ヴァルターの処刑から二ヶ月が過ぎ、二〇九〇年十二月後半に差し掛かる頃――。
第七艦隊総司令官、リチャード・クロフォード准将は、旗艦ヘスティアのCICの司令席にて、ナイアーラトテップとの戦闘に備えていた。
これから行われるのは、二隻の戦艦――メルポメネとエラトー――を主軸に据えた、大規模な掃討作戦だ。戦艦はその莫大な運用コストにより、軽々な運用をすることができない。まして、万が一にでも喪失するようなことが起きてしまうと、ヤーグベルテの命運すら消し飛びかねない。軍首脳部は総じて戦艦を矢面に立たせることには躊躇していた。
しかし、クロフォードは戦艦を最前線に押し出す必要性を説き続けた。今回の作戦の目標はそもそも、新たに存在が確認された三隻ものナイアーラトテップを撃破殲滅することである。通常艦隊では手も足も出ないことは火を見るよりも明らかであった。そもそもセイレネスなしには戦えないのだ。そしてセイレネスは物理的距離の影響も少なからず受ける。となれば、思い切って最前線に立たせ、正面から激突、一挙殲滅と持ち込むのが最上策であると、クロフォードは考えた。
セイレネスの担当主幹である参謀部第六課はその作戦に難色を示した。主な理由はヴェーラの不調・不安定さである。そこでクロフォードは第三課のアダムス大佐に働きかけ、今回の作戦を強引に押し進めた。
クロフォードの視線の先で、通信班と索敵班員の動きが慌ただしくなる。それとほとんど同時にレベッカからの通信が入る。
『クロフォード准将、目標三体を発見しました。レーダーリンク、開始します』
「ご苦労。索敵班、処理急げ」
クロフォードは正面にあるメインモニタを無表情に見つめる。ほどなくして、ナイアーラトテップ三隻の位置情報が反映される。索敵班の班長が即座に上方を確認して、クロフォードを振り返る。
「距離、百五十キロ。このままですと二時間半後には接敵します」
「よろしい。艦隊および戦艦たちへの通信を開け」
クロフォードは席に備え付けられたマイクを手に取った。
「これより我々は、ナイアーラトテップ三隻との戦闘を開始する。我々第七艦隊は囮である。なお、我々の哨戒経路は、事前に敵軍にリークされている!」
これまで行動を秘匿し続け、神出鬼没の遊撃部隊として、散々にアーシュオンを苦しめてきた第七艦隊である。それが単体で動き回るという情報をアーシュオンは掴まされた。真偽はともかく、アーシュオンは動かざるを得ない。であれば、もっとも運用しやすくかつ被害が出ることも考えにくいナイアーラトテップを動員してくるだろう――クロフォードの読みは的中した。
「我々はクラゲどもの待ち伏せに真正面から突っ込むことになる。よって、甚大な被害が予測される」
クロフォードは淡々と告げる。
「だが、信じろ。戦艦を。セイレネスを。ディーヴァたちを」
歌姫の力については、今や世界中で知らぬ者はいない。絶対の信頼性、圧倒的な力――彼らの思うセイレネスの力とはそのようなものだろう。
そしてまた、ヴェーラの力が今までになく高まっていることも、データで確認済みだった。ヴェーラが精神的安定性を欠いていることを逆手に使い、薬物を大量に投与する大義名分を得た。クロフォードのその助言は功を奏し、どうしても不安定さが残っていたセイレネスを、極めて高いレベルで安定させることができるようになった。
その対照実験として、レベッカには薬物は投与していない。幸いにしてレベッカの精神的堅牢性は極めて高く、かつ安定しており、定期的なカウンセリングさえ行っていればセイレネス運用には何も支障が出ないことが確認されている。
