セイレネスによる――つまり、ヴェーラとレベッカによる――アーシュオン本土攻撃から、二週間が過ぎた。
心にあまりにも深い傷を負ってしまったヴェーラとレベッカは自室に引きこもってしまった。エディットの要請で派遣されたカウンセラーも門前払いを食らってしまった。ふたりとも食事すらまともに摂ることもできず、見る間にやつれてしまっていた。
「大丈夫、じゃないわよね」
軍務という名の作戦の後始末。その合間に、エディットはどこか上の空で呟いた。アダムス率いる第三課は次なる作戦の立案に忙しいというただそれだけの理由で、参謀本部より先の作戦のレポートの取りまとめを命じられていた。その量は殺人的に膨大で、第六課の総力を結集しても簡単に終われるものではなかった。
だが、それは今のエディットにはむしろ救いだった。仕事に追い立てられているうちは、悲しみも怒りも抑え込めるからだ。しかしそれでもなお、ヴェーラたちへの罪悪感のようなものは到底拭い去れるものではなかった。無力な自分に対して、絶望と憤怒が綯い交ぜになって殴りかかってくる。今すぐにでも頭を抱えて逃げ出して、睡眠薬をたっぷり飲んでから、ベッドに横になりたい気分だった。
時計を見ると、もう深夜一時を回っていた。すでに第六課のメンバーは夜間勤務組に完全に入れ替わっている。ハーディも三時間前には帰した。
「うん?」
携帯端末に着信があった。発信主はカティだ。エディットは執務室の方に移動しながら、通話を開始する。
「こんな時間にどうしたの?」
『姉さんがまだ働いてるって。さっきまでアタシも参謀本部にしょうもない用事で呼ばれてて。もしまだいるなら、今そっち行って良い?』
「え、ええ。大丈夫。そろそろ帰ろうと思ってたところだけど」
『ちょうどいいや。車で来てるから一緒に帰ろう』
程なくしてカティは第六課のオペレーションルームに姿を見せた。
「いらっしゃい」
エディットは周りに誰もいないのをいいことに、自宅用の口調で呼びかける。
「深夜の参謀部ってのもなかなか不思議な感じだね」
カティは第二層にいる夜間責任者、レーマン大尉に軽く敬礼してみせながら言った。
「カティはどうなの。エウロスの隊長って立場には慣れた?」
「ああ、うん。みんなが盛り立ててくれてるって感じ」
「そう。さすがカティね」
「どっちかというとエリオット中佐の力が大きいかな」
カティは頬のあたりを軽くひっかきながら言う。
「で、さ。姉さん」
「うん」
「あのアーシュオン本土空爆。あれ、やったのは本当に歌姫……ヴェーラとベッキーなの?」
「……ええ。やっぱり気になるわよね」
「あたりまえだよ」
カティの表情が鋭い。エディットはほんの一瞬だけだが、確かに圧倒された。
「確かに直接はヴェーラとレベッカがやった。でも、命じたのはアダムスの野郎。そしてそれを追認したのは――」
「わかってるよ、姉さん。自分を責めないで」
カティはハーディが使っている椅子を、エディットのデスクのそばまで引っ張ってきて腰を下ろした。エディットは座面を少し動かしてカティに身体を向けて足を組んだ。
「自分を責めないで、か。初めて言われたわ」
「立場が勝手に姉さんを責め立てる。だから自分で自分を痛めつけるのは良くない。誰も得しない、よね?」
「やっぱり優しいね、カティは」
「甘いって、マクラレン中佐あたりからは言われるよ」
「そう言ってくれる人は貴重ね」
「うん。だけどアタシは甘くてもいいと思ってる。戦闘中はイヤでも甘くはなれないんだから」
カティが大真面目に言うと、エディットは少しだけ表情を緩める。
「あなた、大人になったわよね」
「そりゃあ、ねぇ? 二十歳も過ぎてるわけだし」
「そうじゃないわ。心の話」
エディットは頷きながら言う。
「私の癒やしよ、あなたは」
「変な表現。でも、姉さんに頼られるのは悪い気はしないね」
「でしょ?」
エディットは疲れた表情で小さく溜息を吐く。
「カティ、あのね」
「うん?」
「これは極秘。だけどあなたには伝えるわ」
「……今アタシが持っている以上に悪い情報?」
「間違いなく」
「聞くよ」
カティの即答を受けて、エディットはカティに顔を近づけた。
「ヴェーラたちは見たのよ」
「見た?」
「セイレネスを使うと、相手の顔まで見えるらしいの。だから、核弾頭を落とした街の様子を、まるで現地にいるかのように鮮明に見てしまった」
「そんなことがある? セイレネスの力ってそんなの?」
驚くカティに、エディットは大真面目に頷いた。カティはその見事な赤毛をぐしゃぐしゃと掻き回し、腕を組み、唸った。
