かされた――まざまざと。わたしたちは確かに見たし、聞いた。断末魔も、呪詛も、苦痛も。でも、それは理解したということとは雲泥の差のあることだった」
「でもそんなことしたって! どうしようもないじゃない!」
レベッカはヴェーラの隣に腰を下ろし、その両肩を揺さぶった。ヴェーラの白金の髪が大きく揺れる。
「どうしようもなくなんてない!」
ヴェーラはレベッカの手を振り払って、叫んだ。
「これはね、わたしの中の! わたしの気持ちの問題なの!」
声は鋭く大きかったが、そこに感情は感じられなかった。レベッカはたまらずヴェーラの肩を抱きしめる。
「そんなことしてたら、あなたが壊れてしまうわ! ダメ、やめるの、そんなこと!」
「わたしがこの手で殺した数百万。その何倍かの怪我した人。その何倍かの家族や友人。その人たちの苦しさ、悲しさ、痛み。わたしにはそれを全て受け止める義務がある」
「そんなものない! 目を覚まして、ヴェーラ!」
レベッカは両手でヴェーラの頬を押さえる。ヴェーラはその手を引き剥がそうとしたが、レベッカは全力で抵抗した。
「私たち、この先もまた同じことをする。させられる。それに、ヴェーラ。それだけじゃないよね。私たち、船も飛行機もたくさん破壊した。たくさん殺してるの。これからも何千何万と。あなたはそれを全部受け止めるの? 全部理解しようとするの? 全部? 全部?」
「それでも!」
ヴェーラの瞳は美しいガラス玉のようだった。
「それでもね、わたしは受け止めたいんだ。自己満足だと言うのなら言えばいいよ。無駄とか無理とか言いたいなら、言っていればいいんだ。それでもね、わたしはわたしが殺した人を想う。知りたいと思う。受け止めなきゃって強く思う」
「できないのよ! そんなことは!」
レベッカはその胸にヴェーラの頭を抱いた。ヴェーラは逃げようとしたがレベッカの拘束は強力だった。どういうわけか身動きができなかった。
「いい、ヴェーラ。私たちの心は小さすぎるの。それだけの人のことを受け止めるには、小さすぎるの。私たちはそんなに強くはないの。人の心なんてびっくりするくらいに脆いものなのよ」
「だったらさ! わたしなんて壊れちゃったって良いんだ! さっさと! そうでしょ、だって、わたしたちは殺したんだよ。無抵抗な人たちを大勢。この手で。何も知らず、知ろうともせず、ただ命令に従って。何百万、何百万だよ? 赤ちゃんさえ焼き殺したんだ。誰が何と言ったって、わたしが何百万人もの人々の、幸せな未来を破壊したんだ」
その強い言葉に、レベッカはヴェーラをより強く抱きしめることで応える。ヴェーラは逃げようとするが、レベッカは決してその腕の力を弱めようとしない。
「ヴェーラ、私ね、あなたの言うことは理解できる。でもね、それは私たちが感じるべき重さじゃないの。私たちに罪がないとは言わない。でも、それを背負うのは私たちじゃない。敢えて十字架を担ごうとするのもいいかもしれない。けどそれはね、自己満足っていうの。無理なことなの。本当に十字架を背負うべき人たちはのうのうとしている。その一方であなたがそれを背負おうとしている。誰も幸せにならないのよ。自分の罪を自覚出来ない人以外は」
レベッカの言葉に、胸の中のヴェーラが呻く。
「それにね、ヴェーラ。十字架を背負おうとするあなたを見ている私は、つらいの。耐えられないの。こんな理不尽なことであなたが壊れてしまうのを、看過できないのよ。無理とか無駄とかそういう話以前の問題なの。わかって。どうか」
「ベッキーは平気なの?」
涙声だ。
「わたしはあの人の、ヴァリーの大事な人を殺しちゃった。お腹の中の赤ちゃんも。トゥブルクを文字通り滅ぼした。あの人の大事なものを一つ残らず吹き飛ばしてしまったのよ」
「そんなの、言ってしまえば偶然じゃない。偶然そうなっただけ――」
「偶然で殺されてたまるか!」
ヴェーラはようやくレベッカの拘束を振りほどいて立ち上がった。
「ああ、偶然だ。偶然だよ、確かに。全部偶然! でもね、わたしたちがこうなっていて、こうしていて、これからもこうし続けていく。それは偶然?」
「それは――」
「どうしようもないんだ。しなきゃならない。ヤーグベルテの人々の平和を守るために、安寧のために、わたしたちはわたしたちの役割を果たさなきゃならない。それしかない。わかってる。わかってるんだ、そんなこと。この地獄が死ぬまで終わらないってことも」
