ヴェーラの奥歯が音を立てる。顎が痺れるほどに、ヴェーラは歯を噛み締めた。
この決断をしたのは、わたしだ。
なのに――。
ヴァルターにも、カティにも、撃たせない。たったそれだけの決断だった。
絶対にカティを撃墜させない。それが大前提だった。
だが同時に、カティがヴァルターを撃墜してもいけない。それが次の条件だった。
ヴェーラにとって大切な人が、ヴェーラの好きな人を殺してはならないのだ。答えはとてもシンプルだった。
しかし、結果としてヴァルターは死ぬ。この戦闘の結果では、ヴァルターの死を免れられるなんてことはないだろう。アーシュオンという国は、既定路線に乗せられたものに対しては非情だ。立てた功績すべてを剥ぎ取って、処刑場に送るのだ。
そうとわかっていても、ヴェーラにはそれ以上の手段を思いつくことができなかった。
血を吐くような思いと行為。その結果が、ヴァルターとカティの戦いの、この結末となったのだ。
そもそも、ヴェーラたちは当初ヴァルターたちに干渉できない位置にいた。ヴァルターの対セイレネス能力によって、ある程度の距離に近づかなければ、「トリガーを引かせない」といった繊細な干渉は難しかった。
ヴェーラたちは遠くにいたナイアーラトテップが前線に向かって動き始めたのを検知し、それに呼応して戦艦を前に進めていた。それによって、ヴァルターたちをセイレネスの有効射程に収めることができたのだ。
「結局、偶然だ」
ヴェーラは自らを嘲笑う。こんな偶然がこのタイミングで起こらなければ、今の戦いはヴァルターの勝利で終わっていた可能性が高かった。ナイアーラトテップが出てきてくれなければ、ヴェーラたちはただカティが撃墜されるさまを眺めているだけだったかもしれない。
「クソッ……」
『ヴェーラ、クラゲがッ!』
レベッカの叫び声と共に、暗黒の空間が突如、明転した。ナイアーラトテップを有効射程に捉えた瞬間の出来事だ。
空間はひたすらの白。壁も天井も床もない。だが、足には固い感触が伝わってくる。そこに自分の影はない。あるのは、自分と、黒いドレスの黒髪の少女の姿だ。そこにレベッカも姿を見せる。
ヴェーラはレベッカの気配を隣に感じながら、油断なくその少女を見る。彼我の距離は十メートルほどだ。
少女はヴェーラたちを黒い瞳で見つめ、口を開いた。
『私ハ、ヒメロペ。テルクシエペイア、ハ、何処……?』
何もないはずの空間に、その声が反響する。ヴェーラは右手でレベッカの左手をしっかりと握り締め、黒髪の少女を睨み据えた。
「ベッキー、この子、あの時逃げたナイアーラトテップだ」
「あの時?」
レベッカは問い返してから、その出来事に思い至った。弾道ミサイルを用いてナイアーラトテップを一隻撃沈した、あの戦いのことだろうと。
『姉様ハ、何処……!?』
少女の声が響くたびに、ヴェーラとレベッカの周囲の空間がほのかに揺れる。薄緑色の波紋が広がり、少女に届く。すると少女の周りにも波紋が生まれた。
その現象に困惑するレベッカを尻目に、ヴェーラは冷たい微笑を見せていた。
「あなた、ヒメロペだっけ? あなたは何のために戦っているの?」
『知ラナイ』
「じゃぁ、何のために殺すの?」
『敵ダカラ……』
明快にして迷いのない答えを聞いて、ヴェーラは音高く舌打ちした。
「それはあなたにとっての敵? それとも、あなたの大事な誰かにとっての敵?」
『知ラナイ。敵ハ、倒ス。ソレガ、私ノ存在理由』
そんなことで――。
なんと幸せな敵なのだろう、彼女は。
ヴェーラは敵を鋭く呪った。
そこまで割り切ってしまえることに、否、その程度の思考に。ヴェーラはそれに今、心の底から憧れ、呪った。
「あなたは、何なの、ヒメロペ」
『私ハ……ナイアーラトテップ……這イ寄ル混沌』
少女はそう言って両手を広げた。一瞬の輝きの後、その手には拳銃が出現していた。
「なんの手品だ、アレ」
ヴェーラは突如出現した武器に驚く。そのヴェーラの右手をレベッカが引っ張る。
「ここは論理層よ、ヴェーラ。私たちも武器を持ちましょう」
まだ困惑しているヴェーラに向けて、ヒメロペは両手の銃を上げて発砲してきた。一発はレベッカの右腕をかすめ、もう一発はヴェーラの左頬を浅く切った。
