ヴァルターが自分の執務室へと向かって移動していると、後ろから誰かが追ってきた。むき出しのコンクリートの廊下は、軍靴の音を高らかに反射する。忍び歩きは不可能だ。ヴァルターはその音の主が誰かも把握できていたので扉を開けながら音の方向に視線をやった。足音の主はシルビアだった。
「俺に話か?」
「肯定です、隊長」
シルビアは艶のある唇をやや開き、呼吸を整えた。そして促されるままに執務室へと入る。ヴァルターはシルビアにソファを勧め、自分はインスタントコーヒーを二杯分用意した。
「コーヒーは大丈夫だったか?」
「お気遣い、ありがとうございます」
「改まる必要はない。それで、どんな用件だ?」
ヴァルターはコーヒーをシルビアの前に置き、自分もソファに腰を下ろした。安物のソファはかなり固い。ヴァルターは顰め面を浮かべてから、シルビアを見た。
「君とはちゃんと話をしてみたいとは思っていた。配属からもう一年になるが」
「恐縮です」
シルビアの表情は相変わらず乏しい。ヴァルターのコミュニケーション能力は総じて高いと言っても良かったが、その彼をしてもシルビアが何を考えているのかの推測は難しかった。そして会話の際にも、シルビアは文脈を故意に消す。そのために彼女の思考のトレースは極めて難しい。
「隊長は超兵器ではどれを最も脅威と考えていますか」
「ヤーグベルテの視点からすれば、間違いなくISMTだと思うが」
「ですね。私もそう思います。しかし、私が危惧しているのはむしろあのクラゲの方です」
「ナイアーラトテップか。それはなぜだ?」
「先の同盟国の艦隊を巻き込んだ実験もありますが」
その言葉にヴァルターは鋭く制止をかける。どこで聞かれているかわかったものではないからだ。が、シルビアは落ち着き払った様子で小さく咳払いをしてみせる。
「大丈夫です。心配する必要はありません」
「それは信用していいのかな」
「隊長が私たちを信用していることを知っています。私はそれを前提に動いています。不足ですか」
「いや」
ヴァルターはコーヒーに口を付けてから首を振る。
シルビアの限りなく黒に近い褐色の瞳が、ヴァルターを映していた。その無言の圧力にヴァルターは確かに一瞬気圧された。シルビアはヴァルターの心理の裡を読み取ろうとしているかのようだ。そしてヴァルターはそれに抗えない。
「ISMTに比べれば、クラゲは調達が容易です。世論的にも。なぜならアレは無差別破壊兵器ではないからです。艦種的にはれっきとした潜水艦ですし、今後の我が軍の主力、最先鋒を担うものとなっていくはずです」
「主力と言うほど量産できると考えているのか?」
「可能です。アイスキュロス重工の今年度の予算は莫大です。不自然なほどに多い」
その断定に、ヴァルターは腕を組んでソファに背中を押し付けた。シルビアはコーヒーカップを持ち上げ、少し冷めたそれを喉に一口分流し込む。その時、その目がヴァルターを射抜く。
「ヴァラスキャルヴ。私はあの組織が、いえ、ジョルジュ・ベルリオーズがこの一連の流れに大いに関わっていると考えています。その共通項が、歌――」
「ああ」
歌姫計画。ヴァルターにしか聞こえない特殊な歌は、この計画に関係あるに違いない。
「だとすると、アーシュオンとヤーグベルテを利用した、壮大な自作自演じゃないか」
「真偽はわかりませんが、可能性は」
シルビアは鋭い視線を更に鋭くしてから、頷いた。
「それに隊長。私はあのクラゲが、広報どおりに無人機なのかすら疑わしいと考えています」
「有人でも無人でもかまわないように思うのだが」
「有人をわざわざ無人というのには大きな理由があると思いますよ、隊長」
シルビアはコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「ごちそうさまでした。隊長、くれぐれも歌にはお気をつけ下さい。我々が超兵器を持ち出したように、ヤーグベルテが何を生み出すのかわかりません」
