二〇九一年一月――ナイアーラトテップ殲滅作戦から、一ヶ月が過ぎた頃。冬の寒さも極まってきている時節。
エディットはヴェーラとレベッカを伴って、公私に渡ってしばしば利用している高級レストランにて食事をしていた。三人とも軍務からの直行だったので、軍服姿である。
「ここに初めて連れてきたのはいつだったかな」
テーブルフラワーを眺めながら、エディットは呟いた。レベッカが宙を見ながら、「確か、七年前の四月?」と応じる。
「そうね、そのくらいになるわね」
エディットはワインに口をつけ、ゆっくりと息を吐いた。その機械の目が、青白い顔をしたヴェーラを捉える。ヴェーラは薬の副作用のせいで、食事がほとんど喉を通らないようだった。さっきから水ばかりを飲んでいる。
「あれから七年も、経つのね」
「なんかさ、エディットらしくないよ? どうしたの?」
ヴェーラはグラスを右手で弄びつつ、ぼんやりとした口調で尋ねた。エディットはまた溜息をつく。一度、二度と何かを言いかけては、宙を見たり、指先を見たりと、忙しく視線を動かしていた。
「あ、あのね」
ようやく意を決して発言しようとしたその矢先、ちょうどデザートが運ばれてきてしまう。ホールスタッフが歩き去っていくのを何となしに見送ってから、またヴェーラとレベッカを見る。
「あなたたちもすっかり大人になったわね」
「そりゃぁ、もうとっくに成人済みだし?」
白桃のシャーベットが添えられたガトーショコラをつつきながら、ヴェーラは少し疲れたような口調で応じる。エディットは「そうよね」と苦笑する。その笑みにヴェーラは少し眉根を寄せた。エディットはテーブルの上で手を組み合わせる。
「実はね、私」
エディットはことさらにゆっくりと息を吐いた。
「軍を辞めることにしたの」
「へっ? え? ええっ!?」
ヴェーラとレベッカの声が重なった。レベッカは眼鏡のレンズ越しにエディットの顔を凝視し、ヴェーラは思わず腰を浮かせた。
「エディットがいないと困るよ、わたしたち!」
ヴェーラが詰め寄る。レベッカも頷いている。ヴェーラは「そ、そうだ」と人指し指を立てる。
「研究は? 実験はどうするの? 作戦指揮もあるでしょ、それから、ええと、ええと……」
「あなたたちが心配することじゃないわよ」
エディットは平静な表情を作りながら、シャーベットを口に運ぶ。
「それにね、作戦指揮についてはもうハーディの方が巧者よ。私は名前を貸しているだけみたいなところがあるわ、実際のところはね。研究や実験については、ごめんね、としか言えないかなぁ」
「それ、命令でしょ、辞めるの」
ヴェーラが鋭く切り込んだ。エディットは「やれやれ」と豪奢な金髪に手をやりつつ首を振った。
「嘘ついても無駄よね。そう、うん、白状すると、命令。参謀本部長直々のね。セイレネスの運用責任者の解任手続自体は、もうほとんど終わってるのよ」
「なんですか、それ!」
レベッカが、らしからぬ声を出した。
「そんなやり方嫌いです、私。騙し討ちじゃないですか、そんなの」
「だよね」
相槌を打ったヴェーラは苛立ちを隠さない。腕を組み、指先で二の腕に爪を立てている。
「わたしたちの実験にだって影響が出るよ、絶対」
「わかってる」
エディットは深刻な表情で頷いた。痛いほど理解しているつもりだった。セイレネスはデリケートで、ちょっとした心理的要因で簡単に不安定になってしまうのだ。エディットはそうと知っていたから、もちろんその人事には抗議した。だが、梨の礫だった。ブルクハルトによる意見書すら一顧だにされなかったところを見ると、これは参謀本部長よりも更に上のレベルでの規定事項だったと推測できた。つまり、どうにもならない既定事項だったということだ。
「でもね、ヴェーラ、ベッキー。私は軍を辞めるだけよ。貯金も山ほどあるし、悠々自適の退職金生活を楽しむことにするわよ」
「わたしたちも出ていかなきゃ?」
「そ、そうね」
エディットは濃い赤色のワインを一気にあおった。
「でも、遊びに来てよ。暇してるから、きっと」
「もちろんだよ」
そう応じたヴェーラは、しかし、俯いたままだった。レベッカは憤然とした表情でガトーショコラを胃の中に収め、フォークを握り締めたまま黙り込んだ。エディットはそんな二人を見て、少し慌てたように付け加えた。
「ま、まぁ、ほら、別に今生の別れになるわけでもないし、ね? もう軍には関われないけれど、あなたたちに会うことができないとか、そんな法はないわよ」
