15-1-3:傷付いた歌姫の迷走

歌姫は壮烈に舞う

 それから約一ヶ月が経過した。ヴェーラは度々戦線離脱をしなければならないほどの心労を重ねており、医師から大量の精神安定剤を処方されていた。気分が落ち着いている日のほうが少ないくらいで、普段はほとんど自室に引きこもっているような状態が続いていた。実験や実戦の際には文句も言わずに参加するのだが、途中で強制離脱させられるようなことが非常に多くなった。

 その日はオルペウス改良のための試験がいくつか行われる予定となっていたのだが、ヴェーラの調子があまりにもよくないということで延期されることが決定した。

「じゃぁ、俺はお役御免だな」

 シミュレーションルームで独り待つヴァルターは、午前十時十五分を指している時計を見ながら、ブルクハルトに向かってそう言った。ブルクハルトはモニタルームのガラス越しにヴァルターを見て、「ちょっと待て」と手で合図する。どうやら室内で誰かと通話しているようだった。

「なんだ?」

 そういえばエディットの姿を今朝から見ていない。最近、ヴァルターを迎えに来るのは六課のレーマン大尉という偉丈夫であるから、それ自体は別に不自然でもないのだが。

 その時、シミュレーションルームの扉が開いて、ヴェーラが飛び込んできた。その後ろを息を切らせたレベッカが追ってきた。

「どうしたんだ、ヴェーラ。そんなに慌てて。それに調子がよくないんじゃ?」
「だいじょうぶかって言われると、そりゃ難しいよ」

 ヴェーラは長い髪を苛々ともてあそびながら、つかつかとヴァルターの前まで歩いてきた。その視線は落ち着きなく彷徨さまよっている。

「薬を山盛り飲んでやっとこれだもん。実験には参加できませんって、ドクターストップがかかっちゃった。でもね、ヴァリーに会いたくて、無理矢理来たの」
「そうなのか、ベッキー」
「はい。会わせなかったら金輪際薬は飲まないって言い張って」
「えへへ」

 ヴェーラは後ろで手を組んで笑った。だが、その笑顔には以前のような輝きはなかった。病的に落ち窪んだ目に痩せた頬、筋の浮き出た首……ヴェーラはどれだけ追い詰められているのか。ヴァルターにでさえ察するのは難しくはなかった。

「それで、ヴェーラ。俺に何の用が?」
「ないよ。会いたかっただけ」

 ヴェーラは近くの戦闘機用の筐体に背中を預けて立った。ヴァルターとの距離はほんの二メートルほどだ。ヴェーラは髪の毛先を震える手先でいじりながら、虚ろな空色の目でヴァルターを見ていた。レベッカはそんなヴェーラを痛々しげに見つめて立ち尽くしている。

「ヴェーラ、お前が自分を責める必要はないだろう。敵を倒し、味方を助ける。その事自体、別に罪なことではないだろう? 俺たちは戦争をしているんだ」
「それって、慰めてくれてる?」
「見てられないからな」

 ヴァルターが言うと、ヴェーラは荒んだ微笑を見せた。

「でも、見えちゃう。聞こえちゃうんだ。になる瞬間がわかっちゃうんだ。わたしたちは目を閉じても逃げられない。耳を塞いでもなかったことにはできない。今はベッキーが大半やってくれてるから、わたしはだいぶ楽させてもらっちゃってるけど」
「いいのよ、ヴェーラ、私は。私はもう割り切ってる」
「はは、そういう問題じゃないんだけどね、ベッキー」

 ヴェーラは憂いの吐息を彷徨わせる。その表情に、ヴァルターは思わずシルビアを重ねてしまう。どこか擦れたその雰囲気は、確かにシルビアの持つ厭世的な雰囲気によく似ていた。

「わたしたちは、どこまで行っちゃうんだろうって思うんだ」
「どこまで?」

 レベッカが問い返す。ヴェーラは肩を大袈裟にすくめた。

「そしてどこまで、どんなふうにまで使われちゃうんだろうなって。そう考えると、わたしもう、本当に」
「ヴェーラ」

 すっかり雰囲気の変わってしまったヴェーラに、レベッカは戸惑いを隠せない。そして、ヴェーラがここまで喋ったのは、実に一ヶ月ぶりだった。

「ねぇ、ベッキー。わたしたちはね、道具なんだよ。ただの、道具。国にとって都合の良い、道具。そういうふうに創られた、ただの道具なんだ」

 何もかもが曖昧な昔な記憶。確証の持てない自分にまつわる情報。蜃気楼を追いかけているのじゃないかと思うような、思い出。気がつけば自分を構成するのはそんなものばかりだった――ヴェーラは首を振る。

