02-2-6:燦めく夜の中で

歌姫は壮烈に舞う

 

 半袖では寒く、長袖では少々おおげさ――そんな風がベランダに出たヴァルターとエルザを弄ぶ。煌々たる月は薄い雲の彼方でもその存在感を示している。上空の視界は良好、水平線まで見通すことができるだろう。空は平穏、されど地上は、自国内ですらさっきのような殺戮行為が平然と行われている。そしてそれはもはやアーシュオンの人々にとってだった。自分たちが当事者にさえなっていなければ。そして彼らは当事者になることを避け、粛々と国家体制に従うようになっている。

「ヴァリーはいつでも空を見てるね」
「仕事場だからな」
「仕事だけじゃないでしょ」

 エルザの言葉にヴァルターは空を見上げながら微笑する。

「ヴァリーは昔っから空が好きだったんだもんね?」
「自由に憧れてた」
「知ってる」
「でも、実際に飛行士アビエイターになってみると、思ってたような自由なんてなかったな」
「演習は好きなんでしょ」
「まぁね」

 ヴァルターは短く肯定し、エルザに顔を向ける。エルザはジンジャーエールのペットボトルを手渡すと、ヴァルターの左腕を軽く掴んだ。ヴァルターは右手でエルザの濃灰色の髪を撫で、また空を見た。木星がやたらと存在感を主張する空だ。

「二月なのに虫が鳴く」

 エルザは呟く。ヴァルターは「ん?」と声を出してエルザの発言の真意を問う。

「私たちにとってはごく当たり前のこと。だけど、多くの地方や国では、二月に虫は鳴かない。私たちにとって当たり前のことは、他の人には不思議なことに思えるのかもしれないね」
「ああ、そうだな」
「ねぇ、ヴァリー。あなたは……あっという間にこの国の超エース級の飛行士アビエイターになってしまったわ。そもそもあなたは――」
「ヤーグベルテ系の異端児」
「そう。それ」

 エルザは言いにくいことを平気な顔で言う。

「まぁ、そんなあなたを好きになっちゃった私もどうかしてるとは思うけど」
「相変わらずの舌鋒の鋭さっぷりで」
「酔ってるのよ」

 エルザは明るく笑った。そしてふと真面目な顔に戻る。

「あのね、ヴァリー。ちょっと休暇なんて取れたりしない?」
「休暇?」
「そろそろ、あのさ、ほら、結婚式のこととか」
「それは俺も考えているんだが、まだ警戒態勢が解かれていないんだ」
「ヤーグベルテとはもうしばらく戦闘起きてなくない?」
「大きなのはね。小競り合いはほとんど毎週起きてる」
「そうなんだ」

 幾分気落ちした様子のエルザに、ヴァルターは「すまない」と囁いた。エルザはヴァルターの背中を軽く叩く。

「入籍だけでも、とは考えたけど、そんなの意味ないかなって思ったりもする。実際のところ、婚姻届なんてどうだっていいし。私は結婚式を挙げたいのよ。あなたも軍の中での体裁とかあるでしょ」
「そうだなぁ。なくはないか」

 ヴァルターはベランダに置かれている椅子に腰をおろし、向かい側の椅子をエルザに勧める。が、エルザは首を振ってそれを拒否する。ヴァルターを見下ろしながら、エルザは溜息をつく。

「私たち、アーシュオンの人は、浮かれていちゃダメなのかもね」
「う、うん?」
「だって私たち、ヤーグベルテにしたんだもの」
「八都市空襲、か」
「そ」

 ISMTインスマウスや核攻撃。数十万、もしかすると百万を超える人々の殺戮。

「軍の人だって、それだけのことをしてただで済むなんて思ってるはずがないわ。だからきっと、私も含めてアーシュオンの人たちは皆、自分たちが作り出した亡霊の影におびえているのよ。警戒態勢が解除されないのもその証拠……じゃない?」
「なんとも言うわけにはいかないが、その推測は正しいかもしれないな」

 ヴァルターも本当のところは知らない。しかし、アーシュオン軍組織自体がどこか浮足立っているように感じられるのも事実だ。マーナガルム飛行隊の面々だけはいつもと変わらず、という具合だったが。

「私たち、幸せになって良いのかなぁ」
「誰がどうあったって、君が幸せになってはならないなんて言う権利はないさ」
「私たちが、よ」
「だとしても」

 ヴァルターはややムキになって言い返す。

「戦争していようが、国が何をやらかそうが。俺たちは俺たちの生活があるし幸せもある」
「でも私たち、当事者なんだよ?」
「そうだな」

 ヴァルターは背もたれに身体を半ば預けながら、空を見る。紺色の空は何も答えない。ただ沈黙のうちに星を降らせるだけだ。エルザはようやく椅子に腰を下ろして、ホッと息を吐いた。

「戦争、嫌だね」
「ああ。嫌だね」
「戦争がなくなったらヴァリーは暇になるよ」
「暇でいい。日夜訓練飛行に明け暮れて生きるのが夢だからな」
「それがいいね」

 エルザは小さく笑う。

「誰も死なない世界にならないかなぁ?」
「誰も死なない、か。少なくとものが当たり前なんて世界は終わってほしいな」
「大義名分のために兵隊以外も無差別に殺すような世界もね」

 エルザは幾分鋭い声で言った。ヴァルターは首を振る。エルザはヴァルターから視線を逸らすと、ゆっくりと空を見上げた。

「民間人を殺し始めたら、戦争は終わらない。そんなの、この何十年かで世界中がイヤってほど学んだでしょうに。どこかに戦争を続けたい人たちがいるってことなんでしょうけど」
「それは、そうだろうな」

