二〇八六年八月二十八日――暗黒空域、戦死。
このニュースは「八・二八の悲劇」として、瞬く間に世界中を駆け巡った。イスランシオに続いて、シベリウスを喪失したヤーグベルテの防衛力評価は急落し、また、四風飛行隊も急激に発言力を低下させてしまう。その結果、AX-799の量産化には至れていない空軍、セイレネス搭載戦艦が未だ建造初期フェイズにとどまっている海軍、そして四風飛行隊の三者の発言力が拮抗することになった。当事者たちをしても、「敵が誰だかわからない」と言っても良い状態である。
また、ヤーグベルテ内の世論も荒れに荒れた。イスランシオに続きシベリウスも寝返った、あるいは最初からスパイであったに違いないという論調を打ち上げるメディアが多数現れ、少なくない人々がそれに同調した。
「ナンセンスにも程がある」
リビングに入ってくるなり、エディットは呻く。ワイシャツの第二ボタンまでを外し、首元を楽にする。キッチンの方からなんとも言えない美味しそうな香りが漂ってきたのを検知し、エディットは少し口元を綻ばせた。だがすぐにまた厳しい表情に戻る。食欲よりも苛立ちのほうが強かったのだ。
「配信数稼ぎのための逆張り記事につられる連中の多さには、本当に辟易する」
心の声をきっちり口に出して、ソファに沈み込む。人々はそれらゴシップ記事や、自称識者によるSNS発信に同調する。自分は真実を知っているんだと言わんばかりに。陰謀論とやらが廃れない所以を、エディットは今まさに目撃している。
しかしその中にも刺さるフレーズは存在している。自称識者の一人が書きなぐった「カリスマの不在」という表現だ。
「属人化に甘んじてきた報い、かしらね」
まったく、自分は何をやっているんだ。政治か、軍事か。シベリウスが戦死してからのこの一ヶ月は、タスクのほとんどが他部署、あるいは政治家との駆け引きだった。シベリウスがいようがいなかろうが、四風飛行隊なしに国土防衛が成り立たないのは事実なのだが、政治家たちはなかなかそれを理解しようとしなかった。そもそも軍事の素人の寄せ集めに過ぎない政治家たちが、ましてそのバックグラウンドにあるイデオロギーの方向性はバラバラである彼らが、軍のエキスパートであるエディットの言葉にそう簡単に納得するはずもない。彼らは彼らの主張しかしないし、そのために都合の良い情報しか求めない。どころか、それを邪魔する情報は実力行使をもってしてでも握りつぶそうとするのだ。
しかしそれでも、エディットとハーディは政治工作のために東奔西走し続けている。
エディットはキッチンに人の気配を感じながら、ワイシャツの第三ボタンまで開ける。いつものスタイルだ。首から胸にかけても大きな火傷の後が残されていた。
「よっと。おかえり、姉さん」
「ただいま、カティ」
敢えてキッチンの方を見ずに、エディットは応じる。「カティが何を作っているのか香りだけで当ててみよう」ゲームをエディットの中で開催していたからだ。
「姉さん、今日のアタシの料理は何だと思う?」
「牡蠣のアヒージョ」
「うわ、当たり」
「やった」
キッチンから出てきたカティは、ヴェーラが使っているピンクのエプロンを着けていた。随所に控えめなフリルがついており、その胸元にはデフォルメされたウサギのキャラクターがプリントされている。手にした皿にはエディットが言った通り、牡蠣のアヒージョが盛り付けられていた。オリーブオイルの仄かな香りが、エディットのささくれだった心を優しく撫でていく。
「色々不満があるのはわかるけどさ。でもさ、姉さん」
「なぁに?」
エディットはカティの後ろ姿に声をかける。少しして、カティはワインとグラスを手にして戻ってくる。
「海軍の予算取りはうまくいったんだよね?」
「幾らかは、ってところね」
「でもよかったじゃない」
カティはグラスを並べ、ワインを注ぐ。そして「忘れてた」と言って、キッチンからバゲットの入った大きな皿を持ってくる。
「んー、美味しそう!」
エディットはワインを一口飲んでから、さっそくバゲットの上にアヒージョを乗せて口に運んだ。
「あなた、四風飛行隊で料理を学んでいるの?」
「まさか」
エディットの飛ばしたジョークに、ワイングラスを手にしたカティは笑う。それは他人の前ではほとんど見せることのない笑顔だった。
