四月にはなったけど、桜はまだ咲く気配もない。私の施設があったところでは、とっくに散ってしまっている頃合いだというのに。ヤーグベルテの国土はなるほど広大だなと思わされる。そして今、正午をまわった頃。イザベラ・ネーミア提督による処女戦が始まろうとしている。
「第一、第二連合艦隊、か」
私はアルマを見る。今日はレオンは風邪で寝込んでいるとのことだ。あとで様子を見に行かなくちゃと思いつつ、今はこの戦闘を見るのが最優先だ。私たちは第一、第二艦隊の全ての戦闘を把握しておくことが義務付けられている。まして、今日は新生第一艦隊による大規模迎撃作戦だ。言われなくても私たちは配信に齧りついていただろう。私たちの携帯端末はそれぞれ別のニュースサイトの情報を映している。部屋備え付けのモニターは軍のチャネル――士官学校関連施設でしか観られない――の情報を映している。
ニュースサイトの方は仰々しいテロップとナレーションをつけて、視聴者を煽っている。一方、軍のチャネルは何の説明もなしに第一艦隊旗艦、セイレーンEM-AZ搭載のカメラの情報を映している。戦闘状況によってカメラは各艦のものに切り替わっていくはずだ。
「始まる」
アルマが短く息を吐いた。私は逆に息を吸う。
『全艦、セイレネス発動!』
イザベラの荘厳な声が響き渡った。現地時間十七時。黄昏を背負った第一、第二艦隊が遥か彼方――水平線にすっかり隠れるほど遠く――にいるアーシュオンの艦隊に向けて進路を固定して輪形陣を取る。各艦の装甲が展開し、緑色の輝きが放出され始める。
セイレネスより生み出された歌が粒子となって、黄金色の海面をオーロラグリーンに染め上げていく。
『エディタ、トリーネ、クララ、テレサ! ナイアーラトテップM型を掃滅せよ!』
『イエス・マム』
四人がそれぞれ応える。そこに遠隔で支援を行っているレニーが通信を入れる。
『レネより、ネーミア提督。M型確認、数は十五』
「十五!」
私は思わず声を出す。それは過去最大の戦力だ。
『識別子確認した、レニー。引き続き索敵を頼む』
『アイ・マム』
状況が動いているようには見えなかったが、戦闘のシーケンスは着々と進んでいた。
『ネーミア提督、戦力が足りません。第二艦隊のC級動員を――』
『エディタ、あの子たちはレベッカの指揮下にある』
ぴしゃりと言い切るイザベラに被せるように、レベッカが言う。
『アーメリングより第一艦隊へ。第二艦隊からのこれ以上の増援は許可しません。ネーミア提督、よろしいですね』
『イエス。第二艦隊は手順に従い、対空警戒を』
『アーメリング、了解。第二艦隊、全艦、バトコンレベル最大で固定。AA戦闘シーケンス展開。ナイトゴーントに警戒せよ』
まるで脚本でもあるんじゃないかという具合に、スラスラと進んでいく戦闘の序曲。歌姫以外の安全圏にいる人々は、もう陶酔状態にあるに違いない。オルペウスと呼ばれる特殊な空間認識フィルタを通さない限り、誰もがこの歌の影響を免れ得ない。
私はこめかみのあたりにチリっとした違和感を覚えた。アルマも同じだったようで、「なんだ?」と呟いた。その時、画面の中からレニーの緊迫した声が響いた。
『ネーミア提督! 海中を秒速一千メートルで接近する物体あり!』
『一千メートル!? 亜音速魚雷ではないのか!』
イザベラを始め、いろんな人物の声が重なる。レニーがひときわ大きな声を発する。
『亜音速魚雷の可能性は、否定――サイズは重巡洋艦相当、巨大すぎます。目標、なおも加速中! 情報を走査中。アーシュオン論理ネットワークへの侵入の許可を、提督!』
『却下。間に合わない。トリーネ、全速退避!』
それが向かっている先は、最先鋒を務めているトリーネの重巡洋艦レグルスだ。
『退避、間に合いません!』
トリーネの悲鳴が聞こえる。四天王中実力ナンバー2の彼女をしても、何の手立ても持ち得ないそれは――。
私とアルマは顔を見合わせる。アルマの顔が青白い。きっと私もそうだ。私は苦労して声を出す。
「インスマウスだ……!」
かつて私たちの故郷を襲ったインスマウスは、巨大な飛行物体だった。一方で、今回のは潜水艦。しかし、この音には聞き覚えがあった。というより、忘れられない音だった。
鳥肌が立つ。汗ばむ。喉が渇く。まばたきができない。
『レネより全艦! 音を確認! こいつっ! 超兵器!』
『ネーミア提督、トリーネを!』
エディタの叫びが虚しく響く。ナイアーラトテップM型を撃滅するために最先鋒に配置されていたトリーネには、イザベラの力は届かない。いや、届いたとしても、あれがあのインスマウスと同じ破壊力を持っているとしたら――たとえヴェーラであったとしても守れないだろう。
「嘘だろ……」
アルマの声はカサカサだ。
ニュースサイトのキャスターたちも何が起きたのかわからずに右往左往している。軍のカメラは無情にもトリーネの艦からの映像を映している。海面を叩き割りながら突き進んでくるその何か。到達まで十秒もない……!
