15-2-1:最後の日、別離の日

歌姫は壮烈に舞う

 一ヶ月という月日は、矢のように、そして至極当たり前のように過ぎた。

 その間も実験は継続され、オルペウスの性能は一段、また一段と向上していった。また、ヴェーラたちは陸軍、海軍の作戦に終始随伴させられていた。ヴェーラに至っては、トランス状態に陥るほどの大量の薬物を投与されての参加となったことすらあった。

 参謀部第三課統括・アダムス大佐は、使い潰すような勢いで歌姫セイレーンを戦線に投入した。そして度重なる作戦の成功により発言力を増したアダムスに対し、退という活躍の場を与えられることがなくなったエディットはあまりにも無力だった。

 しかし、歌姫セイレーンの躊躇なき投入によって、ヤーグベルテは連日圧倒的とも言える大勝利を収めていた。国内世論としては、ヤーグベルテの勝利に多大な貢献をしたヴァルター・フォイエルバッハの処遇を見直せという運動も幾らかは発生した。だが、その代わりにアーシュオンから帰ってくる十四名のエースパイロットというインパクトを覆すには到底至らなかった。

「話ができるのも、今日が最後になるな」

 筐体から出て、ヴァルターは呟いた。ヴァルターの視界の先、セイレネス用のシミュレータの筐体に、疲れた表情を浮かべた二人の歌姫セイレーンが並んで寄りかかっていた。二人は揃って全身を黒で固めていた。ジャケットも、ブラウスも、ジーンズも、パンプスも、全て黒だった。

「ヴァリー……」

 すっかりやつれ果てた様子のヴェーラは、顔を上げるのも億劫だと言わんばかりに、うつむいたまま、その名前を呼んだ。ヴェーラはヴェーラなりに努力した。軍のイベントで表に出る機会があったときには、スタッフたちが止めるのも聞かずにヴァルターの助命を求めた。薬を大量に服用し、副作用に苦しみながらも、アダムスや参謀本部長にさえ掛け合った。しかし、結果は変わらなかった。世界が少しだけ、形にならないほど微弱に、ヴェーラの声を聞いたような、聞かなかったような――そんな救いのない曖昧な状態になっただけだ。

「出会った時みたいに、明るい顔で見送ってほしいものだな」
「……できないよ」

 ヴェーラは視線をヴァルターの爪先に固定して呟いた。レベッカは口を引き結んで、空中の何処かを見上げていた。

「ヴェーラ、笑って見送ってほしいんだ」
「できない……!」

 ヴェーラは子どものように首を振った。何度も。そのたびに涙がこぼれた。

「笑って手を振ってバイバイなんてできないよ! みっともないけど、格好悪いけど、わたしは泣きわめいていたい!」

 そこから先の言葉は何も聞き取ることはできなかった。ただ、ヴェーラが抱え続けてきた想いは、ヴァルターの胸に何度も深く突き刺さった。

 レベッカはたまりかねたように、ヴェーラの背中を強く押した。ヴェーラはつんのめるようにして前に出て、そして、ヴァルターに抱き止められた。それと同時にシミュレータルームのドアが開いて、ハーディが現れた。

「離れなさい」

 ハーディは銃を抜いてそう命じる。だが、ヴェーラはヴァルターの背中に指を立て、震えるほどの力で抱きしめた。ヴァルターも特に引き剥がそうとするようなことはなく、ヴェーラの頭を胸に抱いていた。

「もう一度言います。離れなさい、ヴェーラ」
「いやだ」

 ヴェーラは首を振り、ハーディを睨んだ。

「その男は敵なのです。今や何をするかわかりません」
「そんなの、どうだっていい」
「よくは――」
「敵? 味方? それってなんなの? 敵であるはずのヴァリーはわたしにとっても優しい。でも、味方であるはずのあなたたちは、わたしに何をしたの? 何をさせてるの?」

 ヴェーラの詰問に、ハーディの表情の温度が下がる。

「こんなに薬漬けにして、判断力も奪って。毎日のように拷問みたいなことして。そしてヴァリーも奪うって言う。それがのすること? それでとか、よく思えるよね」
「……ヴェーラ」

 ハーディは両手で拳銃を構えた。その銃口はヴァルターの頭部を狙っている。

「離れなさい、ヴェーラ」
「いやだって言ってる」

 ヴェーラは位置を変えた。ハーディとヴァルターの間に挟まるように。

「撃つならわたしも撃って」
「何を――」
「わたし、もう疲れたから。もう本当に、疲れた。ヴァリーを失うとわかっていて、それでも従わなきゃならない。こんな茶番にこれからも付き合っていくのかと思うと、心底わたしはわたしに幻滅する。わたしは何を得るためにこんなに犠牲を払っているのかって。もうほんと、馬鹿馬鹿しすぎて涙が出てくる」

