ハーディが円卓中央に浮かび上がらせたデータは、ヴェーラやレベッカにとっては決して喜ばしくはないものだった。半年前の士官学校襲撃事件の際に発動したセイレネス・システムの影響が各地にて観測され、その上、今なお漸次的に拡大しているというものだった。
その影響とは、人々の精神に発現したマイナスの現象だ。幻覚や幻聴、高揚感、異常な興奮状態――それに励起させられた犯罪行為の数々。それはあの日を堺に明らかに有意に増えていた。今でこそだいぶ落ち着いているが、それでも高止まり、というのが正しいところだろう。
ハーディは資料を次々と展開しながら、淡々と説明を続けていく。
「これは誤差の範囲を逸脱した、いわば明らかな異常値であり、セイレネスとの関連性が強く疑われます。もっとも、セイレネスに関する事象は公にはされてはいませんが。しかしながら、ブルクハルト技術大尉、ゲルファント分析官らの見解は一致しています。すなわち、セイレネスがそうさせている、と」
ハーディの鋭い眼光がヴェーラとレベッカを射抜く。
「異常行動ですが、捕えたサンプルの脳波に異常が見られました。いずれも極度の興奮状態にあり、しかし、非覚醒状態を示す――。つまり、脳波的な観点から言うならば、眠りながら暴れていた、という状態です」
「眠りながら暴れる?」
ヴェーラが恐る恐る口を挟む。ハーディは「脳波としては」と応えた。
「しかし、彼らは外見的には覚醒状態にあったという報告が複数ありました。が、それらサンプルもまた、医療機関でチェックを受けたときもなお、非覚醒状態であったということです。明らかに意識があるように見えていたにも関わらず」
「ゾンビか操り人形みたい、な?」
「そうです、グリエール」
ハーディが頷く。
「また、彼らの経過観察の際に、その多くのケースにおいて禁断症状のようなものが見られました」
「禁断症状って、セイレネスのですか?」
レベッカが震える声で尋ねた。ハーディは「イエス」と短く応じる。
「そして中央政府はこの情報を最大限の秘匿情報と決定付けた。真実がどうかはともかくとして、これは事実です」
「調査部も裏付けをとった。精査済みだ」
エディットが補足する。そしてエディットはまた、これらの情報の源流がイスランシオ大佐だということも知っている。イスランシオが方々の企業や研究機関のネットワークに対して危険なダイブを繰り返して情報を盗んできたのだ。
「そんなことがセイレネスにできるっていうこと?」
「そうだ、グリエール。だが、お前たちが何かを間違えたというわけではない。アレはそういうものだということだ。あの時は制御装置を適切に働かせる余裕がなかった。だから、こうなった」
「適切な制御装置……?」
カティが険しい表情を見せる。あの夜のあの光は、なんの制御もされずに放出されたものだった。だから、人々に大きな影響を与えた?
「それなら、今は? 今の訓練で使っているシミュレータの影響は?」
「ない」
エディットが短く応じた。そしてハーディに視線を飛ばす。ハーディは頷くと、また三次元映像を切り替えた。
「シミュレータおよびシミュレータルームには、対セイレネスフィールド、通称オルペウスが張り巡らされています。セイレネスが外部に及ぼす影響は極めて限定的です」
「襲撃事件の時は、侵入者を駆逐するためにそのオルペウスを解除していたということですか?」
レベッカが訊くと、ハーディとエディットは同時に頷いた。エディットは補足する。
「フェーン大佐の意図を汲んで、ブルクハルト大尉がオルペウスを完全にオフにした。ブルクハルト曰く独断だとのことだが、まぁ、その真偽はどうでもいい。結果は全てが起こりうる未来の中で最も良い方向に向かったのだから」
「良い……」
カティは眉根を寄せる。エディットは慌てた様子もなく「最良だ」と言い切った。カティは苦労して唾を飲み込み、テーブルの下で拳を握りしめた。
その時、カティの意識の中に、あの夜の映像が突如流れ始める。
空、戦闘機、エレナ――。
敵、対空機関砲、応射――。
敵機、星、そして、撃墜――。
対空射撃、退避、上空へ。地面への旋回、対地攻撃――。
発光。オーロラグリーンの輝き。
沈黙。
記憶の連続写真が唐突に終わる。
思い出せない。あの光を見てから先、アタシはどうしていた? どうやって帰ってきた?