「だからね、ベッキー。たとえわたしが変わってしまったとしてもね、道具としてのわたしの役割は変わらないし、変えられない」

 たとえ自分の人格が粉々になろうとも、国家は、ヤーグベルテは気にしたりはしないだろう。ヴェーラはそう続けた。ヴェーラたちが何を思おうが、感じようが、国家が求めるのはセイレネスの発動アトラクトであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。そしてそのために、歌姫セイレーン、のだ。

「うふふふふっ、そんな未来が辛くて、なんか辛くて! でも、ただそれだけだから、安心していいよ、ベッキー。わたしは、だいじょうぶだから」

 ちっとも大丈夫なんかじゃないじゃない!

 レベッカは叫びたかった。だが、理性のような何かがそれを阻止する。

 そんなレベッカに向き直り、ヴェーラは宣言した。

「ベッキー、次の作戦は、わたしが一人でやる」
「なっ、なに馬鹿なこと言っているの!? 今のあなたが一人でできるわけ――!」
「やるんだ!」

 ヴェーラは語気鋭く言い放つ。

「わたしはあのシステムを超えなきゃならない。わたしはそう認識したんだ」

 そしてヴェーラはヴァルターを見て、微笑んだ。奈落の微笑みだ。ヴァルターは一瞬レベッカを見、またヴェーラに視線を戻す。

「その考えは案外正しいかもしれないな。俺の立場からは遠慮して欲しいところだが。だがな、ヴェーラ」
「ん?」

 ヴェーラは無感情な瞳でヴァルターを見つめている。

「お前、逃げたって良いんじゃないか。いつまでも逃げていられるわけじゃないのはわかっているつもりだ。だが、お前にはベッキーがいるだろう? もっと頼れよ。今は頼っていいと思うんだよ、俺は。いつか逆の立場になる可能性もある。その時に精一杯ベッキーがお前を頼れるようになるために、今はお前、精一杯ベッキーにすがってもいいと思うんだよな」
「ベッキーにばかりあんなことはさせられない」

 ヴェーラは苛立ちを隠そうともせずにそう応じる。

「そんなことしたら、わたしの中の絶望はますます深くなるよ」
「今はお前の回復が最優先だと思うんだが」
「回復? 回復したらまた同じ目に合わされるのに、回復なんてできると思う? 心を殺すことを回復というのなら、それは正しいだろうけど」

 ヴェーラの揶揄するような物言いに、ヴァルターは眉根を寄せる。

「それでもだ、ヴェーラ。お前は休むべき時だ」
「あははっ。殴られるために立ち上がろうするとか、とんだ被虐思考マゾヒズムだよね」
「そうじゃない」
「そうだよ。どんなにそれっぽく取り繕ったとしても、わたしたちの内側はぼろぼろになっていく。壊されていくんだ。誰にも止められない。誰にも」
「たとえそうであったとしても、今は休むべき時だと言いたい所ではあるが。……そうだな、ショック療法も有効かもしれないな」

 ヴァルターの言葉に、レベッカが表情を険しくした。

「ヴァリーさん、そんなこと!」
「まぁ、落ち着けベッキー。仮にそれが有効であるとしても、今するべき話じゃないのは確かだ」

 ヴァルターが腕を組みかけた時、シミュレーションルームのドアが開いた。現れたのはエディットの腹心であるハーディ少佐だった。

「参謀本部蝶から文書が出た」

 ハーディは三人の近くまで歩いてきてそう言った。ヴァルターたちの間に緊張が走る。

「文書……」

 ヴェーラが乾いた唇で呟いた。ハーディは頷き、肉食昆虫を思わせる鋭い表情のまま携帯端末モバイルを取り出し、ドキュメントを空中に投影させた。

「ヴァルター・フォイエルバッハ少佐は、捕虜交換の対象となった」

 淡々と告げられたその内容に、場の空気は凍りついた。

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