 軍需産業なんかはその最たる例だ。ヴァルターはジンジャーエールのボトルに口を付けて、おもむろに立ち上がった。エルザは黙ってその隣に立つ。

「ねぇ、ヴァリー」
「なんだ?」
「もしここに、私たちがやらかしたみたいながあったら。あなたはどうする?」
「そんなことは不可能だ」
「ちがう。ちがうよ」

 エルザは力を込めて否定する。

「実際にどうという話じゃないの。もしもの話。あなたがどこかで戦っている時に、この街が燃えてしまって、私たちみーんな殺されてしまったら? あなたはどうする?」
「どう……?」

 ヴァルターは険しい顔を見せる。エルザは毅然と頷いた。

「泣く? 怒る? 諦める?」
「それは、難しいな」
「誰を憎む? 誰も憎まない? ヤーグベルテを呪う? アーシュオンに怒る?」
「それは……」

 ヴァルターは言葉に詰まる。エルザの瞳がヴァルターをまっすぐに捉えている。

「俺はきっと、国をどうこうじゃなく。多分、そうだな、攻撃してきた奴を恨むだろう」
「戦争なのにに責任を与えるの?」
「感情だよ」

 ヴァルターはうつむいた。

「多分、いろんなことをまぜこぜにして、その結果どうしようもなくて、その攻撃してきた奴を恨むんだ。俺が殺してきた敵の兵士の家族だって、きっとを恨んでいる」
「そうね」

 エルザは腕を組んで椅子に腰を下ろした。ヴァルターは立ったまま動けない。

「あなたの前に、私たちを殺した人間が現れたら、あなた、復讐してくれる?」

 エルザの表情は冷たかった。成層圏の大気のような、てついた無慈悲な冷たさだった。

「わかるわよね、ヴァリー。世界に安全圏なんてもうない。私たちがそれを証明してしまったのよ、ISMTインスマウスを使って。だからいつ、あなたや私が一人ぼっちになるかなんてわからないのよ、もう」
「俺は、目の前の敵を倒す」
「復讐とかじゃなく?」
「私情で戦うと、勝てない」
「つまらない」

 エルザはかなり鋭い声で言い捨てる。

「私の求める答えはわかってるんでしょう、ヴァリー。死物狂いで復讐して欲しいのよ。どんな事情があろうと、どんな人であろうと関係ない。どんな手段を使ってでも、私と同じ苦しみを味あわせて欲しいの」
「憎しみの連鎖は……」
「そんな話じゃないわ!」

 エルザがヴァルターの言葉を切り捨てる。

「誰かが我慢しなければ戦争は終わらない。わかってる。だけどね、私は我慢してほしくない。私も我慢しない。どうして私が、私たちが、我慢しなくちゃならないの? 多くの人は我慢なんてしない。憎しみを募らせて、怒って、泣き叫んで、銃を手に取る。私は残念ながら一般人なの。多くの人がするようにしか出来ない人なの。あなたは確かに有力な軍人よ。だけど、だからといって、私は私のために復讐してくれないような人を心から愛せるとは思えないの」

 一息でそこまで言い切ったエルザを、ヴァルターは黙って見下ろした。エルザはゆっくりと息を吐く。

「と、いうのは本音。だけど、私はあなたのことを愛してる」

 人って難しいのね――エルザはそうとも付け足した。ヴァルターは黙って空を見る。

「私の言葉は本音よ、本当に本音。だけどちゃんとあなたのことを愛してる。ただそれだから一つ確認があるんだけど?」
「確認?」
「シルビアさん。なんでもないのよね?」
「なんでも?」
「あなたの気持ちの一パーセントでも持っていっているなら許さない」
「ないない」

 ヴァルターは首を振る。エルザは半眼になってヴァルターを見詰める。

「でもあの人の視線、表情。どう考えてもあなたのことを好きよ?」
「それは俺にはどうにもできないことだけど、少なくとも俺の気持ちは君にしか向いてない」
「知ってるけど」

 エルザは腕を組む。

「私よりも長い時間一緒にいる相棒の一人なんでしょ、シルビアさん。嫉妬するくらいは許してよね」
「ヤキモキする理由はないと思うが」
「あなたのことは信じてる。だから心配はしてない。でもね、それとこれとは全く別の次元で、イライラするのよ」

 ヴァルターにはその機微はわからない。しかしエルザが確かに少し苛立っているのは感じていた。

「私も戦闘機に乗れたらなって思うわ」
「俺は乗せたくないけどな」
「そういう話じゃないって言ってる」

 エルザは憤然として腕を組み直す。

「でもあなたの不器用さと正直さと実直さはよく知ってる。そうじゃなかったら今頃修羅場よ」
「怖い怖い」

 ヴァルターは努めて軽い口調で応じる。エルザは肩を竦めてヴァルターに背を向けた。

「冷えてきたわ。入りましょ」
「ああ」

 ヴァルターは立ち上がる。エルザは小さく振り返る。

「私ね、怖いんだ。ある日突然、さよならも言えずにお別れする日が来るんじゃないかって」
「そんな日は来ない」
「それはあなたの願望よ、単なる希望なのよ、ヴァリー。誰のところにも死は突然落ちてくる。事ここに至ってはね」

 ぴしゃりと現実を突きつけるエルザに、ヴァルターは沈黙する。

「戦争、終わらないかな」

 エルザはそう呟くと、一足先に室内に戻っていった。

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