潜水空母ダニエル・マクエイドの格納庫にアラートが鳴り響く。続く放送によれば、エウロス飛行隊が戦場に現れたということらしかった。
ブリーフィングルームでそれを聞いた途端、ヴァルターはマーナガルムの面々と顔を見合わせてから、一も二もなく格納庫へと走った。自分の機体に飛び乗り、ヘルメットを装着する。
そのタイミングで隣に並ぶPXF001に乗り込んだばかりのシルビアから通信が入る。
『ナイトゴーント司令機が消滅したようです』
「消失? どういう状況だ? 撃墜か?」
ナイトゴーント司令機は無敵とまで言われていた個体だ。ナイトゴーントでありながら、妙に人間臭い動き――しかも超絶技巧の――をする機体であることは、ヴァルターも知っていた。
『詳細は不明ですが、空の女帝との交戦中にレーダーから消失したようです』
なるほど。
ヴァルターは機体のチェックを済ませつつ、機体をカタパルトに移動させる。後続の機体はクリスティアンのものだ。
『ヴァリーさんよ。おまいさんのやるこたぁ決まってんだ。司令機様が女帝陛下をお譲りくださったんだろうぜ』
『そうそう』
フォアサイトが口を挟む。
『自分の落とし前は自分でつけるんだね、隊長』
フォアサイトの突き放すような物言いに、ヴァルターは苦笑する。苦笑できる余裕が有ることに、ヴァルターは少し驚いた。
『わかってるさ』
そのやり取りの間に潜水空母は急浮上し、ハッチを展開した。空はすっかり暗黒に満ち、垂れ込め始めた雲に星も月も隠されているようだ。
水平線の向こうで、連続的な閃光が発生している。戦闘の輝きだ。あの光が発生するたびに、誰かが死んでいる。まさにあの場で、非人間的な殺戮の応酬が起きているのだ。
こんなところに帰ってきたがっていたのか、俺は。
ヴァルターは「やれやれ」と言わんばかりに首を振る。
『PXF001、ヴァルター・フォイエルバッハ少佐、発艦してください』
オペレータの声と共に、信号灯がグリーンに変わる。カタパルトによって機体は斜め上方に打ち出される。強烈な加速度がヴァルターをシートに容赦なく押し付けた。
ヴァルターは落ち着いて機体を立て直し、一直線に指定された戦闘空域へ向かって飛ぶ。シルビア、クリスティアン、フォアサイトも後を追ってくる。
『隊長』
シルビアが重苦しく呼びかけてくる。
『隊長。おかしな動きがあれば、私が……あなたを撃ちます』
「わかってる、シルビア」
ヴァルターは右に並んだニ番機を見た。夜闇の中ではキャノピーの内側を見ることもかなわない。だが、シルビアもヴァルターの方を見ていたに違いないとヴァルターは確信を持っている。
数分と経たずして、ヴァルターは上空を悠然と飛ぶ真紅の戦闘機を発見する。F108。量産機ながら、女帝用に改良を繰り返されているカスタム機と言ってもいい。
挨拶代わりに放った多弾頭ミサイルは、戯れに振りまかれたフレアによって尽く回避された。
「当たるはずもない、か」
というよりもむしろ、こんなもので撃墜されるのなら、それはそれで幻滅だ。
『久しぶり、白皙の猟犬」
「そうだな」
この挨拶により、ヴァルターは通信回線が完全に乗っ取られていることを知る。味方からの通信は遮断され、もはやシルビアの声は届かない。ヴァルターからの呼びかけも不可能だ。電子戦の初戦は完敗だ。
『アタシを殺せば、あんたは助かる。そういうわけか?』
「……そういうことだ」
ヴァルターの短い答えに、カティは笑ったようだった。ノイズに混じって聞こえるカティの呼吸音は、酷く乾いているように思えた。
『良いだろう。だが、アタシは手を抜かない』
「望むところだ」
ヴァルターは頷いた。
これが、俺の最後の戦いになるかもしれない。空を飛べる、最後の機会に。
ヴァルターは機体を巧みに操りながら、宣言する。
「始めよう、カティ・メラルティン」
『そう、だね』
カティは静かに、穏やかな声でそう応じた。
しかし、いざ戦いが始まると、ヴァルターはいきなり冷や汗をかくことになった。カティは、空の女帝は、まるで自由だった。システムの呪縛から解放されたかのように、飛行士の常識から尽く逸脱した動きをしてみせた。対するヴァルターはPXF001という最強の機体の性能を限界まで引き出すことで対抗しようとした。
「空の、女帝、ね」
それは壮烈な舞だった。自由に、力強く、風も海も空も、何もかもを従える、圧倒的な存在感。Gですら、女帝の撓る鞭の前には無力なようにも思えた。人としての限界を、あっさりと飛び抜けているようにすら思えた。
「褒めてばかりもいられない!」
ロックオンと同時にミサイルを放つ。女帝が振りまくフレアは、手動誘導に切り替えて回避する。再び自動に戻した時には、カティは完全回避の機動に入っていた。どころか、反転上昇の後の急降下から、機関砲の雨を降らすような芸当までしてみせた。ヴァルターも負けじと下降して追いかけるが、その時にはもうカティはそこにはいない。ヴァルターはまたも後ろを取られ、機関砲を撃ち込まれる。
圧倒的だ――!
