14-2-3:復讐心の行方

歌姫は壮烈に舞う

 奥さんのこと、赤ちゃんのこと、ごめんなさい――。

 ヴェーラの言葉が頭の中でぼんやりと反響し続けている。

 午前中の実験の後、ヴェーラがヴァルターの所へ駆け寄ってきてそう言ったのだ。その時は何も言えなかった。今でもあの様子のヴェーラになんて返すのが正解だったのか、ヴァルターはわからないでいる。

 収容所の部屋の中で、ヴァルターは一人悶々とする。

 かつてエルザに問われたことを、今になって鮮明に思い出す。

 ――あなたがどこかで戦っている時に、この街が燃えてしまって、私たちみーんな殺されてしまったら? あなたはどうする?

 何もできなかった。エルザの言葉は結果として予言だった。だけど俺は何もできないまま、捕虜になって……。

 ――泣く? 怒る? 諦める?

 怒ったさ、自分の不甲斐なさに。涙は出なかった。未だ現実として受け止めていないのかもしれない、もしかすると。だって君の亡骸を見たわけじゃないし。トゥブルクの様子もほとんど流れてこないし。

 ――誰を憎む? 誰も憎まない? ヤーグベルテを呪う? アーシュオンに怒る?

 全てを憎んでいる、というのが正しいのかもしれない。でも漠然としすぎていて、でも力は強すぎて、何もわからないでいるというのも正しいのかもしれない。

 ――あなたの前に、私たちを殺した人間が現れたら、あなた、復讐してくれる?

 ……わからない。

 ヴァルターはエルザの美しく整った顔を意識から振り払った。いや、今のはエルザではないのかもしれない。あれはもしかすると、というヤツの姿なのかもしれない。そんな風にヴァルターは思うことにした。

 ヴェーラとレベッカが、なぜあんな攻撃をしてきたのか。しなければならなかったのか。その顛末はエディットから聞いていた。それがいよいよ、ヴァルターを苦悩させた。あの二人は何も悪くないのだ。どうやっても憎めないのだ。

 あの二人はより大きな悲劇を避けるために、を選ばなければならなかっただけなのだ。だからヴァルターにはそれ自体を責めることはできなかった。だからこそ、エルザというかけがえのない女性を失ってしまった悲しみとの間で板挟みになっている。

「だが、俺たちは戦争をしているんだ――」

 ヴァルターは勢いよく立ち上がると、コップに水を注いで一気に飲んだ。エルザが殺された事実をでは済ませたくなかった。だが、ここであの歌姫セイレーンたちを憎んで何が生まれるというのか。エルザだって、文句の一つは言うかもしれないが、そんなことはきっと望んだりはしないだろう。

 コップを置いたその時に、部屋の鍵が開けられた。

「失礼するぞ、フォイエルバッハ少佐」

 顔を覗かせたのはエディットだった。その無遠慮な態度にもヴァルターはすっかり慣れていた。そもそもこんなプライベート空間を与えられているだけでも、ヴァルターにとっては厚遇も良いところだったのだから。

「午後の実験か?」
「いや、面会だ。それをさせねば実験には出ないと駄々をこねるやつがいてな」

 エディットが肩をすくめるのと同時に、その脇をすり抜けるようにしてヴェーラとレベッカが入ってきた。

「え、ちょっと待て。ここでか?」
「なに、今日は私も同席する。貴官に関する申請関連は私に一任された。手続き上何の問題もない」

 エディットは外の憲兵たちに二言三言言葉をかけ、ドアを閉めた。鍵は開いたままだ。ヴァルターはソファを歌姫セイレーンたちに譲り自身は窓を背にして立った。晩夏の日差しが背中を焼こうとする。

「ヴェーラ、ベッキー、謝罪は不要だぞ。あれはもう、俺の中の問題だ。お前たちがどうこうしたところで何も変わりはしないし、何より俺がもうそんなものを求めていない」

 ヴァルターは先手を打った。ヴェーラは「うん」と小さく声を発して頷く。レベッカがぽつりと言った。

「強い、ですね」
「強い? 俺が?」

 ヴァルターはその意外な意見に驚いて思わず尋ね返した。

「もし俺が本当に強かったなら、今もうここにはいないだろう。戦艦に体当たりの一つもしていたはずだからだ。だが実際にはこのざまだ。捕虜になった挙げ句、実験に協力すらしている。こんなのはつまり、自分可愛さゆえってやつだ」
「あの、今でもアーシュオンに帰りたいんですか?」
「そりゃぁ、仲間がいるからな」
「でも、アーシュオンは……」
「お前らが思うほどひどい国でもないさ、きっとな。それに、ヤーグベルテにいる限り、俺は二度と空を飛べないだろう。そいつはまっぴらごめんだ」
「で、でも」

 レベッカがヴェーラの手を握りながら言う。

「アーシュオンに帰ったって……!」
「だな」

 エディットが口を挟む。

「今のところ、アーシュオンにも貴官の居場所はないな。貴国は貴官のことをスパイであると断定している。どういうわけか、貴官が我が軍の実験に協力しているということも、ある程度の確度でもって伝わっている」
「まぁ、そうなるな」