「ああ、そういうことか」
カティは思わず声に出した。エディットの機械の視線が鋭く動く。そのあまりの無機的な鋭さに気圧されて、カティは思わず息を飲む。そんなカティの方を見て、ヴェーラが「思い当たることがあるの?」と、震える声で尋ねた。カティは観念して頷き、ハーディ、そしてエディットに視線を動かす。
「自分の場合も意識の活性化があったと思われます。興奮状態だったのかもしれないです」
「……続けて」
エディットは円卓の天板を人差し指でコツコツと叩いた。
「はい。自分はあの光を見てからの記憶がありません。病院で目を覚ますまで。全く無いんです。ですが、光を見てすぐに気を失ったなんてことはあり得ないです。なぜなら眠った状態で、しかも自動操縦にも切り替えてもいない状態で、隣の基地まで飛んで着陸なんて、できるはずがないからです」
「そうですね」
ハーディが頷き、エディットに何やら耳打ちする。
「なに? ログを手に入れられたのか? どうやって情報部から」
「あの手この手ですよ、大佐」
ハーディは凄みのある微笑を見せ、エディットは愉快そうに唇を歪めた。ハーディは眼鏡の位置を直してから解説を続ける。
「ともかくこのログには管制と彼女との交信記録もある。記憶がない時間の出来事です」
「それで、ハーディ。ゲルファント分析官はなんと?」
「初めての戦闘、しかもサポートなしでの夜間空戦の直後に、こんな音声波形になるのは考えにくい。エースパイロットが訓練飛行を行った後とほとんど同じ程度の興奮状態でしかない。つまり恐ろしく冷静であるとのことです」
ハーディの視線がカティを捉える。カティは思わず唾を飲み、背筋を正した。
「着陸制動も極めて精確で、担当した管制官は教官が乗っているものだと信じていたようです」
「なるほど、な」
エディットはゆっくりと腕を組んだ。機械の瞳が渇いている。瞬きを忘れるほど集中して思考している証拠だ。
「それはセイレネス由来だという確たる証拠はあるか、ハーディ」
「中央司令部のデータベースの中にあったデータによれば――」
「……危険な真似をするな。調査部ですら二の足を踏んだんだぞ」
「次からは気を付けます」
ハーディはしれっとした顔でそう言い、エディットは「やれやれ」と少し表情を緩めた。
「それに大佐。本件、アダムス中佐の第三課も動いています。無論、歌姫計画を潰すためです」
「あいつには出し抜かれたくはないが、しかしハーディ」
「イスランシオ大佐の協力もあります。心配要りません」
「君の人脈構築力には脱帽する」
エディットは「もう何も言うまい」と額に手をやった。ハーディは満足げに頷くと、また眼鏡の位置を直した。
「カティ・メラルティンが昏睡状態にあった時の脳波を取得しました。結果、あなたは」
ハーディの視線が再びカティを射抜く。
「あなたはあれ以来ずっと覚醒状態にあったといえます。一ヶ月たってようやく影響から脱し、ようやく非覚醒状態に移行することができた。脳波からすると、あなたはずっと興奮状態にあったと言えます」
「交信では冷静だったとのことだったが?」
エディットが尋ねると、ハーディは頷く。
「通常であれば、その興奮状態がそのまま表出します。が、彼女の場合はそうではなかった。強靭な精神力で抑え込んでいたか、或いは何か特殊なものがあるのか。その両方か」
「アタシ……自分にはそんな」
「そうかな」
カティの反論をエディットは一言で封じ込める。
「だが問題はそこではないな、今は。君が興奮状態にある、覚醒状態にある、そうであったにも関わらず、君はその間の記憶がない。実際に目で見た限りは意識もなかった」
エディットが面々を見回す。ヴェーラとレベッカが頷いた。
「こと、戦闘機から降りて搬送されるまでの記憶がどうしても思い出せない。だろう、メラルティン」
「は、はい」
「セイレネスには記憶を消す力があるのかもしれない」
「記憶を?」
思わずレベッカが口を開く。ヴェーラは心配そうな顔でカティを見た。
「実際に――」
ハーディが映像を切りながら言った。
「犯罪を犯した者たちも、その前後および当時の記憶が非常に曖昧です。酩酊状態にあったかのようです」
「それがセイレネス・システムによって……?」
ヴェーラの声がかすれている。レベッカは所在投げに指を組み合わせては離している。
カティはエレナのことを思い起こしている。記憶から、いや、世界から消されてしまった親友。今やカティとヴェーラ、レベッカの中にしか存在しない親友だ。何が起きたかわからない。しかし、あるとすれば確かに正体不明の力、セイレネスによるものなのかもしれない。
「わたし……そんな事してない」
ヴェーラの言葉にエディットは目を細める。感情の読み取れない表情だ。
「あの時はアレが最良の選択肢だった。さもなくば歌姫もろとも失われていただろう。その結果、副作用のようなものがあったとしても、それはやむを――」
「やむを得ないで人の記憶を消すとか、犯罪が増えるとか、そんなの、そんなの嫌だ」
ヴェーラが前のめりになって言った。
「セイレネスが人を殺す兵器になることは知ってる。兵器だから。知ってる。だけど、そうじゃない人たちにそんな意味の分からない影響を与えるものなんて、わたし、使いたくない! なんで? なんでセイレネスを使うと犯罪が増えるの? どうしてカティの記憶が消えたの? エレナだってなんの痕跡も遺さずに消えちゃった。そんなおかしなことがある? そんなおかしな兵器がある?」
