0200時――満天の星に魅せられる時間。さざめく夜空が緊張している。
左手のコンソールで安全装置を解除した。もはや慣れたものだ。コンソールを間違いなく手順通りに叩くことができる。手順通りに。いつもどおりに。
これで統合首都の軍事中央制御システムには、そのログが記載されただろう。そしてバイザーの内側に返ってくる「unlocked」の文字。全く意味のない一連のデータのやり取り。これは言わば儀式だ。
目の前には夜目にも青い攻撃機が一機。いつもの偵察、か? 領空侵犯ギリギリで引き返す――はずだ。幾度となく私はそれを見てきた。忸怩たる思いと共に。
彼らは知っている。私たちが決して撃たないであろうことを。ミサイルはもちろん、機関砲弾の一つすら放たないのだと。だから、どんな警告にも動じないし、私たちがどんなに接近しても進路を変えることはない。
馬鹿にしやがって――。
最新鋭機、F102が泣く。何のための自国開発なのかと。専守防衛は錦の御旗。決して撃ってはならない30㎜のHVAP。空対空ミサイルも、パイロンから離れることは決して許可されない。砲身はいつだってピカピカだ。
『隊長、こいつ、進路変えませんよ』
共にスクランブルした二番機の声が焦っている。
『威嚇の一発くらい……』
「だめだ」
撃てばそれだけで問題になる。
「映像を参謀部に回せ」
『……了解』
面白くなさそうに二番機が言う。彼とは長い付き合いだ。スクランブルから帰還すると、彼はいつも国家の対応にぐちぐちと文句を垂れる。エースが聞いてあきれる、彼はいつもそう嘆く。
『参謀部より、アポビス1――』
「こちらアポビス1、感度良好」
『決して撃つな。警告を続け、進路を変えさせろ』
「お言葉ですがね」
私は青い攻撃機との距離を縮めながら思わず反論する。二番機の魂が乗り移ったのかもしれない。
「我々にできることなんてありません。奴ら、こっちがトリガーを引くことなんてありえないって知ってるんですから」
『とにかく命令だ。かの国とは和平交渉中だからな』
「和平交渉って言いますけど、和平交渉中に対地ミサイルわんさと積んで領空侵犯コースってのが、まず責められるべきなんじゃないですか。和平を結ぼうって相手に対する態度としちゃ、あまりにも無礼じゃないかって思うんですがね」
『――ともかく、コースを変えさせろ』
どいつもこいつも……。
二番機のあいつも私と同じ気持ちだろう。何が最新鋭機だ。何がスクランブルだ。何が超エースパイロットだ。
弾を撃ったこともないエース。戦ったことのない戦士。もはや抑止力とすら見てもらえない最新鋭戦闘機。国民からは税金の無駄と叩かれ、参謀部は無意味な命令を機械のように繰り返す。長すぎる和平交渉、収まらない挑発行為、何も知ろうとしない国民。見当違いのシュプレヒコール。
うんざりする。
何もかもにうんざりする。
私は青い攻撃機と並ぶ。スピードだけならこっちが上だ。追いつくのに苦労はしない。敵の飛行士がこっちを見ている――気がした。
「警告する。進路を変えろ。直ちに進路を変えろ。間もなくヤーグベルテの領空である」
応答はない。あと二分で領空に入る。ここまで接近されたことは、和平交渉が始まってから八年。未だかつてない。
これはいつもと違う――グローブの内側の湿度が急上昇する。不快感に任せて、青い攻撃機を睨む。
「参謀部! 戦闘許可を。敵の対地ミサイルはとっくに沿岸部を射程に収めている」
『いつものことじゃないか。奴らは撃っては来ない』
「今回も撃たないなんて保証はない!」
『君は戦争を始めようというのかね?』
参謀部のお偉方――名前はどうでもいい――がのんびりと言った。危機感なんて一つもない。本気になってる私たちを揶揄しているかのような、そんな雰囲気だ。私は奥歯を噛み締める。そして吐き出した。
「戦争は、まだ終わっちゃいないんです!」
私が叫んだその時、並走していた敵機が高度を下げ始め、加速した。
「しまった! 追うぞ!」
私と二番機は慌てて追いかける。
『隊長、領空に入ります!』
二番機の声に、私はレーダーを見る。敵機を示す光点の周りでアラートが光っていた。
「戦闘準備!」
『ま、待て、アポビス1! 今は和平交渉の……』
「無意味な交渉と、命の危険にさらされる何千人何万人と、どっちが大事なんだ!」
『攻撃に関しては許可できない』
それと同時に、バイザーの中に「Locked」の文字が光った。もう機関砲すら撃てない。できることはなくなった。
『くそっ、こんなんじゃ……っ!』
二番機が吐き捨てている。私も同じ気持ちだ。目の前の青い攻撃機は、不意に旋回した。私と二番機も慌ててその動きを追う。F102の低空加速性が役に立つ。急制動もお手の物だ。
だが結局、敵機は何もせずに――オーグメンタすら使用せずに悠々と――帰っていった。
基地の滑走路が目に入るまで、私の右手の人差し指は、ずっと機関砲のトリガーの上に添えられていた。たとえそのボタンを押し込んだとしても、ログに「命令違反」が刻まれ、軍事法廷への招待状が届くだけだったのだが。
その翌週、敵国――アーシュオンにて、F102の性能が看破されたというニュースが飛び込んできた。こともあろうに彼らの報道の中では、ヤーグベルテの最新鋭戦闘機二機が、アーシュオンの領空を侵犯しかけたことになっていた。
そして、私たちの国――ヤーグベルテは、「そのような事実はない」の一点張りだった。その空々しい主張には、私たちを守ろうとする気概の一つも感じられなかった。
あの時、私たちは空を守れたのだろうか。
あの緊張の数分間は、誰かのために、なったのだろうか。
そんなことを思う、0025時。再び緊急発進がかかったのだった。
濃紺の空は、嫌味なほどに晴れ渡っていた。こんな日は、大抵いつでもこうなのだ。