始まったね――。
闇の中で、青年は静かに呟いた。青年の左目は赤く輝き、その瞳を通じてその海域で起きているすべての事象を認識していた。
「悪い人ね、本当に」
青年の背後に、銀の女性が現れる。銀髪の美女ではあったが、それ以上の認識はなんぴとにもできない。青年は目を細め、右手で前髪を払い除ける。
銀は嘲弄するように言った。
「誰もがあなたに使われているけど、誰もがそれに気付けない」
「そういうことなら、それこそが彼ら自身の意志なのさ」
「そうとも言えるかしら?」
女は目を細め、青年の隣に並ぶ。二人は足元で繰り広げられているナイアーラトテップによる一方的な殺戮を、まるで退屈しのぎのように眺めていた。
「それはそうと、ツァトゥグァはいったい何をしているんだろうね?」
「そうね」
女は肩を竦める。
「また今回も、この歴史でも、彼は絶対者を気取りたいのでしょうよ」
絶対者――女はそこに侮蔑の念を目一杯に込めていた。青年は口角を上げ、言う。
「誰もが彼に使われているけど、誰もそれに気が付くことはない」
「そう。そういうことならば」
女は含み笑いをしつつ、青年を鋭く見る。
「彼の意志はどこにもない、ということになるかしら?」
「そうとも、言えるね」
自分の立場をも同時に揶揄され、青年は苦笑を見せた。
「それにしてもさ、面白くないかい?」
「何が、かしら?」
「セイレネス同士の大きな衝突は、多くの人を覚醒させるだろう。しかしそれは僕たちだけの知識だったはずなんだ。だけどどういうわけか、そのことにあのクロフォードという男は気が付いたみたいなんだ」
青年は薄緑色に輝き始めた海域を眺めながら、肩を竦めてみせた。女は腰に手を当てて「ふっ」と笑う。
「あの男はツァトゥグァが囁いた相手ですもの。入れ知恵のひとつやふたつ、あったとしても不自然なことではないわ」
「ふむ、それもそうか」
青年は顎に手をやって、小さく頷いた。
「僕にとっての不確定事象というものは、君たちという異形の存在のみなんだよね。でも、それゆえにペンデュラムは揺れる。君たちがそういう存在であるからこそ、揺らぎは止まらない。僕にとっての事象はいつまでも確定しないんだ」
「あなたはそれを愉しんでいると?」
「君は? どうなんだい?」
問いに問いで返され、女は幾分不愉快な表情を見せる。
「歪められた事象は、私は好みません」
「それがたとえ正しいものだったとしても?」
「その正しさの定義は揺らぎに満ちていますが、そもそも私にとって楽しくないものは、総じて正しいものなんかじゃないわ」
「さすがだね、アトラク=ナクア。冥界奈落の女郎蜘蛛――君らしい名前だよ、実に」
眼下では三隻のナイアーラトテップが集結しつつあった。それぞれに、リゲイア、パルテノペ、レウコテアという名前を与えられている素質者たちである。三人の娘たちは、ヤーグベルテ第七艦隊の艦艇を次々と屠っていく。
だが、この無敵に見える三隻のナイアーラトテップでも、戦艦には勝てない。ヴェーラとレベッカに勝つことはかなわない。歌姫としての力も、艦艇の兵器としての能力も、アーシュオンのほうが二段も三段も劣っているからだ。青年――ジョルジュ・ベルリオーズが供出した技術のレベルには、意図的な差異があった。
セイレネス同士を衝突させることで、響応統合構造体が大量に発生する可能性があることについては、ベルリオーズをしても未だに確証はなかった。だが、その前兆現象とも言えるものは、今までの衝突の結果として少数が確認されていた。いわば次世代の歌姫たちの発生である。
「レメゲトン現象に、セラフの卵――あなたのセンス? 大層なネーミングね?」
「いいセンスだろう?」
ベルリオーズは動き出した戦艦たちを確認しながら、微笑を見せる。アトラク=ナクアは銀髪を後ろに払う。
「ツァトゥグァのおかげで、ますます世界は面白くなるだろう」
「あのクロフォードという男は、レメゲトン現象の励起を加速させるつもりよ。いいの?」
「そんなことは予測の範囲内さ」
ベルリオーズは軽い口調でそう返す。
「まだしばらくの間は、僕はここで宙乗りの神を気取ることにするさ」
「ならば私も同席させていただくわ。あなたという事象は、それはそれで面白いもの。ティルヴィングを与えた甲斐もあるというものよ」
アトラク=ナクアのその冷たい口調を受けて、ベルリオーズは左の目を細めた。赤く燃えるその瞳が、アトラク=ナクアを焼き尽くそうとするかのように強く輝く。
「好きにすると良いよ、アトラク=ナクア」
ベルリオーズはそう言って、また眼下を冷然と睥睨した。