カティもエディットも多忙を極めていたし、カティはほとんどエウロスの基地に滞在している。こうしてエディット邸に帰ってこられるのは月に一度程度だったし、それも緊急出撃で潰れてしまったりもする。
だが、それでもヴェーラやレベッカよりもまだましと言えた。二人はほぼ休みなしでのセイレネスの調整作業を実施していた。今日も休日とスケジュールされていたにも関わらず、急遽呼び出されて作業にあたっている。そして午後七時半現在、まだ帰ってきていない。
「海軍の予算が増える。すなわちセイレネスの予算が増える。それはつまり、ヴェーラたちの負担が増えるということでもあるのよ」
「どうにかならないの? 細かい調整は他の誰かにもできるんじゃ?」
「それができるなら苦労しないわ」
エディットは肩を竦める。
「あの二人じゃないと、セイレネス・システムが起動すらしないのよ。プログラム自体はあの天才がいてくれるからいいものの、テストとなるとそうもいかないのよね」
「ブルクハルト教官か。たしかに彼ほど天才というのに相応しい人はいないね」
「一人に頼り過ぎもどうかと思うけど」
どうしようもないのよね――エディットは乾いた眼球でワインを見る。カティは苦笑する。
「属人傾向はウチだって変わらないよ。シベリウス大佐亡き後、じゃぁどうなるんだっていう。アタシたちだって右往左往しているくらいさ。そもそも四風飛行隊、どこの部隊も最盛期の半分しかいない。機体だって最新鋭機回してもらってるけど、生産能力も限界近いんでしょ?」
「工場がかなりやられてるからね。だから、ある意味では全く無傷と言えるのが――」
「セイレネス……ってわけか」
カティの表情が一瞬曇る。エディットはソファに身体を完全に預けて天井を見上げた。
「セイレネスはAX-799とのセット運用が望ましいっていう結論がね、さっき出たのよ。参謀本部本会議で」
なるほど――カティはアヒージョを咀嚼しながら頷く。エディットが浮かない顔をしている理由の主たるところはそれかと。エディットは首を振ってからまた次のバゲットに手を伸ばした。
「今日は食べるね。いつもはバゲットなんてほとんど食べないのに」
「今日は成長期なの」
「姉さんはちょっと太ってもいいかもね」
「酒太りはしてるわよ?」
「そこは威張るところじゃないよ、姉さん」
カティは言いながらワインを飲み干した。エディットはまた溜息を吐いた。カティは「あ、そうだ」とエディットを見る。
「あのなんだっけ、ロイガーの、えーと、ナイトなんとか?」
「ナイトゴーントね」
「そう、それ。ナイトゴーント。奴らの正体はつかめたの?」
「見当はついてる」
エディットとカティの視線が交錯する。
「見当?」
「いわゆるアーシュオンの超兵器たちは、基本的なシステムは一緒――セイレネスとね」
「セイレネス!? アーシュオンが?」
「そ。ヴェーラやレベッカには聞こえるそうなのよ、歌が」
「歌……」
カティは眉根を寄せてワイングラスを睨む。エディットは怪訝な表情を向ける。
「覚えでもあるの?」
「あるよ。歌というより、セイレネスに近い現象の発生なんだけど」
カティは鋭く肯定した。
「イスランシオ大佐が撃墜されたあの戦闘の時、アタシは間違いなく見た。奴らの戦闘機が薄緑色に光ったのをね。オーロラグリーン、あの士官学校襲撃事件のときに見たのと同じ色に見えた。だけど、シベリウス大佐でさえその光には気付けなかった」
「あなたしか見てない?」
「少なくともあの場にいて気付いたのは、アタシだけだったと思う」
カティの答えに、エディットは視線を鋭くする。機械の眼球がギラリと光る。カティはそれに気付いたが、気圧されることはない。
「でも姉さん。もしそれが本当なら。セイレネスの技術をアーシュオンがすでに実用化しているんだとしたら……!」
「そ。だから何を犠牲にしても、セイレネスへの予算だけは倍々ゲームのように増えてる。海軍の予算積み増し以上に、セイレネスへの予算積み上げを要求され……割を食うのは艦隊ってわけ。突き上げも激しいわ。でも」
「セイレネスに賭けるしかないっていう状況ってわけ?」
「遺憾ながら、ね」