『みんなっ、ごめん!』
トリーネの悲痛な叫びが響く。わん、と、空間が振動したのが映像を通して伝わってくる。オーロラグリーンの粒子が槍となって、その海中物体を撃つ。一度、二度、三度――矢継ぎ早に突き刺さった光の槍は、しかし、なんの効果も上げられなかった。
『うわああああああああああああああっ!』
トリーネの絶叫と共に、画面が白転する。
映像発信元が切り替わる。トリーネの艦に最も近い位置にいた重巡洋艦――エディタの艦・アルデバランのカメラからのものだった。
トリーネとその護衛艦がいた辺りの海域が、巨大な渦を巻いている。エディタの重巡アルデバランですら、その渦に飲まれそうになるほどの荒れきった海面だった。
『トリーネ! 応答しろ、トリーネ!』
あのエディタが取り乱している。私もアルマも過呼吸状態で、何も言えない。あんなものが敵? 私たちはあんなものと戦うの? それで頭がいっぱいだ。
『エディタ、落ち着きなさい』
レベッカの声だった。
『重巡レグルスおよび駆逐艦三、小型雷撃艦二、消滅。現実よ、落ち着いて。……受け止めなさい』
『しかしっ……!』
『ネーミアより、第一艦隊全艦。戦闘はまだ終わってはいない。クラゲのみならず、敵三個艦隊の殲滅を果たせ』
レベッカもそうだが、イザベラもまた冷血だった。その声が、その言葉が、ゾッとするほど、恐ろしい。
『エディタ、呆けている場合ではない。V級のこれ以上の損耗をわたしは認めない。いいな、V級の生存を第二次目標と設定する』
第一次ではない……。
私は唾を飲む。喉が鳴った。
第一次目標は、あくまで敵の殲滅だということだ。
『……了解。クララ、テレサ、M型をなんとしてでも殲滅しろ!』
『クララ、了解』
『テレサ、承知』
もう、誰も彼もが無感情だ。戦闘シーケンスはまた一つ進む。
『レニーより艦隊全艦。M型よりナイトゴーント射出。約五十!』
『アーメリングより全艦、敵特殊航空戦力は私が相手をします』
『ネーミアよりアーメリング提督。頼む』
直後、空が光る。セイレネスによるオーロラが黄昏を切り裂いた。接近しつつあったナイトゴーントがバタバタと撃墜されていく。D級歌姫であるレベッカと戦艦ウラニアの組み合わせ。その力はやはり圧倒的だった。まるで見えない壁にぶつかっているかのように、敵の超兵器が撃墜されていく。それはいつものレベッカの力よりも、遥かに強大であるように見えた。
「すごい……」
あのナイトゴーントがこんな簡単に?
私の言葉に反応して、アルマが首を振った。
「コーラスだ」
「え?」
「PTC」
「それって三人以上いないとできない……よ?」
PTCというのは、C級歌姫たちが自分たちの戦力を補うために使う戦闘技術だ。今も最前線ではそれが展開されている。
「そうだけど、でも、そうじゃないと説明がつかない」
アルマはタブレット端末を引っ張り出してきて何やら計算をし始める。
「ほら、この撃墜位置、レベッカの直接有効打撃距離じゃない。三割増しくらいにしない限りこの破壊力を持ったフィールドの展開はできない。そしてそんなことができる技術なんて、コーラス以外にない」
「イザベラとレベッカが二人で?」
「そうだと思う」
アルマの顔が険しい。レベッカはイザベラを踏み台にしたとも言える。そんなこと、今まで聞いたこともない。
『こちら、アーメリング。AA戦闘を中断。敵特殊航空戦力、殲滅を確認。第二艦隊、バトコンレベルは現状を維持します』
『ネーミア、了解。敵通常航空戦力に関しては第一艦隊で十分だ。協力に感謝する』
『アーメリングよりネーミア提督。善戦を期待します』
『――善処しよう』
トリーネという大戦力を失ったにも関わらず、イザベラの声は全く揺れていない。もはや立ち直ったというのか。私はいまだ、トリーネの喪失を受け容れられていない。他にも同時に五人もの歌姫を失ったことも、また。
『第一艦隊全艦、第一次目的を忠実に果たせ。通常艦隊ごときに遅れを取るな!』
とはいえ、敵は三個艦隊。手数にして三倍あるいは四倍もの差がある。いくら歌姫が強大な戦力であるといっても、その数を相手にできるかは疑問だった――D級歌姫が最前衛に出ていれば話は別だけど。
水平線の彼方から、うんざりするほどの攻撃機が飛来する。二百、いや、三百はいる。こんな数の攻撃機、今まで見たことがない。暗くなった空を埋め尽くす、より暗い影。その数は――悪夢だ。
『アーメリングより、ネーミア提督。敵航空戦力が想定を上回る。我が第二艦隊の支援の要を認――』
『こちらエウロス飛行隊隊長、メラルティン。エンプレス隊、現着した』
えっ?
