カワセ大佐とハーディ中佐の一触即発状態はそれから一年以上続いた。結果として、カワセ大佐はハーディ中佐から、第一・第二艦隊――通称歌姫艦隊――に関するありとあらゆる権限を奪い、第一・第二艦隊に対してあらゆる命令を独断で下せるところまで地位を固めていた。それを強力に後押ししていたのは、レベッカとイザベラだという噂も聞いた。
私たちが三年になった頃――つまり、レニーが正式にイザベラ麾下の第一艦隊に配属された頃、ヤーグベルテ三隻目の戦艦・ヒュペルノルが進水した。ウラニアやセイレーンEM-AZほどの巨大さはないものの、それでも正規空母よりは一回り以上大きい。艦を守る半透明な装甲の色は、光の加減によって白とも青とも緑とも感じられた。モルフォ蝶のように絢爛たる輝きを纏った戦艦だった。
レニーはあっという間に第一艦隊の中枢に駆け上がった。D級もかくやといわんばかりの戦闘力で、単艦でアーシュオンの一個艦隊を殲滅したことすらあった。あの脅威のナイアーラトテップI型による襲撃も受けたが、最先鋒に立っていたレニーは、それらを事も無げに排除した。第一期のエディタ、クララ、テレサ、第二期のハンナ、第三期のロラ、パトリシア――彼女らV級歌姫も相応以上の活躍を見せていたが、今やマスメディアはこのS級歌姫ばかりを称えるようになっていた。
「お疲れ様、レニー」
真夜中、レオンと入れ代わるようにして部屋に戻ってきたレニーに、私はココアを作って手渡した。レニーは軍に配備されていたにも関わらず、未だこの部屋にいた。カワセ大佐による根回しの成果だろう。
「ありがとう、マリー。落ち着く」
レニーは二週間に渡る迎撃戦から帰ってきたばかりだった。レニーは指定席に沈み込み、部屋を見回す。その視線はうつらうつらしながら兵站部のログを見ているアルマの上でそっと止まる。
「帰る場所って、本当に……大切なのね、マリー」
「だね」
「そんな大切な場所を焼いてしまったヴェーラの気持ちは……」
レニーは沈んだ声で言った。
「ヴェーラは命を掛けて、その仮面を脱ぎ捨てた。過去も現在も、未来も邪魔だった。だから、イザベラ・ネーミアという姿で、本当の自分に生まれ変わった」
褐色の瞳が私をじっと見つめている。怖い目だった。レニーがこんな目をするようになったのは、実際に戦場に立つようになってからだ。
「私は提督たちほどは強くない。戦場に出て、それが痛いほどわかった」
「それはレニーが優しいから――」
「仮にそうだとしても。イザベラも、レベッカも、とても優しい。だけど、二人とも強いわ。その手を真っ赤に染め上げても、なお優しくいられるくらい、強いの」
レニーは自分の手を睨む。険しい表情と声音だった。
「セイレネスで人を殺すとね」
レニーは私を見た。いつの間にかアルマもはっきりと目を覚ましていて、私たちの会話に耳を傾けていた。
「見えるのよ。殺した人の顔が。声が。過去も、未来も、大切な人の悲しみや苦しみも、全部見える。強引に意識の中に捩じ込まれてくるの」
「そ、そうなの……?」
今まで誰からもそんな事を聞いたことはなかった。もちろん、シミュレータではそんなことは再現されていない。
「多分、私がS級だからよ、感じるのは。エディタたちからもそんな話は聞かないし」
「だとすると、D級は……」
「これ以上なのは確かよ」
「そんな……」
倒した人の顔が見える? 過去や未来まで見える? それって、自分が摘み取ってしまう命のその全てが見えるっていうこと?