「いったいなッ!」
頬を抑えて怒鳴るヴェーラと、右腕をさすりつつ考え込むレベッカ。ヒメロペは次の一撃で決めようと距離を詰めてくる。数メートルとない。
「論理層は、観測によって」
レベッカは左の掌をヒメロペに向かって突き出した。ヒメロペは壁にぶつかったかのように弾き飛ばされる。
「事象が組み上がる。たぶんね」
「すごい、どうやったの」
「強くイメージするの。今は私たちとヒメロペの間に壁を立てた」
ヒメロペはその場から射撃を繰り返す。が、レベッカの立てた壁をいくらか削って終わった。
「こんな機能、聞いてないよ、わたし!」
「私もよ。戦艦独自のモジュールでしょうね、新しいやつ」
この機能の実現は、相手のセイレネスに干渉するオルペウスの副産物であるとも考えられる。それにしても何の断りもなく新機能が実装されているとは。ヴェーラとレベッカは、ブルクハルトの飄々とした様子を想像しながら、小さく溜息をついた。
「好き放題やってくれちゃって、あの教官は」
「でもおかげで助かったわ」
レベッカは壁を挟んでヒメロペと正対する。彼我の距離はおそらく三メートルもない。レベッカはヴェーラの右肩に触れて囁いた。
「この論理層のダメージは、おそらく物理層にも跳ね返る」
「よいっしょっと」
ヴェーラは軍用のアサルトライフルを強くイメージする。するとヴェーラの目の前に無骨なアサルトライフルが出現した。ほとんど同時にレベッカの目の前には対物狙撃ライフルが現れる。
「この距離で狙撃銃?」
「し、仕方ないでしょ。イメージできなかったんだもの」
レベッカは言いながら安全装置を解除する。ヴェーラもアサルトライフルを手にしたのは初めてだったが、使い方はなぜだかすぐに理解できた。安全装置を玄人ばりの手付きで解除し、チャージングハンドルを引き、セレクターレバーを連射に合わせる。装弾数は知らないが、足りないことはないだろうとヴェーラは判断する。そもそもイメージの世界だ。マガジンの大きさなど問題ではないはずだ。
「ヴェーラ、相手の武器が変わった」
ヒメロペも拳銃では埒が明かないと判断したのか、両手にマシンガンを出現させていた。壁を回り込もうとするヒメロペと、それを阻害するように壁を立てるレベッカの間の攻防が繰り広げられる。
「ベッキー、防戦一方じゃどうにもならない。物理層側の状況もわからないし」
「そうね。時間かけたくないわね」
「生身の撃ち合いなんて、想定外も良いところだけど」
ヴェーラはアサルトライフルを構える。だが、壁が邪魔になって射線が確保できないでいる。
「ただ見せられてるだけってのよりは、まだ救いもあるか」
「ヴェーラ……!」
いよいよ壁が消失した。たちまち赤い照準線のようなものがヴェーラとレベッカを捉えてきた。一方でヒメロペの身体の周りには、青い照準円が発生していた。
ヴェーラとレベッカは同時に反対方向へと跳んだ。その瞬間、ヒメロペからの銃弾の群れが二人がいた場所を貫き通した。ヒメロペは二人をそれぞれ照準し、左右のマシンガンを変幻自在に撃ち放ってくる。
「あぶな!」
ヴェーラは寸でのところで壁を立てて銃弾を防ぐ。だが、壁も長くは持たない。
「ベッキー、防御頼んでいい?」
「いいの?」
「うん。たぶん、防御はわたしがやるよりベッキーのほうが確実だ。その分きみの防御は手薄になるけど」
「その分あなたが早く倒してくれればいい、でしょ?」
「了解」
ヒメロペとヴェーラの距離は十五メートルほどある。もっともここは論理層だ。物理的距離がどこまで当てになるかは懐疑的にならざるをえない。
「こんな白兵戦させるなら、ちゃんと訓練くらいさせてほしいよね」
「まったくだわ」
レベッカは呼吸を整え、ヴェーラの頷きかけた。
「走って!」
「了解」
壁が消えた瞬間にヴェーラが動く。赤い照準線がヴェーラを捉える。瞬間、その場所にピンポイントで壁が生まれ、射線を切る。ヴェーラは即座に機動を変え、壁を回り込む。そこにまた赤い照準線が走る。