自分が実験に協力していたニ年間。その間にも、カティはアーシュオンの飛行士たちを叩き落とし続けていたのだ。シミュレータ止まりのニ年間を過ごした自分との間に、埋められない差ができてしまったということなのだろう。
だが。
自分には後がない。戦うのなら、勝たねばならない。
正面から二機が交錯する。緑の翼端灯がやけに鮮烈に印象に残る。
体当たりも一瞬考えた。だが、ヴァルターの飛行士としての本能が、その動きを阻害する。
双方の機関砲が火を噴いた。両機の間を二本の光条が奔る。
相互に被弾五発。だが、致命弾には程遠い。かすり傷だ。
ヴァルターには秒間百発にもなる機関砲の弾が、全て見えていた。ゾーン状態といっても良かったのかもしれない。とにかく、その空間の全てが――カティの戦闘機以外の全てが――今はヴァルターの支配下にあるような感覚さえあった。
すれ違う一瞬に、二人はお互いを視認する。顔全体がヘルメットとバイザーで覆われているのだから、当然顔なんて見えない。だが、視線は確かに交わった。
カティは上に逃げる。ヴァルターは旋回して螺旋のようにそれを追う。しぶとく、どこまで追いすがる。上空二万メートル近くに上がったところで、お互いがお互いの背中を追いかける巴戦へと移行する。
無言の駆け引きが続く。背中に回っては機関砲を撃ち、背中を取られては回避して相手の後ろへなんとかして回り込む。空域の他の戦闘機など目に入らなかった。この戦闘、誰にも邪魔は出来ないのだ。シルビアたちにでさえ。
十数分に渡る攻防の末、必殺の一撃を叩き込むチャンスを得たのはヴァルターの方だった。いや、或いはそれはカティの誘いだったのかもしれない。だが、ヴァルターは躊躇することなく引き金を――。
「ッ!?」
指が動かなかった。痺れてしまったかのように、指先の感覚が無くなっていた。
セイレネスか!?
その一瞬の隙に、カティは機体を垂直に立てて胴体ブレーキを描けつつ、真上に逃げた。ヴァルターは追いつけない。身体が言うことを聞かなくなっていた。
「ヴェーラか……?」
ならば、よし。
ヴァルターは覚悟を決めた。ゆるゆると上に向かって飛ぶヴァルターの機体の内側で、ロックオンアラートががなり立てる。上空、真正面からカティ機が落ちてくる。ヘッドオンからのFOX2――もはや回避のしようなどなかった。
「終わったな」
ヴァルターは来るべき衝撃に備えて歯を食いしばる。
だが、カティ機は何もしてこなかった。機関砲の一発も放たずに、真下へと飛び去っていく。
その数秒の間に、ヴァルターは状況を理解した。
「もういい。そう言うんだな、ヴェーラ」
もういい、か。
ならば、そうしようか、ヴェーラ。
ヴェーラが幕を引いたのだ。それは紛れもなく、ヴェーラの意思表示だった。
異存はないさ。
呟きながら、母艦ダニエル・マクエイドに向かう。シルビア機がいつの間にか隣に並んでいた。
『隊長……』
シルビアの声が大きく震えている。ヴァルターは苦笑でそれに応える。
自分は帰るのだ。味方という名の処刑人たちのところへ。
最後の機会には感謝している、シルビア、ミツザキ大佐。華々しくは戦えた。勝ちの一歩手前まではいけた。結果として負けたことにも、悔いはない。
悔いは、ない。
ヴァルターは自分に確認するように、そう呟いてみせた。