私は冷え始めた室内にあって、汗をかいていた。レニーはまだ怖い目で私を見ている。
「でも、怖いのはそれだけじゃないの、マリー」
「……というと?」
「慣れていくのよ。心が動かなくなっていくのよ」
「心、が?」
「ええ。人を殺しても、心が動かなくなっていくのを感じるの……」
レニーは唇を噛んでいた。
その時、アルマが不意に立ち上がった。
「風呂、行こう」
「こんな時間に?」
「だからだよ、マリー。平日の午前一時だ。誰もいないさ」
べ、べつにいいけど? と私は立ち上がる。レニーを伺うと、「ずっとシャワーだけだったし」とようやく表情を和らげた。
そして私たちは足音を潜めて最上階の大浴場へと移動する。
「レオナ以外と風呂だなんて浮気だなぁ、マリー」
「う、浮気じゃないし! たっ、ただのお風呂だし!」
私たちは並んでお湯に浸かり、誰もいないこの広大な空間を楽しんだ。アルマが私越しにレニーに訊いた。
「レニー、心は動いた?」
「ありがと、アルマ。……そうね。少し緊張が取れたわ」
「それはなにより」
アルマはホッと息を吐く。私もそれを真似してから、レニーの方へ顔を向ける。
「ヴェーラ――イザベラも、レベッカも、すごいものを、とんでもないものを背負っていたんだね」
「ええ。あんなの想像もできなかったわ、マリー。あの二人がどれほどの物を背負ってきたのか、背負わされてきたのか、やっと少しだけ理解できた。でもね、それに……慣れていくのよ。敵艦を沈めることを、敵を倒すことを、人を殺すことを、なんとも思わなくなっていく自分がいるの」
「自分を守るためなんじゃないかな、それは」
アルマがぼそっと言う。
「そんなもの、真正面から受け止め続けていたら心が壊れてしまう。だから、そうならないために心が鋼になって自分を守っている。だからレニーの心は生きているし、まだ生きたいと思っているんだって言えるんじゃないか?」
「そう、かな」
レニーは不意に涙をこぼした。
「レニー?」
混乱する私を追いやって、アルマがレニーを抱いていた。
「ごめんなさい、なんか、帰ってきて緊張が緩んだのかなぁ。ダメだなぁ、私。みんなつらいのに。私だけ泣いてたら、ダメなのに。提督方はもっと――」
「違うよ。それ、間違いだよ」
アルマはレニーの言葉に割り込んだ。
「悲しさなんて、つらさなんて、相対論じゃないし」
そしてレニーの髪に指を絡ませながら、言う。
「レニー自身が泣きたいって言ってるんだろ。泣かせてやりなよ。他人の心配はその後でいい。涙が出るうちに泣いとかないと、泣き方を忘れちゃうよ」
「アルマ……」
レニーはアルマに抱かれながら大きく声を震わせた。
「泣かせてもらっていい?」
「あたしの胸で良ければ」
「……ありがと」
レニーはそう言うと、アルマの背中に腕を回して、声を殺して泣き始める。レニーをここまで追い込んだもの――戦争とかそういう一切のものが憎いと思った。こんなものは、さっさと終わらせなきゃと思った。
無言で水面を眺める私の耳に、アルマの静かな声が聞こえてくる。
「あのね、レニー。他人のつらさを感じようと頑張ってみた所でね、自分のつらさが変わるわけじゃないんだよ。自分が誰それと比べて相対的につらいとか、つらくないとか。そんなの、何の意味もない考え方なんだ。だからね、今、自分がつらいと思うなら、つらいんだ。絶対につらいんだ。程度の問題じゃない。傷の深さの問題じゃない。つらいと感じたら、つらいんだよ。誰が何と言おうと。誰がどんな状態であろうと。
他人はね――たとえそれが恋人だろうと――関係なんてないんだ。心のつらさは自分のものなんだよ、レニー。他人にとやかく言わせちゃならないものなんだよ。
それにね、レニー。他人の事を考えたりなんかして、自分の心の悲鳴に耳を塞いでもいけないんだよ。他人の痛みを、自分の耳を塞ぐ理由なんかにしちゃいけないんだよ?」
「アルマ……?」
