それから約一ヶ月後のことである。
ヴェーラは夢を見ていた。
目の前には二人の憲兵に連れられたヴァルターが立っていた。ヴェーラはヴァルターを見つめ、ヴァルターもまた、ヴェーラを見つめていた。
ヴェーラは震える声をおさえつけて、言った。
「わたしは、あなたを愛してしまった」
「知っていた」
ヴァルターは優しい眼差しでそう応える。
「だけど、俺はエルザを愛していたし、今でも愛している。だから、その気持ちを受け取ることはできないんだ」
「そうと分かっていても、わたしはあなたを愛してしまった」
ヴェーラの視界が涙で揺れる。眩しくて、思わず指で目をこすった。
「次は出会いの順番が違えば良い……のかもしれないな」
「そう、だね」
うつむいて涙を流すヴェーラの髪に触れ、ヴァルターは少し困ったような微笑を浮かべた。
「ごめんな――」
「謝らないで」
ヴェーラは首を振る。
「わたし、きっと、そういうところを含めて、あなたのこと」
ヴェーラは両手を握り締め、唇を噛み、両目を力いっぱいに閉じた。
数秒の末に目を開けると、憲兵の動きよりも先にヴァルターを抱きしめていた。
「あなたのことを、愛していたから!」
涙が止まらない。憲兵たちも困惑したように顔を見合わせている。
ヴェーラは声を上げて泣いた。憲兵たちが時間を気にし始めてもなお、二人は離れなかった。
「何をしている、時間だぞ」
通路の奥から参謀部の制服を付けた女性将校が姿を見せる。軍帽を目深に被り、軍靴の音を高らかに響かせていた。
憲兵たちが慌てて敬礼すると、女性将校は軍帽を直しながら頷く。
「待って!」
連れて行かれようとするヴァルターに、ヴェーラは追いすがる。憲兵は銃を見せて追い払おうとしたが、女性将校に止められる。
「いいのですか」
「構わん。結果は変わらんのだ」
ヴェーラは女性将校を一瞬振り返ったが、すぐにヴァルターの腕にすがりついた。
「さいごに、さいごに……キスだけでも!」
ヴェーラの願いに、ヴァルターは暫くの間、固まった。しかしやがて、小さく頷いてみせた。
「一度だけ、だぞ」
そうだ、一度だけ。何がどうなっても、この一度が最後。
ヴェーラは頷いた。それでもいい。それで、いい。この結末を導いたのは、自分なのだから。
ヴァルターはヴェーラの背に手を回し、ゆっくりと唇を重ねた。温かい感触がヴェーラを包み込み、吐息がヴェーラを満たす。その温かさは、傷だらけの心に沁みた。痛くて、痛すぎて、ヴェーラは泣いた。それでもその唇からは離れられなかった。痛みが、ヴェーラを満たしていた。容赦のない痛みが、心に出来た全ての傷を覆っていく。容赦のない痛みが、心にできたすべての傷を埋めていく。
「時計が進んでいたようだが」
女性将校は軍帽の手をやって、その赤い瞳で二人を見た。
「残念ながら、今度こそ時間だ」
――ヴェーラの初めてのキスは、終わった。
ヴェーラは崩れ落ち、床に爪を立てて叫ぶように泣いた。
「さぁ、行くぞ、フォイエルバッハ少佐」
女性将校がヴァルターの肩に手を置き、言った。
最後の扉が開く。ヴァルターたちがその向こうに消える。
「ヴァリーッ!」
分厚い扉が、ヴェーラとヴァルターとを明確に隔てた。叫ぶその名も、扉に弾かれて虚しく消える。この声がヴァルターに届くことはもう二度とない。
ちゃんと伝えられただろうか。迷いはなかっただろうか。ヴァルターは……少しは安らげたのだろうか。ヴェーラは嗚咽に苦しみながら、そんなことを考えた。
やがて――。
「!」
ヴェーラは目を覚ます。午前二時。アーシュオンの首都は……午後一時。
ヴェーラは跳ね起きるとベッドから飛び降りた。そしてそのまま裸足のまま階段を駆け下りた。胸騒ぎが呼吸をも阻害する。
リビングは暗かった。テレビの明かりが、忙しく壁と天井を彩っている。ソファにはエディットが一人腕を組んで座っていて、とても厳しい顔をしていた。その視線の先にはテレビの画面がある。
「エディット、あのね、いま、ヴァリーが……!」
「いま……」
エディットは驚いたように顔を上げて、ヴェーラを振り返った。そして小さな声で言った。
「ええ、いま、よ」
テレビの画面が速報に切り替わっていた。ヴェーラは思わずそのテロップを音読した。
「オルペウス開発の最大の功労者、アーシュオンにて謀殺される……?」
何を言っているんだろう、このテレビ。