私は思わず映像の空を見た。軍のカメラも遠く西の空を映している。
「赤い……」
陽光の残滓を引き裂いて飛来する真紅の戦闘機、F108P。紛れもない、空の女帝こと、カティ・メラルティン大佐の愛機だ。誰もが知っているその戦闘機が、黒いF108Pを率いている。その数は――十一機?
「全部でたったの十二機?」
アルマが訝しむ。私だって同じ気持ちだ。敵は三百。こっちは十二。どう考えても増援と呼べる数ではなかった。
『エウロスより眼下の歌姫たちへ。敵艦隊へ注力しろ』
『ネーミアより、メラルティン大佐。我々は――』
『黙れ、イザベラ。ヤーグベルテの空はアタシたちのものだ』
そうこうしているうちに、空での戦闘が始まる。多弾頭ミサイルが放たれる。敵のほうが圧倒的に多いその弾頭。ミサイル同士がぶつかりあい、たちまち墨色の空が爆発する。
『ネーミアよりメラルティン大佐。数に差がありすぎる。増派あるいは撤退を推奨――』
『誰に指図している!』
メラルティン大佐の鋭い声が響く。
『エンプレス隊、散開! 各自撃墜スコアを稼げ! 主目的、敵の殲滅。第二次目的、全員の生還! 墜ちても構わんが、墜ちたら隊全員にフルコースを奢らせるぞ!』
空中戦が開始される。ミサイルにやられた味方機は一機もいない。アルマが呻く。
「うそだろ……っ!?」
空を覆い尽くした敵の多弾頭誘導ミサイル。しかし、ただの一機にも掠りもしていなかったということ? 何が起きたかわからない。まるで信じられない。私は映像から目を離せぬまま、呟く。
「ものすごい……ことしかわからないね」
「ああ」
いったいぜんたい、メラルティン大佐の戦闘機はどういう構造をしているのか。およそ戦闘機とは思えない機動で、すれ違う敵機を漏れなく撃墜していく。交錯時の相対速度は音速の四倍にも達するというのに。メラルティン大佐は、超音速衝撃波ですら味方に付けているようだった。もはや暗黒に落ちつつある空だというのに、その赤い機体はよく映える。
その後ろでめいめいに戦っているエンプレス隊の黒い機体もまた、恐ろしく強い。機関砲の一連射が、面白いように敵機に吸い込まれていく。変幻自在な飛行技術。それは空の女帝のものと比較しても、遜色が無いようにも思える。私たちは唖然として、その芸術とも言える技術を眺めるだけだ。
秒単位で敵機は数を減らしていく。
『レネより、第一艦隊および、メラルティン大佐。敵航空戦力の半減を確認』
『索敵ご苦労、レニー。君のことはよく聞いている』
メラルティン大佐がそう応じる。
『エンプレス隊、敵航空戦力を磨り潰せ! 一機たりとも逃がすな! 奴らは自殺攻撃をしてくるぞ!』
『ネーミアよりメラルティン大佐。戦場は我々第一艦隊の管制下にある。これ以上の手出しは無用――』
『空軍には空軍の都合があってね。第六課の許可は今さっきもらったところだ』
『なんだって?』
イザベラのやや動揺の感じられる声を受けて、アルマが慌てて参謀部発の命令文を呼び出す。
「ほんとだ」
私もその端末を覗き込む。確かに、参謀部第六課が、空軍に対して正式にエウロス派遣を要請している。タイムスタンプ的には、それはエウロスが到着した後の話なんだけど――。
でも、今のC級歌姫たちのバラバラな戦闘行動を見ていると、エウロスの増援がなければかなり危なかったような気もする。C級歌姫のみならず、エディタたちV級歌姫でさえ精彩を欠いているのだから。
メラルティン大佐は激しい戦闘をしているとは思えないほど落ち着いた声を発する。
『第一艦隊は敵海上構造物の破壊殲滅に勤しめ。我々は航空戦力撃滅後、速やかに撤収する。艦隊攻撃支援の要ありというのであれば――』
あんな戦闘行動をしながら喋れる事自体が驚きだ。史上最強――その呼び名は伊達ではなかったということが、今全国民の前で改めて証明された格好だ。私は息をするのも忘れていた。間一髪、私は胸に溜まった二酸化炭素を吐き出した。
『わたしたちの活躍の場まで奪わないでもらっていいかな、メラルティン大佐』
『イザベラ、意地で戦争はできんぞ?』
『……全艦、複縦陣!』
イザベラはその指令を以て、メラルティン大佐への回答とした。そして続けて号令を発する。
『戦艦、セイレーンEM-AZ、全速前進! 目標、敵総旗艦! 取り巻きは後で料理しろ!』
「うわっ!?」
私とアルマは同時に耳を塞いだ。
凄まじい歌が、響き渡ったからだ。音量の話ではない、圧力だ。全身を絞られるような、そんな圧力に、私たちは身動き一つもできなくなる。
「これが、イザベラ・ネーミア提督の力……!?」
その音圧は、ヴェーラやレベッカを遥かに上回る。
「信じられない」
私は思わずそう言った。アルマも引きつった表情を見せて頷いている。
『セイレーンEM-AZ、セイレネス、再起動! 安全装置解除! 天使環、および装甲翼展開!』
え。なに? なにがおきてるの?