「あたしにとってレニーは大事な人。だからこそ、あたしはね、レニーに泣くのを我慢して欲しくない。涙をこらえて唇を噛んでるようなレニーは、見たくない。本当の優しさを怖い顔なんかで塗りつぶしてるレニーなんて見たくないんだよ」
アルマはレニーの背中に手を回す。二人は強く抱き合って、そっと離れる。レニーはしばらく考えた末に、隣にいるアルマの手を握った。ぽちゃんとお湯が音を立てる。
「アルマは、あの、そういえば、女の子が好きだったよね」
「うん」
「今でも?」
「うん」
「今でも、マリーが好き?」
「さすがに……諦めたよ」
アルマは肩を竦める。そういえばこの半年くらい、キスを求められてない。
「レオナとあれだけイチャつかれたら、そりゃぁ冷めるよね」
「えっへへへへ……」
私は変な笑い方をしてしまう。アルマは唇を思い切りひん曲げて見せて、私はたまらず吹き出した。そんな私を尻目に、レニーがアルマの肩を叩いた。
「あ、あのね、アルマ」
「どしたの、あらたまって」
「あのっ、えと、私、アルマのこと、好きになって、良い?」
「ふぇっ!?」
ずぼっと浴槽に沈むアルマ。私は慌てて手を引っ張って救出する。アルマはひとしきり咳き込んでから、あろうことか、いきなりレニーの唇にキスをした。
「えええええええ!?」
思わず驚愕の声を発する私。アルマは私を見てニヤリと笑い、レニーは自分の唇に手を当ててぼんやりした表情を浮かべている。嫌では……なかったのかな?
「これが、キス……?」
レニーはまたぽろりと涙をこぼした。慌てたのはアルマだ。
「え、え、ごめっ。泣くほど嫌だった?」
「ううん、ち、ちがうよ」
レニーは涙を流しながら、口角をキュッと上げた。
「全然、嫌じゃなかった。すごく、その、嬉しかった」
「よかった」
何故か安心する私だ。他人のキスなんて初めて目の前で見たけど、ものすごくドキドキしてしまった。とか考えていたら、レオンに会いたくなってしまう。でも、明日学校でも会うし、その後も一緒にいられるから……我慢。
「キスしといてなんだけどさ、レニー。あたしでいいの? 本当に」
「アルマこそいいの? 私、その――」
「心変わりも恋の内だよ」
アルマは「んー」と何かを記憶から呼び出した。
「人はいさ心も知らずふるさとは――」
「花ぞ昔の香ににほひける」
よどみなく応じるレニー。私にはついていけない反射神経だった。今度はレニーがぽんと手を打った。
「逢ふ事の絶えてしなくは中々に――」
「人をも身をも恨みざらまし……ってレニーってば!」
アルマがレニーの背中を軽く叩く。
「あたしの方が待つ人になるんだから。しっかり帰ってきてよ」
「帰ってきた時に浮気されてたら、呪うわよ、アルマ」
「怖い怖い!」
アルマは笑う。レニーの表情もすっかりほぐれていた。今の私は賢者の境地だ。
そんな私をさておいて、アルマがレニーの前に回りながら言った。
「レニー、あと一年待っててよ」
「待たないわよ。全部スッキリ終わらせるから。そしたらずーっと一緒にいられるじゃない? それにね、アルマにもマリーにも、こんなもの体験させたくないから」
「そんなの無茶だよ、レニー」
思わず私が言葉を挟む。
「レベッカにもヴェーラにもできなかった。エディタたちが加わって一年以上経つけど、未だ進展なし。最近ではべオリアスやキャグネイの艦隊さえ出てきてる。一年耐えてくれれば、私とアルマも加われる。そしたら一緒に戦える」
「マリーはともかく、アルマにはあんな思いは体験させたくないわ」
レニーは珍しく少し悪い顔をした。私は天井を見上げる。秋も秋、雪が降りそうなほど冷え込んだ夜空が澱んでいる。
「レニー。あのねぇ」
アルマが言う。
「あたしも人は殺したくない。嫌だよ、そんなの。敵を殺せば慚愧の思い、味方が死ねば断末魔。そんなの体験したくなんてない。けど、レニーはそれをもう何度も味わってる。何百人も殺してきたし、味方だって何人も死んでる」
アルマの切れ味の鋭い言葉が、私たちに傷を付ける。水面に映った照明の照り返しが、静かに揺れている。