国土防衛のその最重要任務にヴェーラとレベッカを充てる。国家危急存亡の危機にあって、その要たる役割に対して、組織やシステムではなく個人をアサインせざるを得ないこの状況は、もはや末期だ。現実に本土空襲、領土侵犯を許しているヤーグベルテは、もう限界まで追い詰められているのだ。未だ国民の大半にとって、それは他人事としてしか認知されていないのだが。
これらの戦争状態だってそもそも存在していなくて、政府がでっち上げたものにすぎないということを発言している勢力が一定の支持を得ていたり、アーシュオンとの戦争状態もシナリオに沿って行われているものに過ぎないという類の陰謀論もまた人気がある。彼らにとって現実に発生している数百万からの犠牲者・被害者たちなどそもそも存在していないのだ。そしてそれゆえに、彼らは永久に安全だと信じている。
エディットはいつの間にか空になっていたワインボトルを眺めてから、エプロン姿のカティを見た。
「そのエプロン、似合うわね」
「えっ、ちょ、それはない」
カティは慌ててピンクのエプロンを外して几帳面に畳んだ。
「かわいかったのにー」
「ガラじゃないよ、こんなデカ女がさ」
「かわいいわよ。あなたはいつでも、いつまでもきっとかわいいわ」
「子どもじゃないんだから」
カティは残ったアヒージョを小皿に移して、元の皿をとりあえずシンクに移動させた。
「カティ、あなた、本当に強くなったと思う」
「強く? そうかな」
「嬉しいの。最初、あなた一人でどうやってこの先を生きていくのかって本気で心配してた。士官学校襲撃事件の後もよ? だけど今のあなたなら十分以上に一人で生きていけるね」
「なんだよ、お別れみたいなこと言わないでよ。アタシはこれからも姉さんには支えてもらうつもりだし?」
「逆でしょ」
「持ちつ持たれつでどう、姉さん」
「手を打つ」
エディットはぽんと手を合わせてカティを拝むような仕草をしてみせた。カティはまたソファに戻ってきて、軽く足を組む。
「ヴェーラやレベッカが国を守るっていうなら、アタシは二人を支えて守る。何を犠牲にしてもね」
「ありがと、二人も喜ぶわ」
エディットはそう言うと、携帯端末を取り出してカティに見せた。
「ほい、これ」
「え、見ていいの?」
「あなたに関すること。どうせ明日には発表されるわ」
そこに映っているのは人事情報だ。カルロス・パウエルがエウロス飛行隊に正式配備されることがまず書かれていた。カルロスというのは、ユーメラの士官学校でF102を飛ばし、アーシュオンの攻撃機を迎撃してみせた天才飛行士だ。士官学校教官、エリソン・パウエル少佐の弟である。
「彼が人材不足のウチに来るのは嬉しいんだけど」
「あなたの二番機をやってもらうことになると思うわ」
「二番機? アタシ、隊を持ってないけど」
「軍隊ってね、ちゃんと広報にも力を注がなきゃならないのよ。外向けの宣伝って大事」
「へ?」
「あなたは漁村襲撃事件と士官学校襲撃事件で生き残り、あまつさえ戦闘機で襲撃者を撃破している。そしてエウロス飛行隊に入り、あの暗黒空域が後継者と定めたと噂されていた」
エディットは携帯端末の画面をスライドさせる。カティは目を丸くする。
「あ、あた、アタシが? え、アタシなんて」
「おめでとう、カティ。エウロス飛行隊隊長殿」
エディットは目を細める。カティは未だ動転していた。
「ちょ、ちょっと待って。アタシなんかよりエリオット中佐やマクラレン中佐が」
「そもそもが二人の推挙よ。エリオット中佐の弁を借りれば、『老い先短いおっさんが次期隊長なんてやったら下が腐る』ということ。だいじょうぶ、あなたは独りじゃない」
「でも、アタシにあんな部隊を」
「あなたじゃなきゃダメだって。エウロスの主要メンバーにも調査した結果よ。シベリウス大佐があなたに期待していたのは皆知っているし。隊員によっては『若くて美人な指揮官なら士気も上がる』ともね」
「しょーもな……」
カティは赤毛を掻き毟る。
「この人事は撤回不可能よ。拒否権もないわ。だからこの地位を最大限生かして。発言力を高めれば、本当に直接的にヴェーラたちを助けられるようにもなる。いいわね?」
「……そ、そうだね。わかった」
カティはどんよりとした表情を見せながら、頷いた。