ヴェーラは心が急に冷たくなったのを感じた。不愉快な感触だった。
テレビの向こうでは、ヤーグベルテのマサリク上院議員が、拳を振り上げて叫んでいた。
『今、まさに今! 我が国のために単身敵地に乗り込み戦った英雄は、このようにして、死んだ! 否、殺された! 我々は我らが救国の英雄、ヴァルター・フォイエルバッハの死を無駄にしてはいけない!』
「え? ……えっ?」
理解が追いつかない。ヴェーラは混乱した。
そして思考回路が焼ききれそうになって、ようやく、ヴェーラは「嘘だ!」と叫んだ。
「エディット、この人なにを言っているの!? この人、ヴァリーをヤーグベルテのスパイだったみたいなことを言っている! 何言ってるの、この人! ねぇ!?」
その時、レベッカが息を切らせてリビングに現れた。
「大きな声出して、どうしたの、ヴェーラ」
「ヴァリーが今、殺されたんだ」
「い、いま……?」
レベッカは見ていた。ついさっきまで。
自分がヴァルターを処刑場に連れて行く憲兵になった夢を。ヴァルターはやや色の抜けた黒髪を肩口で切りそろえた女性と、長いキスをしていた。そして目を覚ます直前に、ヴァルターが――。
レベッカは唾を飲み込み、呆然とヴェーラの空色の瞳を見た。ヴェーラは拳を震わせながら、レベッカに救いを求めるかのような口調で言い募った。
「そしたらね、テレビのあの人が! ヴァルターのことをヤーグベルテの英雄だったって。スパイだったんだって!」
「えっ? な、なに言ってるの、その人」
レベッカの目が吊り上がる。
「エディット、どういうことなんですか。説明してください」
「……私には、何も言えないのよ」
エディットは顔を手で覆う。その途端、ヴェーラは床を蹴ってリビングから出て行った。力いっぱいに閉められたドアが大きな音を立て、窓ガラスまで揺らした。
「エディット、これはつまり、政治の都合ですか」
「何だって使う」
エディットは首を振る。
「国益の名の下、国際的地位の相対的向上のためならば、なんだって。それが今の時代の文民統制の姿なのよ」
それを聞いたレベッカは、急激に脳の温度が下がっていくのを感じた。
「無情、ですね」
「政治の力の前には、私たちは驚くほどに無力なのよ」
エディットの独白に対し、レベッカの心は全く動かなかった。感情が凍てついてしまったかのようだった。
「死者の名誉まで穢して、私たちは何をしたがっているのでしょうね」
レベッカの冷たい表情と声音が、憔悴しきった様子のエディットを襲う。エディットは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出し、顔も上げぬままにポツリと言った。
「それは、私が答えるべきことではないわ」
「そう、でしょうね」
レベッカは冷たく言い放つと、静かに自分の部屋へと戻っていった。
エディットは両手を握りしめる。拳が震える。義眼は冷淡にテレビの映像を脳に送り込み続けている。
「私にどうしろっていうの」
どうしたら良かったというの? 私になにができたって?
エディットは我慢できなくなるほど強く奥歯を噛みしめる。砕けてしまえと祈りながら、噛み締めた。だが、奥歯は砕けず、エディットの祈りは叶わなかった。涙は出ない。エディットの目に落涙の機能はない。
泣けないことが辛かった。
「くそっ」
悔しい。無力で何もできない、何もできなかった自分が、虚しい。憎らしかった。
「くそっ!」
握り締めた両手の拳をテーブルに向けて打ち下ろす。「砕けてしまえば良い!」そう思いながら、だがしかし限界ギリギリに力加減をしてしまう自分に、ほとほと嫌気がさした。結果として両手は痺れるほどに痛んだが、所詮はそこまでだった。
「なんだよ、なんなのよ、もう……!」
エディットは両手で髪を乱暴に掴む。豪奢な金髪が乱れる。
「私、何してるんだろ……!」
大切なあの子たちに、何もしてやれてない。それどころか苦しみの片棒を担いでる。いろんな言い訳を口にして、結局は成り行きに任せて。ごめんなさいすら言えない立場に、私はまだしがみついているんだ。惨めだ。情けない。
横隔膜が痙攣する。嗚咽が生まれる。
「ごめんなさい……」
エディットは誰も聞く者のいない謝罪を口にする。
「ごめんなさい……」
エディットは激情のままに、髪を掻き毟った。