闇の中に佇むマリアは、深い溜息をついた。
マリアが纏う暗黒のエンパイアドレスは、周囲を包む闇にすっかりと溶け込んでいた。そのマリアを頂点とする一辺三メートル程度の正三角形を作るように、銀と金の揺らぎが存在していた。
マリアはその黒褐色の瞳で、その二つの揺らぎを順に睨んだ。
「姉様に余計なことを伝えさせたものね」
「余計なこと? そうかしら?」
金の揺らぎが反応した。
「真実の片鱗くらいは与えてあげないと、むしろアンフェアだと思うけれど?」
「アンフェア? いまさら何を言っているの」
マリアは侮蔑の意志を隠そうともせず、言い放つ。
「あなたたちが高位の存在であることは認めざるを得ない。けれど、だからといって見下され続けることについては容認できない」
「あらあら? なら、どうするつもり?」
銀の揺らぎが挑発する。マリアは小さく唇を噛んだ。銀が嗤う。
「あなたは誤解しているようね、マリア」
「誤解?」
「そう、誤解よ。あなたは私たちがこの事象群のすべてを仕組んでいるとでも思っている?」
「肯定よ、当然ながら」
「ふふふふ、過大評価、痛み入るわ。もっとも、少なくとも目に見えるところに関しては、その見解で正しいのかもしれないけれど」
銀は言う。
「観測されることなしには、事象は可能性の何か、に過ぎない。観測されることによって、その事象は存在を開始する。私たちはただ観測しているだけに過ぎない。可能性の種を振り蒔いて、力への意志たちがどんな選択をするかを観察し、観測しているだけなのよ」
「それを真と仮定するとして」
マリアはゆるやかに腕を組んだ。
「余計な可能性を蒔くのはやめてほしいわ」
その言葉に、銀と金は声を上げて哂った。
金の方が言う。
「この世界に在る以上、あたしたちの干渉から、そして観測から逃れる術はない。それはあのベルリオーズでさえもまた然り」
「私たちは本来、這い寄る混沌と呼ばれるべき存在なのよ。いつの間にか其処に居て、いつの間にか世を混沌で満たす――」
銀の言葉に、マリアは露骨に顔を顰める。
「御託はいいけれど。つまり、あの方は躙り寄ってきたあなたたちに気が付いた、いわば選ばれし人間だったというわけね?」
「そうね――」
銀の揺らぎが大きくなる。
「私たちにしてみれば、彼の存在は言ってしまえば予定外だった。でも、だからこそ、私は彼に関心を持った」
「ファウストを堕落させんとした悪魔のように?」
「そうね。そしてあなたたちは、私たちに触れる都度に、私たちに漸近する」
銀が闇を覆い尽くす。マリアは忌々しげに目を細め、それでも銀の揺らぎから目を逸らさない。
「漸近してどうなる? 神に至るとでも言うわけ?」
マリアの詰問に、二つの揺らぎはまた哂う。
「セイレネスは、プロトコルであると同時にゲートウェイ。ジークフリートの生み出す論理層と、物理層たる現実世界をつなぎ合わせるための媒体。そして、それ自体を実行するための機構でもあるのよ。いわば、論理の――神の世界の法則を、現実世界に実装するためのもの」
「意味がわからないわ」
マリアは苛々とした表情で腕を組み、指先で二の腕を叩いた。
そこではたとマリアは気が付く。
「まさか――!」
「うふふふ、そう、そのまさかよ」
銀は愉快そうに肯定する。マリアは半ば呆然としつつ、呟く。
「セイレネスの発動が、論理層を物理層に漸近させていくって……」
「ご明察」
今度は金が肯定した。銀一色の空間にあっても、金は厳然と存在していた。
マリアは無意識に唇を舐める。
「論理層の法則を物理層に拡張できるとするなら、理論的には物理層の全て、この宇宙全てをも支配することができる……とでも言うわけ?」
「俗物的な見地からは――」
銀が答える。
「そうと言っても良いでしょうね」
銀の輝きが一層に強くなり、マリアはいよいよ目を閉じる。脳を焼き尽くそうとするかのようなその輝きは、マリアにはまぶしすぎた。
「私は、あなたたちの目的に興味なんてない。でも――」
「姉様たちをこれ以上苦しめないで、とでも言う?」
銀の声が嘲弄する。金の気配がマリアの目の前まで漂ってくる。
「それは無理なのよ、マリア」
「……なぜ?」
「だってこの可能性事象の地平ではね、あなたの姉様方、あの子たちこそがレメゲトンなんだから」
「レメゲトン?」
「鍵よ。ソロモンの鍵」
金は思わせぶりにそう言った。
マリアは息を飲み、その金の気配を両手で払い除ける。
「私たちは神と戦っていたのね、最初から」
そう口にした瞬間、世界は再び闇に落ちた。マリアは恐る恐る目を開け、周囲に金も銀も見当たらないことに安堵する。
レメゲトンの第一巻「ゴエティア」には、七十二柱の悪魔を呼び出す術が記されている。
レメゲトンという表現が単なる比喩に過ぎないのだとしても、あの金と銀の悪魔の目的とはそうそう外れたものではないのだろうという予測は成り立つ。
セイレネスの門から、異界の混沌を呼び寄せる。可能性事象そのものを崩しさり、確定事象をも喪失させる。
それが這い寄る混沌たるあの金と銀の目論見なのだとしたら? あの二人が、「ジークフリート」と「セイレネス」をもたらした動機がそれなのだとしたら――。
「私には少しも面白くないわ……!」
奥歯を噛み締めながら、マリアは吐き捨てる。
「創造主。あなたはそれで、本当に良いのですか」
マリアは視線を感じて、尋ねる。
マリアの背後に、ジョルジュ・ベルリオーズの姿が現れる。微笑を浮かべる創造主に、マリアは向き直る。
「なにゆえ姉様がたに、かくも酷い仕打ちを?」
「酷い仕打ち、か」
ベルリオーズはマリアの左肩に手を置いた。マリアは全身を緊張させる。
「あの子たちは人の未来のために必要な道具なのさ。僕がジークフリートとバルムンクを使って生成した、貴重な素材さ。人の未来のために消費される。そのための存在なんだよ、あの子たちは」
「そんな!」
マリアは言い募ろうとしたが、ベルリオーズの赤く燃える左目に捉えられて、何も言えなくなる。
「さぁ、ARMIA……いや、今はマリアと呼ぶべきか」
ベルリオーズは冷たい声を発した。
「行くがいい。そして君は君の思うことを為すがいい」
「私の、思うこと?」
「そう、君のだ。それがあの悪魔たちにどう作用するのか。僕の目的にどんな具合に関与してくるのか。僕はその点にとても関心を持っている」
ベルリオーズは真の闇の空間を見回した。
「君は、僕とあの悪魔たちを欺くために生まれたのさ。不確定事象の顕現とでも言おうか?」
「私が――」
「行くがいい。ツァラトゥストラの回帰の環を砕きに。世界を悪魔どもの頸木から解き放ってみせておくれ。そのための舞台装置は、もう完成しているのだから」
ベルリオーズの左目の赤い輝きが、闇を払っていく。
「創造主、私は――」
「君には期待しているよ、マリア」
世界はすっかり緋色に落ちていた。
「さぁ、歌姫たちの輪舞曲を、始めよう」
ベルリオーズは慄くマリアを見据えながら、ゆっくりとそのように宣言した。