シルビアが扉を開けると、そこにクリスティアンがいた。
「……!」
「迂闊だなぁ、シルビア。扉の向こうの気配には気をくばらねぇとさ」
「盗み聞きとは趣味が悪い」
「今着いたところさ」
しれっとした表情で言い放つクリスティアンに、シルビアは冷たい視線を送る。
「その言葉を信じる理由がない」
「信じてもらう必要もねぇよ。とりあえず俺は、このカタブツ隊長を家まで送る任務があってね」
クリスティアンはハンドルを握るジェスチャーを見せる。シルビアはゆっくりとヴァルターを振り返った。
「そういえば、奥様はお元気ですか」
「結婚はまだしてないぞ。色々あってね」
シルビアから思わぬ話題を向けられて、ヴァルターは若干挙動不審になる。シルビアはさほど関心もなさそうに「そうですか」と頷いて部屋を出ていこうとする。
その時、廊下の彼方から素っ頓狂な声が響いてくる。
「ああ、いたいたぁ! クリス! あんたどこいってたのさぁ!」
「どこって、いつも通りじゃん」
「いつも通りがわかんないあたし、参上!」
そのまま走ってきてクリスの鳩尾に頭突きをぶちかますフォアサイト。クリスティアンはその小柄な身体を抱きとめて、まるで「たかいたかい」をするように持ち上げる。フォアサイトは両手足をばたつかせて抵抗するが、クリスティアンは揺らぎもしない。
「とれたての鮭みてぇなヤツだな、おめーはよぉ」
「あたしぃ、それだけが取り柄みたいなもんだし?」
「知ってる!」
「むきー! 降ろせ、クマ!」
突如繰り広げられた夫婦漫才に、ヴァルターとシルビアは顔を見合わせて肩を竦め合う。
「で、だ、フォアサイト。おめー、何の用事?」
フォアサイトを持ち上げたまま、クリスティアンが尋ねた。フォアサイトは「あー……」と目を宙に泳がせた。
「なんだっけ? 忘れちゃいました、あははっ」
「おめーは鳥か」
クリスティアンはフォアサイトをポイと放り投げる。尻もちをついたフォアサイトはうらめしげにクリスティアンを見上げたが、すぐに跳ね起きるとヴァルターの前に駆け寄った。
「ところでところで! 雁首並べてどうしたんですか? どこか行くんですか? 新型機見に行くんですか? それともどこかに温泉旅行です?」
「隊長を送るっていう話だ、いつもの。結婚前の娘のところに足繁く通うヴァリー君であった」
「ちょっ、人聞きの悪い」
ヴァルターは声を潜めて抗議する。廊下で話されているのだから、隣の部屋には聞こえているかもしれない。クリスティアンはニヤニヤしつつ、フォアサイトの頭を小突きながら言う。
「さてと、フォアサイトがいると俺と隊長のラブラブタイムが興醒めタイムに早変わりだ」
「えぇ、隊長とクリスってそういう関係なんですかぁ?」
「違う」
生真面目に否定するヴァルターだったが、その声はシルビアを含め誰も聞いていない。
「というわけだから、このお子様のオモリは俺様が担当してやるぜ、隊長。お前さんはシルビアとの逢瀬を楽しんでくれや」
「何を言っているんだ、クリス」
「シルビア、頼めるな?」
「……逢瀬、とは違いますが」
「なんでも良いのよ、そんなん」
クリスティアンはそう言うと、なにやら賑やかに喚いているフォアサイトを引きずって歩き去ってしまった。
「頼めるか?」
「先に駐車場に行ってます」
シルビアはそう答えると、クリスティアンたちとは反対の方向へと軍靴の音も高らかに歩き去ってしまった。
一人取り残されたヴァルターはやれやれと白い天井を仰いだ。
「……?」
何かに見られていた?
ヴァルターは目を凝らして天井を見つめる。しかし監視カメラのようなものを発見することはできなかった。
「さもありなん、だが」
しかし今の湿った感触は一体何だったんだ。得体の知れない感触に、ヴァルターは思わず左の二の腕を擦った。