17-2-1:レメゲトン

歌姫は壮烈に舞う

 闇の中に佇むマリアは、深い溜息をついた。

 マリアがまとう暗黒のエンパイアドレスは、周囲を包む闇にすっかりと溶け込んでいた。そのマリアを頂点とする一辺三メートル程度の正三角形を作るように、の揺らぎが存在していた。

 マリアはその黒褐色の瞳で、その二つの揺らぎを順に睨んだ。

「姉様に余計なことを伝えさせたものね」
「余計なこと? そうかしら?」

 の揺らぎが反応した。

「真実の片鱗くらいは与えてあげないと、むしろアンフェアだと思うけれど?」
「アンフェア? いまさら何を言っているの」

 マリアは侮蔑の意志を隠そうともせず、言い放つ。

「あなたたちが高位の存在であることは認めざるを得ない。けれど、だからといって見下され続けることについては容認できない」
「あらあら? なら、どうするつもり?」

 の揺らぎが挑発する。マリアは小さく唇を噛んだ。わらう。

「あなたは誤解しているようね、マリア」
「誤解?」
「そう、誤解よ。あなたは私たちがこの事象群のすべてを仕組んでいるとでも思っている?」
「肯定よ、当然ながら」
「ふふふふ、過大評価、痛み入るわ。もっとも、少なくとも目に見えるところに関しては、その見解で正しいのかもしれないけれど」

 は言う。

「観測されることなしには、事象は可能性の何か、に過ぎない。観測されることによって、その事象は存在を開始する。私たちはただ観測しているだけに過ぎない。可能性の種を振りいて、たちがどんな選択をするかを観察し、観測しているだけなのよ」
「それをtrueと仮定するとして」

 マリアはゆるやかに腕を組んだ。

「余計な可能性をくのはやめてほしいわ」

 その言葉に、は声を上げてわらった。

 の方が言う。

「この世界に在る以上、あたしたちの干渉から、そして観測から逃れる術はない。それはあのベルリオーズでさえもまたしかり」
「私たちは本来、這い寄る混沌ナイアーラトテップと呼ばれるべき存在なのよ。いつの間にか其処そこて、いつの間にか世を混沌カオスで満たす――」

 の言葉に、マリアは露骨に顔をしかめる。

「御託はいいけれど。つまり、あの方はにじってきたあなたたちに気が付いた、いわば選ばれし人間だったというわけね?」
「そうね――」

 の揺らぎが大きくなる。

「私たちにしてみれば、の存在は言ってしまえば予定外だった。でも、だからこそ、私はに関心を持った」
「ファウストを堕落させんとした悪魔メフィストフェレスのように?」
「そうね。そしてあなたたちは、私たちに触れる都度に、私たちに漸近ぜんきんする」

 が闇を覆い尽くす。マリアは忌々いまいましげに目を細め、それでもの揺らぎから目をらさない。

「漸近してどうなる? とでも言うわけ?」

 マリアの詰問に、二つの揺らぎはまたわらう。

「セイレネスは、プロトコルであると同時にゲートウェイ。ジークフリートの生み出す論理層と、物理層たる現実世界をつなぎ合わせるための媒体メディア。そして、それ自体を実行するための機構システムでもあるのよ。いわば、論理の――神の世界の法則インターフェイスを、現実世界に実装インプリメントするためのもの」
「意味がわからないわ」