「こんなことなら」
ヴェーラは潤んだ空色の瞳でエディットを見る。
「もっとエディットに甘えておけばよかったよ」
「喧嘩もたくさんしたけど、頼ってくれてたのはわかってる。嬉しかった」
「お母さんと思ったことはないけど、お姉ちゃんくらいには思ってた」
「ヴェーラ……」
エディットは目を伏せる。
「最後の最後で頼りなくなってごめん。あなたの薬だって」
「それはエディットのせいじゃないよ」
ヴェーラは首を振る。
「これはなるべくしてこうなっただけ。エディットやベッキーがいなかったら、この何百倍も酷いことになってた。だいじょうぶだよ、わたしちゃんと理解ってるから」
「でも」
「真実は単純で、問題は簡単だ。わたし、エディットのことが大好き。だから喧嘩もできたんだよ。それでいいじゃない」
ヴェーラは精一杯の笑顔を見せる。寂寥と不安の入り混じった笑顔ではあったが、エディットはそれを記憶に焼き付けた。
エディットは微笑を見せながら立ち上がり、言った。
「さ。帰りは星でもみるとしますか」
「星、ですか?」
レベッカが窓の方に視線を送る。
「今日は雪だから見えないと思います」
「そっか、そういえば来るときも降ってたわね」
エディットは心底残念そうな表情を見せてから、先頭に立ってレストランから出た。十数段の階段の先に、タガートの運転する軍の車両が待ち構えていた。助手席にはジョンソンもいる。
階段を降り始めたその瞬間、エディットが転倒した。すぐ後ろにつけていたヴェーラとレベッカには何が起きたのか理解できなかった。助手席からジョンソンが飛び出してきて、素早くエディットに駆け寄る。遅れてきたタガートが素早くヴェーラとレベッカを車の影に誘導する。
通りを歩いていた何人かが事態に気が付いて悲鳴を上げた。携帯端末のカメラを向けている者たちも無数にいた。
「通信規制、救急隊の要請を急げ」
エディットをヴェーラたちのそばに移動させたジョンソンがタガートに指示を出し、タガートは素早く周囲一帯の通信を規制する信号を軍司令部に送信した。これで一般回線からリアルタイムにネット中継されることを防ぐことができる。
「スナイパー……か」
血を吐きながらエディットがつぶやく。胸を撃ち抜かれていた。ジョンソンによる応急処置もほとんど効果が上がらなかった。
「エディット! エディットはどうしちゃったの!?」
ヴェーラが叫んでいる。レベッカはそんなヴェーラを後ろから抱きしめる。しかしそのレベッカも、今目の前で大量の血を流しているエディットの身に何が起きたのか理解できていなかった。
「エディット!」
「頭を下げて。危険です」
ジョンソンは止血帯を押し当てながら静かに言った。とめどなくあふれる血液が、新雪を赤く染めて溶かしていく。
「ヴェーラ、いる?」
エディットは渾身の力を込めて右手を上げる。ヴェーラは危険も顧みずにその手を握る。レベッカもそこに自分の手を重ねた。
「ごめんね、私……」
「喋ったらだめだよ、エディット。ジョンソンさんが治療してくれてるから」
ヴェーラはその手を握り締めたが、エディットの指は動かなかった。ヴェーラの手に、エディットの手の重さが伝わってくる。その手からどんどん体温が失われていく。
「ジョンソンさん、治療を! 急いで!」
ヴェーラの悲鳴に、ジョンソンは首を振った。致命傷であることは明らかだった。むしろ、即死ではなかったことに驚きすら覚えるほどのダメージだった。
救急車の音が聞こえるが、それは絶望的に遠かった。
「辞めるだけじゃ、だめだった、かぁ」
エディットは痛みを感じていなかった。ただ、動けない。ただ、寒い。世界が眩しかった。意識が空に溶けていくように、だんだんとまとまりがつかなくなってきていた。
「ごめんね、ヴェーラ、ベッキー……」
「だ、だいじょうぶだよ、エディット。いいんだよ、心配ないよ。心配ないから! 謝らないで……」
「まだまだ、遊びに来たら、だめだ、から、ね……」
エディットはそう言って、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「エディット! エディットぉぉぉぉぉっ!」
ヴェーラはその身体に縋って絶叫した。レベッカはその後ろで、歯を食いしばって声を殺して、泣いた。
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