 情報がリークされたことについては、別に驚くに値しない。これだけの規模のプロジェクトだ。間者の十や二十はいるだろう。

「だったら!」

 ヴェーラが顔を上げる。

「だったら帰らないほうがいいじゃない!?」
「ヴェーラ……」

 心配そうなレベッカの手を握りしめ、ヴェーラは息を吸う。

「スパイなんでしょ? 国に帰ったら銃殺刑なんだよね? アーシュオンに帰ったって、空なんて飛べないよね? 普通に考えて!」
「そうかもしれない」

 マーナガルムの面々だって、きっと今は思うように動けないに違いない。

「だったら!」

 ヴェーラは立ち上がった。そしてヴァルターの目の前まで移動してきた。部屋の入口に陣取っていたエディットが拳銃を抜いたのが、ヴァルターから見えた。

「だったら残ってよ、ヴァリー!」
「ヴェ、ヴェーラ……」

 ヴェーラはヴァルターの手を握る。

「お願い、わたしに罪滅ぼしの一つもさせて。ねぇ、お願いだから」
「ヴェーラ、落ち着こう?」

 そんなヴェーラの肩を背中から抱きしめて、レベッカが囁く。だがヴェーラは頑なに首を振った。

「国に帰っても、仲間に会えないかもしれないよね。そのまま処刑台送りかもしれないよね。だったら、ここで、ヤーグベルテでずっと実験していよう?」
「それは……」
「何年かしたら、世界はきっと平和になるから! そしたらあなたのスパイ容疑とかどっか行っちゃう! ね? だから、それまでここにいようよ」

 必死で訴えるヴェーラの顔を見て、レベッカは胸に鋭い痛みを覚えた。気が付いたのだ。

 ヴェーラの初恋に。

「ヴェーラ、これはヴァリーが決められることじゃないのよ」
「だとしても」

 ヴェーラはレベッカを振り返る。

「ヴァリーがここに残るって、セイレネス技術向上のために協力するって言えば、ヤーグベルテだって手厚く匿ってくれる!」
「ヴェーラ、お前の気持ちはよくわかった」

 ヴァルターは目を細めて、ヴェーラの頭を撫でた。

「だが、俺には大切ながいる」
「そんなに、、なの?」

 ヴェーラが唇を噛みながらヴァルターを見上げた。ヴァルターはその至近距離の瞳に気圧けおされることなく、少しだけ笑った。

「そう、だな」

 大切な人、か。

 ヴァルターはシルビアを脳裏に描く。だが、「違う」と心の中で否定する。俺にはエルザしかいなかったのだ。エルザしか。

「わたしは、わたしはね、ヴァリー……」
「ヴェーラ、俺なんかに固執するんじゃない。俺は今や亡霊みたいなもんだ」
「そんなことない」
「そうだ。一つ約束してくれるか、ヴェーラ」
「や、約束?」

 ヴェーラの空色の瞳がヴァルターを捉えている。

「セイレネスで、平和を実現させてくれ、いつか」
「え……?」

 ヴェーラは言葉に詰まる。ヴァルターは頷いた。

「兵器は、兵器以上にも兵器以下にもなれない。でもそれは多分、もう過去の話だ。お前たちがセイレネスだというのなら、セイレネスはきっと兵器以上のものになる。平和のための剣とか、そんなチープなものじゃなく」
「でも――」
「できるかどうかは、やってみなけりゃわからないだろう?」

 ヴァルターは穏やかな声音でそうさとした。

「セイレネスでやったことを悔いているんなら、セイレネスを使ってつぐなえ。セイレネスなんてものに操られるな。あんな不気味なものに主導権イニシアチブを取られるな」

 ヴァルターは力を込めてそう言った。ヴェーラは睨むようにしてヴァルターを見つめていたが、やがて、小さく頷いた。

「わかった。でも」

 唇を噛み、また時間を置く。

「わたし、あなたを助けたい」
「ありがとうな、ヴェーラ」

 ヴァルターはヴェーラの肩を軽く叩いた。

「あとは政治の話なんだよ、ヴェーラ。俺たちでどうこうできる世界なんかじゃないのさ」
「わたしにもっと力があれば……」
「お前の気持ちは痛いくらい伝わっているさ。なに、俺だって死にたいわけじゃない。生命を粗末にはしないさ。可能な限り、最大限に足掻いてみせる」
「ヴァリー……」

 ヴェーラは顔を伏せ奥歯を噛み締めた。口元を押さえる右手が震えている。

「ルフェーブル大佐、私見でいいが、聞かせてもらえるか」
「なんだ?」

 それまで退屈そうに拳銃を眺め回していたエディットが、視線を上げる。

「時間はまだ、あるのか?」
「案ずるな、実験プログラムはまだ山ほど残されている」

 エディットはわずかに口角を上げた。浮かんでいるのは微笑みではなく、冷たすぎるほどに皮肉な笑みだ。

「一年か、或いは二年か。稼げてもそのあたりが限界だろうがね」

 一年か二年。

 それはヴァルターの生命のタイムリミットだ。ヴェーラは嗚咽を隠さない。エディットは拳銃をホルスターに収めて、扉に寄りかかって腕を組んだ。そして語りかける。

「ヴェーラ、お前の役割は泣くことか? それしかできないのか?」
「エディット……」
「いくら泣いたっていいとは思う。いよいよとなれば、私が全て受け止めてやろう。だがな、まずはその男の言うことを聞いてやれ。セイレネスを誰よりも扱えるようになれ」

 エディットの静かな言葉を、ヴェーラは受け止めきれない。エディットは言葉を選びながら告げる。

「抑止力なんてちっぽけなもんじゃないんだ、セイレネスは。もっともっと大きな力になるだろう。それを使かなんて、そのときにはもう私たちには決められないだろう。お前が、ヴェーラ・グリエールが、決めるんだ」
「わたしが……決める……?」

 ヴェーラは俯き、拳を握りしめる。

 ――時間だけが淡々と進んでいった。

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