アーシュオンとの停戦、あるいは本当の世界平和。それらが訪れない限り、歌姫は永劫歌い続けなければならない。声が枯れようが、涙に嘔吐こうが、ヤーグベルテの人々は歌い続けさせることを選ぶだろう。
「だからこそなんだ、ベッキー。わたしはわたしにできることをしたいんだ。そうじゃなきゃ胸が痛い。痛いんだよ、ベッキー……!」
ヴェーラの両目から涙が溢れる。
「わたしは、わたしはいったい、何をしたの? 何をしてきたの? 何を、していくの……」
「ヴェーラ」
レベッカは言葉に詰まる。無力だと感じていた。ヴェーラは自分に問いかけてきているだけなのだ。答えなど出せないと知った上で。
「わたし、ヴァリーの大事な人を殺した。それだけじゃない、あの人の心も深く傷付けた。想像してみてよ。亡骸すら見れなかったんだよ、ヴァリーは。最後の姿も声も想いも、何も受け取れなかったんだよ? だからわたし――」
「でもそんなことしたって!」
「無理とか無駄とか! もう嫌だ! ベッキー、きみは何もしていない。現状に諾々と従ってしてきたことを見ないふりして! これからすることにだって、黙って従っていくんだよね。巨大な十字架も見ないふりして、気付かないように気をつけながら! 違う!?」
いつになく激しい口調にレベッカは圧倒される。レベッカの頬を涙が伝う。レベッカは奥歯を噛み締めて強く頭を振った。
「私は! 私だって! あなたと同じことを考えたわ! でもね、できないのよ。どう考えたって無茶なのよ! 私には受け止めきれない。自分を壊してしまうほど自分を追い込む強さなんて、私にはない。これが臆病だと言うのなら言えばいい! 私は臆病。それは事実。だから知ることなんて出来ない。見たって見ないふりをすることしかできない。気付かないふりをする。見てないと信じる。現実からだって逃げる。見てきたものを全て悪夢だったねって片付けようとさえする!」
「だったらベッキー、きみの罪もわたしが背負う!」
「バカなこと言わないで!」
「こんな大虐殺、誰も責任を負わないなんておかしい。だよね!? 生命は何より大切なんだ。それを容易く奪えるわたしたちは、存在からしてどうかしてるんだ」
「それは私たちの責任じゃないでしょう!?」
レベッカはヴェーラの前に両膝をついて、その両肩に手を乗せた。ヴェーラはそれを振り払おうとするが、何度振り払われてもレベッカはヴェーラの肩を捕まえ続けた。
「それに大虐殺の責任を負うべきなのは、命令を下した人! そうよ、アダムス大佐よ。それにこんな事態になったそもそものきっかけは、アーシュオンによる八都市空襲じゃない!」
「責任を取ろうともしないひとに押し付けようったって時間の無駄。責任を取るべきなのは、この手を血と怨嗟に汚したわたしだ。わたしが腹をかっさばいて首を落とされでもすればいいんだ」
「冗談じゃないわ!」
レベッカの右手が唸りを上げ、ヴェーラの左頬を打った。ソファに叩きつけられるほどの一撃を食らったヴェーラは燃える瞳でレベッカを見た。
「やったな……!」
「私にはね、あなたも私自身と同じくらい大切なの! だから、そんな大切なあたなが壊れていくのをみすみす見逃すわけにはいかないの!」
「なら!」
ヴェーラは立ち上がるなり、レベッカの髪の毛を思い切り引っ張った。レベッカは悲鳴をこらえるために奥歯をがっちりと噛み締める。ヴェーラはレベッカに顔を近付け、怒鳴った。
「ならさ! 君も一緒に壊れてよ!」
「イヤよ!」
レベッカも怒鳴り返す。
「私は壊れたくなんてない! 絶対にイヤ! この手がどんなに罪にまみれようと、どんなに咎人だと謗られようと、私は自分を守りたい! 絶対に壊れたくなんてないのよ!」
レベッカを見つめるヴェーラの空色の瞳は凍てついていた。レベッカは身が竦むのを感じたが、それでも引き下がるわけにはいかないと自分を奮い立たせた。
「あなたにどう思われたって構いはしないわ。これが私の意志。私は、私が壊れるのも、ましてあなたが壊れていくのも許さない。絶対に。絶対によ! だからもう、あなたは彼に会うべきじゃない。忘れるのよ」
「できるわけない! それにそんなの無駄だ!」
「エディットに言うわ!」
「言えばいい!」
ヴェーラは吐き捨てる。
「そんなこと、エディットにだって止められはしない。君がどうあったって、何をしようとしたって、わたしはわたしのやり方を貫く。わたしの生き方はわたしが決める! たとえきみにであっても、邪魔はさせない! わたしの領域に踏み込まないで!」
ヴェーラからの絶縁状――レベッカは絶望的な気持ちでその言葉を受け止めた。