「何百万人の惨状を見た、って?」
「そういうこと。この二週間、ヴェーラもベッキーもろくに寝てない、食べてない。どっちもできないでいるの。医者やカウンセラーには診せたけど、即効性のある対処は難しいって」
「……そりゃそうもなるよ」
カティは「よし、帰ろう」と手を打って立ち上がる。エディットもすぐに荷物をまとめた。
「そもそも」
駐車場に向けて歩きながら、カティは唸る。
「クラゲをアッサリ撃沈するほどの大戦果を挙げたのに、アダムス中佐はなんで本土空爆なんて」
「政治の世界でうまくやったのよ、アダムスの野郎は」
「アタシにはわからない世界だけど、クッソ面白くないね」
「でしょ、クソッタレな話よ」
「でもさ、姉さんはすごいよ」
二人はそんな会話をしながらカティの車に乗り込んだ。以前の大衆車とは違い、軍で支給される防弾仕様の車だ。カティほどの重要人物ともなれば常に暗殺の危険がつきまとうからだ。
「私の何がすごいの?」
助手席で揺られながら、エディットは尋ねる。
「アタシたちがそんな伏魔殿と関わらないでいられるのは、姉さんがその役目をしてくれてるからでしょ。政治の話なんて、アタシには無理だ」
「……アダムスに敗北したけど」
「大統領が署名した命令書に歯向かえる軍人なんていないし、さ。ある意味ちゃんと文民統制が機能してるって言える。確かに今回、ヴェーラたちに辛い思いをさせる結果になったのは事実だろうさ。だけど、二人だってエディットの気持ちはわかってるんだよ。絶対にわかってる」
カティは力を込めて言った。エディットは「だといいなあ」と声に出す。
「私、どうしたら良いんだろう。ねぇ、カティ」
「ビール飲んで寝る」
「真面目に答えて」
「真面目だよ」
カティは前を見たまま言った。
「姉さんまで葬式モードになってたら、よくなるものもよくならない。もちろん、いつも通りが難しいのはわかるよ? だけど、姉さんはそうしなきゃならない」
「でも……」
「姉さんはこうやって、十分に心を痛めてるじゃない?」
カティの声音は優しかった。エディットは胸に手を当てて大きく息を吐く。カティはその様子を横目で見ると、言葉を補った。
「姉さんはやることやった。そしてやることやってる。あれからずっとあいつら仕事してないんでしょ」
「できる状況じゃないもの」
「でも、姉さんのところには軍の上層部から鬼の催促」
「……よくわかるわね」
「そりゃ。一応これでも、エウロスのトップだからさ」
「さすがねぇ」
「姉さんはそんな無遠慮な催促にもちゃんと対応してるでしょ。ヴェーラたちを追い込まないようにって」
「うん」
エディットは目を閉じる。
「私、怖いのかもしれない」
「うん?」
「私には、ヴェーラたちの心の傷が想像もできない。筆舌に尽くし難いほどのもの……ってことは理解できてる。でもそれが具体的にどうなのかはわからない。だから、怖いのよ。あの子たちに中途半端に寄り添ってしまうかもしれないって」
「あー」
カティは思案顔になる。
「下手に寄り添うのは悪手だね。わかるわよ、なんて言ったら、ヴェーラは完全に貝になっちゃうよ」
「どうしたら、いいんだろ」
「はいはい、一人で悩まない」
カティはそう言って、エディット邸の車庫に、慣れた手付きで車を入れる。エディットは自分では運転しないので、車庫は常に空なのだ。
「二人、まだ起きてるよね。二時になるけど」
「起きてると思う。むしろ寝ていたら良いんだけど」
「オーケー」
カティはエディットと腕を組んだ。
「え?」
「人肌は良いもんでしょ」
驚くエディットにそう告げて、カティは小さく笑う。エディットも「ドキッとしたじゃない」と満更でもない風に応えた。
「さて、二人に会ってきますかね」
「お願い」
「ほんと、手のかかる妹たちだよ」
カティはリビングに入るなり上着を脱ぎソファにかけた。エディットは疲れた表情でリビングの真中に立ち尽くしている。
「姉さん、寝てていいよ。というか、寝てなよ」
「お酒飲んでから考える……」
「それでもいいよ」
カティはエディットを強く抱きしめてから、リビングを出ていこうとする。
「すごく泣きたくなった、今。私、泣けないんだけど」
「姉さんが泣いてるのは伝わってきてる。涙の有無なんてどうってことない」
カティはそう言うと、右手を振りつつリビングから姿を消した。
「……あなた、本当にいい大人になったよね」
エディットは閉じたドアに向かって、ぽつりと呟いた。