「そんなもの、レニーが背負い続けなきゃいけないものじゃないんだ。もちろん、レベッカも、イザベラも、それを背負い続けなきゃならない道理なんてない。あたしはもうレニーには戦って欲しくなんてない。戦場には出て欲しくはないんだよ? けど、そうはいかないことも知ってる。レニーがいることで戦いが有利に、そして味方の被害も小さくなることを知ってるから。だったらせめて、あたしも同じ苦しみを共有したい。理解したい」
「私はアルマの手を汚させたくない。あんな声は聞かせたくない」
「レニー、あのさぁ? あたしたち、もう、恋人だよね?」
「え、う、うん」
レニーは頷く。アルマの勝ちだな、と、私は思った。
「だったら、一人で背負い込まないでよ。あたしを頼りにしてよ。もっとさ」
「でも……」
「レニー、あたし、思うんだ。あたしたち歌姫の時代は、まだまだ続くよ。レベッカもイザベラも、現役引退は遠いと思う。まだまだ、だよ。だけどね、アーシュオンだってアーシュオンの同盟勢力だって一枚岩でもなければ無限の戦力を持ってるわけでもない。だから、どこかで平和な期間はやってくる。一時でも、たしかに間違いなく平和! ――そう言える時代が来ると思う。でもね、それは今じゃない。残念だけど、今じゃないんだよ」
「私も賛成」
居場所がなくなりつつあった私だったけど、何とか割り込むことに成功した。
「私たちにできるのは、この国と未来を守ることだけだと思う。敵が強いなら、私たちも強くなる。そうしてただただ耐える。私たちが強ければある程度の抑止力にはなると思うよ。けど、それだけ。それだけだ。仮に敵を完膚なきまでに叩き潰すことができたとしてね、レニー。その結果、作られる平和に意味なんてある?」
「でも、それでヤーグベルテが脅かされないなら。かつてヴェーラとレベッカがやったみたいに、アーシュオンに核を降らせろというのなら、私は喜んでするわ。それが平和のためなら――」
「違うよ、レニー」
私は首を振った。アルマは私に小さく頷く。私はまた口を開く。
「アーシュオンが、その、滅んだとしても、敵が変わるだけなんだ。私たちがセイレネスという技術を有する以上、どの国だって敵になり得るんだ。暴力で手に入れる平和に、ろくなものなんてないんだよって私は思う。私たちはただただ守り続ける。そして、ヤーグベルテの人々に訴え続ける」
「訴え続ける?」
「そう。私たちの存在そのものが、人々の娯楽になってるのは現実、だよね? だったら、私たちの断末魔さえ楽しもうという腐った価値観を変えられるのも、私たちだよね? 私たちにしかできないよね?」
「そんなの……ヴェーラもレベッカも、やってきたじゃない。今だってエディタたちが頑張ってるじゃない。でも、変わらない。何も変わらない!」
レニーは首を振った。そのレニーを後ろから抱きしめるアルマがいる。アルマはそっと囁いた。
「言葉を棄てちゃダメだよ、レニー」
「でも……」
「あたしたちは、言葉を扱える。伝えられる環境も力もある。だから、たとえ誰もが耳を塞いでいたとしても、我慢強くやっていくしかない」
私はもう出る幕がない――そう判断して浴場を後にしようとする。
「マリー」
「ん?」
背後から呼びかけられて、私は振り返る。アルマがレニーをしっかりと抱きしめているのが見えた。
「マリーの覚悟のほどは?」
「私は、レオンを守りたい。突き詰めたら、結局はそれだけだよ、アルマ。その結果として平和が来るかもしれない、そんな程度の話だと思ってるんだよね。——私、酷いかな?」
二人の白い肌から目を逸らしつつ、私は応える。
「酷くなんてないさ。レニーは酷いと思った?」
「ううん……」
「だろ」
アルマはレニーをまた抱きしめている。キスしちゃうんじゃないか、この二人。そのくらいに顔が近かった。私はやっぱり恥ずかしくなって、さっさと背を向けてペタペタと歩き始める。
「――あたしはそれでいいと思う」
アルマの静かな声が浴場に響いて溶けた。