 マリアは苛々とした表情で腕を組み、指先で二の腕を叩いた。

 そこでとマリアは気が付く。

「まさか――!」
「うふふふ、そう、そのよ」
 
 は愉快そうに肯定する。マリアは半ば呆然としつつ、呟く。

「セイレネスの発動アトラクトが、論理層を物理層に漸近させていくって……」
「ご明察」

 今度はが肯定した。銀一色の空間にあっても、は厳然と存在していた。

 マリアは無意識に唇を舐める。

「論理層の法則プロトコルを物理層に拡張できるとするなら、理論的には物理層の全て、この……とでも言うわけ?」
「俗物的な見地からは――」

 が答える。

「そうと言っても良いでしょうね」

 銀の輝きが一層に強くなり、マリアはいよいよ目を閉じる。脳を焼き尽くそうとするかのようなその輝きは、マリアにはまぶしすぎた。

「私は、あなたたちの目的に興味なんてない。でも――」
「姉様たちをこれ以上苦しめないで、とでも言う?」

 の声が嘲弄する。の気配がマリアの目の前まで漂ってくる。

「それは無理なのよ、マリア」
「……なぜ?」
「だってこの可能性事象の地平ではね、あなたの姉様方、あの子たちこそがレメゲトンなんだから」
「レメゲトン?」
よ。ソロモンの鍵」

 は思わせぶりにそう言った。

 マリアは息を飲み、そのの気配を両手で払いける。

「私たちはと戦っていたのね、最初から」

 そう口にした瞬間、世界は再び闇に落ちた。マリアは恐る恐る目を開け、周囲にも見当たらないことに安堵する。

 レメゲトンの第一巻「ゴエティア」には、七十二柱の悪魔を呼び出すすべが記されている。
レメゲトンという表現が単なる比喩に過ぎないのだとしても、あのの悪魔の目的とはそうそう外れたものではないのだろうという予測は成り立つ。

 セイレネスのゲートウェイから、異界の混沌アンノウン・プロトコルを呼び寄せる。可能性事象そのものを崩しさり、確定事象をも喪失させる。

 それが這い寄る混沌ナイアーラトテップたるあの目論見もくろみなのだとしたら? あの二人が、「ジークフリート」と「セイレネス」をもたらした動機がそれなのだとしたら――。

「私には少しも面白くないわ……!」

 奥歯を噛み締めながら、マリアは吐き捨てる。

創造主デーミアールジュ。あなたはそれで、本当に良いのですか」

 マリアは視線を感じて、尋ねる。

 マリアの背後に、ジョルジュ・ベルリオーズの姿が現れる。微笑を浮かべる創造主デーミアールジュに、マリアは向き直る。

「なにゆえ姉様がたに、かくも酷い仕打ちを?」
「酷い仕打ち、か」

 ベルリオーズはマリアの左肩に手を置いた。マリアは全身を緊張させる。

「あの子たちは人の未来のために必要な道具インストゥルメンタルなのさ。僕がジークフリートとバルムンクを使って生成した、貴重な素材さ。人の未来のために消費される。そのための存在なんだよ、あの子たちは」
「そんな!」

 マリアは言い募ろうとしたが、ベルリオーズの赤く燃える左目にとらえられて、何も言えなくなる。

「さぁ、ARMIAアーミア……いや、今はと呼ぶべきか」

 ベルリオーズは冷たい声を発した。

「行くがいい。そして君は君の思うことをすがいい」
「私の、思うこと?」
「そう、君のだ。それがあの悪魔たちにどう作用するのか。僕の目的にどんな具合に関与してくるのか。僕はその点にとても関心を持っている」

 ベルリオーズは真の闇の空間を見回した。

「君は、僕とあの悪魔たちをあざむくために生まれたのさ。不確定事象の顕現けんげんとでも言おうか?」
「私が――」
「行くがいい。ツァラトゥストラの回帰の環を砕きに。世界を悪魔どもの頸木くびきから解き放ってみせておくれ。そのための舞台装置は、もう完成しているのだから」

 ベルリオーズの左目の赤い輝きが、闇を払っていく。

創造主デーミアールジュ、私は――」
「君には期待しているよ、マリア」

 世界はすっかり緋色に落ちていた。

「さぁ、歌姫たちセイレネス輪舞曲ロンドを、始めよう」

 ベルリオーズはおののくマリアを見据えながら、ゆっくりとそのように宣言した。

→NEXT

タイトルとURLをコピーしました