この日の準備のために、クロフォードは二年以上を費やした。それでも当初の見込みではあと数年はかかる予定だった。アーシュオンのトップエースを手に入れられたことが、予想外の方向でプラスに作用した。ヴァルター・フォイエルバッハの存在とその扱いで、ヴェーラの精神はかなりのところまでコントロールできることが確認できたのだから。今後のヴェーラの思惟の誘導のために、有意なデータが多数取得できたというのは思わぬ副産物だった。
悪く思うなよ、エディット・ルフェーブル――。
クロフォードは心の中で懺悔する。
しかし、これはヤーグベルテにとっては必要な通過儀礼だ。歌姫は貴重な存在だったが、だからこそ、国家の命運を担うという大義を背負わなければならない。その大義の前には、一個人の権利や自由など、一顧だに値しないのだ。
レーダーに目をやれば、ナイアーラトテップを示す三つの光点は、確実に第七艦隊に接近してきていた。だが、あれらはまだ高度に隠蔽された戦艦には気付いていない。
「ヴェーラ、レベッカ。我々はクラゲどもに手が出せない。手早く頼む」
『了解』
『了解しました』
二人の歌姫が同時に応じる。どちらの声にもほとんど感情のようなものが感じられない。無機的で冷たい声だった。
だが、それでいいのだ。
クロフォードは苦笑を見せる。
ヴェーラたちに求めているのは人間性などという陳腐なものではない。兵器としての優秀さこそが、本質だ。ヴェーラの強制的な精神安定も、レベッカの強靭な精神力も、どちらも軍にとっては有用なものだ。
ヴェーラの前例により、不安定になった歌姫には薬物投与という手段が使えることが明らかになった。いや、もしかしたら一番最初の段階から薬物投与を行い、初期状態から高い安定性を確保するというのも手段としては有効なのかもしれない。人道性がという批判も出ようが、明確な国防・国益の前にそんなくだらない議論はするに値しない。
「俺の思惑など、あいつにはとうにお見通しだと思うが」
クロフォードは頬杖をつきながら呟いた。エディット・ルフェーブルに対する良心の呵責のようなものがないわけではない。だが、そんなことも、クロフォードにしてみれば些細な問題に過ぎなかった。
「艦隊に通達。敵、ナイアーラトテップ三隻を最大射程に捕捉。我々は気付かぬふりをして、奴らの支配海域を通過する」
クラゲどもが食いつくのを待つ。
ジリジリするような時間が過ぎる。
クロフォードは腕を組み、シートに身体を押し付けて待つ。
第七艦隊全体の緊張が、限界にまで高まっている。少なからぬ艦艇がナイアーラトテップの餌食になるだろう。あるいはこの旗艦・ヘスティアが真っ先に沈められる可能性もある。だが、それでも、ナイアーラトテップを三隻殲滅できるのであれば、お釣りが来る。自分たちにはそれだけの覚悟があるのだ。文字通りに命を賭けているのだ。歌姫たちの舞台のために、自分たちは命を捧げているのだ。
ゆえに。
歌姫たちの人権や人格など、取るに足らない。議論の俎上にすら上げて良いような話題でもないのだ。国家国民の命運を前にして、歌姫といえどもたかだか一個人に過ぎない人間の我儘など聞いていられるはずもない。今の情勢はそんな悠長なことを言っていられるフェイズではないのだ。
「提督! 駆逐艦ゼタ2がロスト! 駆逐艦ヒリアおよびウーレが対潜攻撃を開始しました」
「よろしい」
クロフォードは立ち上がる。
「ゼタ2乗員の救助に二隻回せ。対潜攻撃部隊および戦闘機、発艦させろ。クラゲどもの艦載機を足止めするだけでいい! 艦隊はクラゲを引き付け続けろ。いかなる犠牲を払ってでも、三隻全てを戦艦に仕留めさせろ!」
指示を出しているうちに駆逐艦ヒリアが撃沈させられ、救助に向かっていた駆逐艦アッバルと軽巡キレントが大破する。ナイアーラトテップたちは猛烈な勢いで艦隊を突っ切り、まっすぐにヘスティアへと向かってきていた。
「長くは持たんな」
恐ろしい攻撃力を持つナイアーラトテップ。その急速接近を確認しながら、クロフォードは目を細めた。