呆然と画面を見つめる私の前で、白銀の超巨大戦艦が姿を変えていく。後部装甲が次々と青や緑に輝きながら展開し、セイレーンEM-AZの後部に半球形の金属の環が出現する。その環からオーロラグリーンの輝きが吹き上がり、七枚の翼のようなものになった。
間髪をいれずに、艦首の装甲が三つに分離展開する。中から現れたのは三連装誘導砲身……。
「なにが、始まるんだ?」
「わからない」
いや、わかっている。うっすらと記憶にある。ヴェーラとレベッカの初めての戦い。戦艦たちのデビュー戦。その時に使われたきりの武器、だ。
そして――これから起きるのは、圧倒的な大殺戮だ。
イザベラの声が響く。
『ヤーグベルテ第一艦隊司令官イザベラ・ネーミアより、アーシュオンの侵攻艦隊に警告する。この警告はわたし個人の善意により発されるものである。本攻撃は国際法を犯すものに非ず。なれど、本攻撃は一撃で貴艦隊を殲滅するに足る威力を持つ。故に、わたしは貴艦隊への本警告を実施する。繰り返すが、これはわたし個人の善意である。今より三十秒以内に退却の意志を示せ。さもなくば、我々は戦闘行動を続行する!』
『こ、こちら、アーシュオン連合艦隊。本国への問い合わせにもう少し時間が必要だ。それまで、て、停戦というわけには――』
『残り十五秒』
無情な声が響く。そう、イザベラは最初から逃がす気はないんだ。
この警告は――ただの舞台演出だ。
『シーケンス8・8・8へ進行。終末段階移行確認』
『ま、まってく――』
『射軸線固定』
そして、無情にもイザベラの号令が飛ぶ。
『雷霆、投射!』
セイレーンEM-AZから放たれた光が闇を裂く。
その光は味方の艦をも巻き込んだが……味方艦は全くの無傷だった。だが、その光を受けた敵の艦船は、爆発すら起こさずにただ忽然と消滅した。
この一撃で事実上、戦闘は終わった。倒すべき敵は、その一撃でほとんど消え去ってしまった。あまりといえば、あまりの幕切れだ。
空の敵はエウロス飛行隊の活躍によってもはや一機も無く、海上に残った敵艦艇も、退却も降伏も認められぬままに沈められていく。トリーネを失ったことで、普段は沈着冷静なエディタが、修羅と化していた。重巡アルデバランは無茶苦茶に最前線を動き回り、アーシュオンの残存艦艇を流れ作業のように粉砕していった。
『レネより、第一艦隊。アーシュオン全艦隊の殲滅を確認。参謀部第六課統括ハーディ中佐より、戦闘行動終了の許可が下りました』
『ネーミアより参謀部。行動終了許可を確認。エディタ、状況報告』
『……敵残存兵力、なし。捕虜、なし。海上に生存者発見できず』
『ネーミアより全艦。アーシュオン方、生存者なし、了解。我が方の被害艦および生存者の救出を急げ』
『了解。味方収容急ぎます』
エディタの声は未だピッチが高かった。興奮状態が続いているのがわかる。
『こちら、エンプレス1・メラルティン。エウロス、損害ゼロ、いつもどおりだ。我々も母艦へと撤収する』
『ネーミアより、空の女帝。状況、承知した。支援、感謝する』
『アーメリングより、メラルティン大佐。帰路、お気をつけて』
『……仰々しいな』
メラルティン大佐は密かに笑ったようだ。
『陸で会おう』
そう言い残すと、真紅の戦闘機は十一機の僚機を連れて、闇の空へと飛び去っていった。