 ヴェーラはヴァルターから身体を離し、ハーディに向き直った。ハーディは無表情に溜息をつき、銃をホルスターに収めた。

「ハーディさん」

 レベッカがヴェーラの隣に並ぶ。二人はしっかりと手を握りあった。

「私もヴェーラの言葉に同意します。ヴェーラは……好きな人と抱き合うことすら認めてもらえないんですか。私たちは恋することすら許されないんですか」
「それは――」
「私たちは人間です。私たちの人権はどこに行ったんですか。私たちはただの兵器なんでしょうか。感情を持っていはいけない、壊れるまで使い倒される、ただの兵器でいなければならないのでしょうか」

 レベッカの瞳がハーディをがっちりと捕捉する。ハーディは左手で眼鏡の位置を直し、首を振る。

「私個人の見解に意味などありませんが、私はルフェーブル大佐と同じく、あなたたちの側に立っている人間だと思っています。私は合理的な判断のもとに動いているだけで」

 ハーディは腕を組む。何もしないという意思表示だった。

「私はその貴重な捕虜も、あなたたち歌姫セイレーンについても、傷つけるつもりは毛頭ありません。それにそもそも、私のなまった腕では、あなたたちを傷付けずにフォイエルバッハ少佐を撃つことも難しかったでしょうね」

 ハーディは三人に背を向け、壁際まで歩くと壁を背にして向き直る。その肉食昆虫のような目は相変わらず三人を見つめていたが、この間合いでは何をすることもできそうにない。

「ハーディさん……?」

 レベッカが怪訝な表情で、ハーディをうかがう。ハーディは一瞬だけ口の端に笑みを乗せた。

「自発的に離れていただかないことには、私にはこれ以上どうすることもできません」

 ハーディはそう言って肩をすくめた。

『そういうことだ』

 突如室内のスピーカーからエディットの声が降ってきた。ヴェーラたちはハッとしてモニタールームの方を見る。そのガラスの向こうにはいつの間にかエディットが立っていた。

『私たちがお前たちにしてやれるのは、せいぜいがこの程度だ。出発までまだしばらく時間がある。好きにしろ』

 エディットはそう言い放ち、ニ呼吸ほど置いて付け加えた。

『ハーディに監視はしてもらうが。対外的なログとして必要なものでね』
「エディット……」

 ようやくヴェーラもエディットとハーディの意図を理解した。さっきの一件は、エディットが仕組んだ茶番だったということだ。ヴェーラは唇を噛み締め、両手を握り締めて、ハーディを見つめた。

「あの、わたし」
「時間は有限です、ヴェーラ」

 ハーディはぴしゃりと言った。

「今、時間を使うべき相手は私ではないでしょう」

 ハーディはわざとらしく左手の時計を見る。ヴェーラはぎこちなく頷き、ゆっくりとヴァルターの方を振り返る。そしてそのまま抱きついた。ヴァルターは左手でヴェーラの頭をそっと抱え、右手で優しく髪を撫でた。

「ヴァリー、わたし……」
「気付いていたさ。でもな、俺は、俺には」
「聞きたくない」

 ヴェーラはイヤイヤをするように首を振った。

、聞きたくない」
「……そう、か」

 ヴァルターは少し手に力を込めた。ヴェーラもそれに呼応するかのように、ヴァルターの背に回した手に力を入れてくる。

「わたし、あなたの全てを知りたい。でも、それだけは知りたくない」
「都合の良い、話だな」
「都合が良いの。だって、聞いてしまったら、それは事実になってしまう」

 ヴェーラはボロボロと涙をこぼしていた。あふれ出た涙が、ヴァルターの服に少しずつ染み込んでいく。

「だから、だからね、ヴァリー。また、会いたいんだ。あなたに最期なんて来ないから。絶対に、来ないから」

 それはただの希望だった。一縷いちるの望みとすら呼べないほどの、儚い希望だ。ヴェーラは血を吐くように苦しげに、尋ねた。

「また会える。会える、よね?」
「ああ」

 ヴァルターはことさらにゆっくりと応える。

「また、会えるさ」

 でも、その時はきっと――。

 ヴァルターはその言葉を苦々しげに飲み込んだ。

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