レベッカの防御は的確だった。自身もヒメロペの左手のマシンガンで攻撃を受けつつも、ヴェーラへの射線切りは完璧に行えている。レベッカ自身が驚くほどの集中力が発揮されていた。ヒメロペの次の行動が読めるかのようだった。
ヴェーラがアサルトライフルを連射する。それはヒメロペの立てた壁に阻まれる。ヴェーラは一歩退いて再度連射を試みようとして、一拍置いた。
ヒメロペのマシンガンが二丁ともヴェーラに向けられる。まずはヴェーラにトドメを刺そうという目論見だった。ヴェーラは目を細めてヒメロペを見る。
直後、ヒメロペは倒れた。背後に回ったレベッカの一撃が、ヒメロペの右膝を吹き飛ばしていた。
ヴェーラは冷たい表情でヒメロペに近づき、両手のマシンガンを蹴り飛ばした。
「あなたのような存在は幸福だよ」
大ダメージを受けて朦朧としているヒメロペに、ヴェーラは囁いた。
『アナタモ、私タチノヨウニ、ナレバ、イイノニ……』
周囲は再び完全に白の世界に戻っていた。戦いの痕もない。ただ右足を失ったヒメロペと、レベッカと、ヴェーラだけがいる。
「わたしはね、ヒメロペ。大事なものが何なのか。そんなことも言えないような存在にはなりたくないんだ」
ヴェーラはそう言い切ったが、ヒメロペの黒い瞳は懐疑の表情を浮かべていた。
『逃ゲラレナイコトカラ、逃ゲヨウトスル事ハ、単ナル――』
「それでも!」
ヴェーラはヒメロペの前にしゃがみ込んだ。レベッカはその後ろで、対物狙撃ライフルの銃口をヒメロペに向けている。
「それでもね、わたしは考える。悩む。苦しんだっていい。そしてわたしは、わたしの結論を出す! わたし自身の言葉で、行動で、示す! わたしの命を賭けてでも、わたしはわたしの正義を貫く!」
『ソノ人モ……』
ヒメロペはレベッカを指差す。
『同ジト言エルノカ』
「あたりまえだ!」
ヴェーラはヒメロペを睨み、吐き捨てた。そして険しい表情のままレベッカを振り返る。レベッカは頷き、毅然として言った。
「あなたの言葉には、私たちは揺らがないわ、ヒメロペ。私はヴェーラの苦しみを感じたい。ヴェーラと一緒に泣きたい。笑いたい。だから、私はヴェーラの行為のすべてを受け容れる」
レベッカは力を込めて言う。
「どんなに詰られたとしても、たとえ私がとても無力であったとしても、私はヴェーラといたい。死ぬまでヴェーラと一緒に生きたい。だから、あなたたちとは違う」
『フフフ、ハハハ……。自分ヲ不幸ダト勘違イデキルアナタタチニ、私タチノ何ガ理解ルト言ウノ……?』
「勘違いだって?」
ヴェーラは思わずヒメロペの肩をつかんだ。ヒメロペは虚ろな瞳でヴェーラを見上げ、そして、口角を上げた。感情のない作りものの微笑だった。
『アナタタチハ、ヨリ凄惨ナモノヲ目ニスルデショウ……。私タチハ――』
ザザッ――。
ヒメロペの姿がブロックノイズと化して、消えた。ヒメロペの肩をつかんでいたヴェーラの手が、虚しく空を掻く。
「何が……」
「死んだ、のかしら?」
レベッカが呟くのと同時に、無限の白い空間が色あせ始めた。
「うわっ!?」
足元にあった地面のような感覚も消え、二人は不意に転落した。
「ヴェーラ!」
「ベッキー!」
二人はすぐにお互いの手を掴み取り、そして抱き合った。ヴェーラは抱きしめたレベッカの頬の温度を喉元に感じながら呟いた。
「怖い?」
「そんなに」
「ほんと?」
「このまま死ぬとしてもあなたが一緒だから」
レベッカの言葉に、ヴェーラは苦笑する。
「今のわたしは、きみの好意に応えられないんだ」
「それでもいいのよ。私の気持ちは私のものなの」
「きみにしては論理的じゃないね」
ヴェーラが言うと、レベッカは顔を上げる。二人は見つめ合う形になる。
「愛ってそういうものだもの」
「難しいね……」
ヴェーラは嘆息する。レベッカは首を振る。
「あなたの胸の傷は、愛を知っているからこそ痛いの」
「詩人だね、ベッキーは。でもわたし、こんな痛みは知らないでいたかった」
ヴェーラは唇を噛み締めた。二人はなおも落ちていく。
「あなたが私を要らないと言う日が来るまで、私は絶対にあなたのそばにいるから」
「こないさ、そんな日」
ヴェーラはそう言って、レベッカを強く抱きしめた。
「絶対、こないよ」
そして二人は闇の中に消えていった。