第七艦隊旗艦、航空母艦ヘスティアの提督席にて、クロフォードは小さく唸る。ヘスティアの展開する隠蔽システムの傘の下に入るため、艦隊はぎっしりとひしめきあっている。ヘスティアの隣には、青い最新鋭艦、制海掃討駆逐艦パトロクロスが佇んでいた。現在の最優先防衛目標である。
「さすがのあいつも、うちの伏魔殿を出し抜くことはできなかった、ということか」
俺も含めて、な。
クロフォードは虚空に息を吐く。
本件に関する政治的な工作は、もう一年以上も前から動き始めていたのだ。イザベラ本人が計画を軌道に乗せるよりもはるか以前からだ。もっとも、軍の中でそれについて知見のある人間は数少ない。そしてクロフォードはその一人だった。また、参謀部第三課統括アダムス大佐もまたそうだった。
全てを見通しているクロフォードにしてみれば、その全てが茶番劇だった。
イザベラ、いや、ヴェーラ・グリエールの一世一代の大パフォーマンスもまた、軍上層部や政治屋たちに利用されるだけの一イベントに過ぎなかった。
イザベラたちがその計画の全てをセイレネスの中で行っていれば、情報機関たちには或いは気付かれなかったのかもしれないが、クロフォードは結局それは無理だっただろうと考えている。
「嘘のつけないセイレネスの内側よりも、仮面を被ることのできる外側、か。イザベラは敢えてそれを選んだと」
しかし――。
なぜ、貴重なS級であるレネ・グリーグの喪失が情報部の計画に入っている?
二人のD級はともかく、なぜレネまでが死亡者リストに入っているのか。
先般加わったマリオン・シン・ブラック、および、アルマ・アントネスクのS級のニ名は、実はD級であるという情報もクロフォードは入手していた。だが、それを差し引いても、この計画は犠牲が大きすぎた。
これを実行に移したとして、いったい誰が一番得をするのか。
クロフォードの知る限り、この情報部が掴んだ情報を真っ先に利用しようとしたのはアダムス大佐だ。アダムスはなおもT計画に固執していて、今も新型テラブレイカーにセイレネスを搭載するべく開発を続けている。
そしてこれらが量産された暁には、海軍の巨大戦力である歌姫たちが邪魔になる。参謀部第三課がというより、アダムス大佐が覇権をとるためには、第六課子飼いの第一および第二艦隊は邪魔なのだ。
しかし、そうとも言い切れない。
マリオンとアルマが真にD級であるというのなら、なおだ。S級の件はともかく、今D級が共倒れになれば、新たなD級が台頭することになる。第六課にとって、より制御し易い新人に、だ。となると、一番得をするのはハーディ中佐だということになる。イリアス計画によって完成した制海掃討駆逐艦と、扱いやすい最強の戦力。T計画の予算を奪うくらいはできるようになるだろう。第三課による支配体制構築を頓挫させることもできるだろう。
「黒幕は、アダムスか、ハーディ。いや、それとも」
マリア・カワセ――。
クロフォードは息を飲む。
なぜ今の今まで、あの女の存在を忘れていたのか。クロフォードの情報収集能力を持ってしてもなにひとつめぼしい情報を見つけられない人物だ。それどころか実は存在していないと思わされるほどに、情報がない。この世界に生きている限りついて回るはずの情報が、何も見つからないのだ。あまりにも完全な情報管理で、それはそれ自体が怪しいのだが――クロフォードは思考を中断する。考えにノイズが乗ってしまったからだ。
カワセ大佐のことを考えようとすると、いつもこれだった。途端に集中力が切れてしまう。
しかし、カワセ大佐は、二人のD級を公私に渡ってサポートしているのは公然の事実であったし、参謀としても第六課と歌姫たちの橋渡し役としても申し分がない。
「気のせい、か?」
シロだと言い切れるものではない。だが、被疑者というには証拠がなさすぎた。
「或いは俺が黒幕かもしれんな」
クロフォードは心のなかで肩を竦める。もっとも、クロフォード本人は今回については全く何もしていない。ただ妥当と思われた方向に舵を切り続けてきていただけだ。
自ら悪役を買って出ようかと考えたこともあったが、それよりも先に伏魔殿の連中が勝手に物事を進めてくれていた。クロフォードとしてはそれらは全て計算の埒内であり、その結果は悉皆理想的だった。
長年の付き合いがあるヴェーラ、そしてレベッカに対して思い入れがないではなかったが、そんな個人の感傷などというものは、クロフォードの理想の前では実に些細な問題だった。
二人のD級、そしてS級。三隻の戦艦。時代の人身御供とするにはあまりにも惜しい。しかしマリオンとアルマという二人のS級――否、おそらくはD級が台頭するための犠牲だというのなら、それも妥当か。
クロフォードは眼下の青い制海掃討駆逐艦を一瞥する。
「アルマ・アントネスク、か」
そして、マリオン・シン・ブラック。
若すぎるとは思わない。ヴェーラたちも同じ頃には既に最前線にあったからだ。
そしてそれは軍としての健全化につながる。イザベラもレベッカも、軍の一部品としては発言力を持ちすぎたのだ。やりすぎたとも言える。
そしてこのイザベラの反乱により、歌姫たちは多くの手枷足枷をつけられることになるのだ。マリオンたちも多くの制約を受けることになるだろう――合法的に。
それはとりも直さず国家の現状維持のために必要だった。
軍上層部も政治屋も、誰一人としてこのアーシュオンとの戦争状態の解消、ひいては平和の実現など望んではいないのだ。戦争ごっこというショービジネスこそが、ヤーグベルテとアーシュオンの共通の利害なのだから。まして、国民もまた、断末魔の存在によってそれを望み始めている。歌姫たちを浪費していく文化を。
「救いようがないな、この世界は」
クロフォードは溜息を吐き、水平線の彼方にひっそりと消えていく戦艦ヒュペルノルの背中を見送った。
――これが最期の別れになるだろう。
クロフォードは小さく敬礼してから、提督席に背を預けて目を閉じた。