「黙れ、グリエール!」
エディットは力任せに円卓を叩いた。広大な部屋中に音が響き渡り、参謀部所属の軍人たちは一様に動きを止めた。室内で涼しい顔をしていたのは、ハーディ少佐ただ一人だ。
「グリエール、貴様は何を勘違いしている。貴様は言われたとおりにやれば良い。歌姫としての仕事を全うしろ」
「イヤだ!」
ヴェーラは立ち上がって首を振った。白金髪が不規則に乱れる。
「わたしの役割、わたしの仕事、そうは言うけど! 何千人も何万人も殺し得る兵器を使うことになるわたしに、これ以上の責任なんて取れない!」
「貴様が責任を取る必要などない!」
激昂したエディットの声に、ヴェーラも思わず怯んだ。その後ろを支えているレベッカは既に泣きそうな顔をしている。
「我々とて、非戦闘員、まして自国民に負の影響を与えるような兵器など、そのまま実用に持っていくつもりなどない! そしてそれは貴様の関知、関与するところではない! しかし、貴様らの使うセイレネスは、卑劣なアーシュオンに対する反撃の狼煙にのなり得る。やられっぱなしではないのだと――」
「そんなことどうだっていい!」
ヴェーラが吐き捨てる。
「殺し殺され、やられたからやりかえして、そんなこといつまで続けるの! 確かに八つも街を破壊されたよ。何百万人の被災者が出たよ。やりかえしたいのはわかる、わかるけど! やられっぱなしじゃいけないのはわかる、これ以上アーシュオンにやられたくないのもわかる! だけど!」
「私も想いは同じだ、グリエール。だが、力は見せなければ意味がない。掲げなければ矛にも盾にもなり得ない。そのためにも」
「――百万人殺せば良い?」
ヴェーラの声の温度が急激に下がる。
「あんなわけのわからない力で、百万人殺してみせれば良い?」
「ヴェーラ、落ち着こう?」
背中から抱きしめるレベッカの頭を軽く撫で、ヴェーラは首を振る。
「でも、イヤだ。セイレネスなんて使いたくない」
「わがままを、言うな」
「わがままじゃない。こんな訳のわからないものの片棒を担いで、なんでもない人たちの生活を壊すのは嫌だ。運命を捻じ曲げるのはゴメンだ!」
「それもまた運命」
ハーディが冷たい声で言った。ヴェーラはキッとハーディを睨みつける。ハーディは冷たい表情のまま、鋭い口調で言う。
「冷静になってください、ヴェーラ・グリエール。アーシュオンの超兵器を遥かに凌ぐ性能を見せられれば、戦争状態は一時的に停止するでしょう」
「その見立ては正しいんでしょうか」
カティは座ったまま、少し固い声音で言った。
「超兵器に対するセイレネス。それと同様に、カウンターセイレネスのような兵器が出てこないとも限らない」
「その可能性は否定できません」
ハーディは淡々と応じる。
「しかしそれならばこそ、セイレネスをより高度化していく必要があります。そのためにはヴェーラ・グリエール、レベッカ・アーメリング。あなたたちの協力が不可欠なのです」
「それはヤーグベルテの国家国民のためだ」
エディットが言うと、ヴェーラは首を振る。
「そんなの、おためごかしだ!」
「事実だ……!」
「国家国民のためにわたしに人を殺させる。国家国民のために人々を苦しめる。国家国民のために、軍のみんなに死ねと言う!」
「戦争だ、それが。それが戦争をしている国家の実態だ」
「ばかみたい!」
ヴェーラの絶叫が響く。エディットはゆっくりと立ち上がって、軍靴の音を響かせてヴェーラの前まで移動してくる。
「!」
バチン、と鈍い音が響いた。カティは目を見開いて、エディットの振り抜かれた右手と、頬を押さえるヴェーラを視界に収めていた。ヴェーラを後ろから抱きしめるレベッカもまた、呆然としていた。
「わがままを、言うな」
エディットはそう言うと踵を返し、部屋の奥にある執務室へと向かってしまった。
「今日は解散。大佐には私から伝えておきます。レーマン大尉、お願いします」
ちょうど円卓に向かってきていたレーマン大尉に声を掛け、ハーディもまたエディットの消えた部屋へと移動していった。レーマン大尉は「やれやれ」と呟きながら、ヴェーラたちに移動を促した。
「わたし、わたしは……」
「ヴェーラ、まずはうちに帰りましょ」
「うちって、エディットの家じゃないか」
「それでも、私たちの家よ」
レベッカの言葉に、ヴェーラは渋々頷いた。
「わたし、今夜はエディットと喋らないから」
ヴェーラは泣いていた。叩かれた頬を赤くしながら、ポロポロと泣いている。
そんな二人を見て、カティは無力感に苛まれていた。気の利いた行動も、気の利いた声掛けもできない。エディットの言うこともわかる。ヴェーラの言うこともわかる。だからこそ、どうしたらいいのか、わからなかった。
「ヴェーラ」
カティは考えるより先に声に出していた。その声は掠れていて、ひどくみっともなく思えた。
「エレナは……生きているんだ」
「カティだから、だよ」
ヴェーラの空色の瞳が、カティを映している。
「ヤーグベルテの人たちは、カティじゃないんだ」
「それは……」
「おしまいにしよ」
ヴェーラは頬に触れながら眉尻を下げた。その目尻からはまだ涙がこぼれている。
「カティがわたしを大事に思ってくれてるのは分かってる。カティがわたしのために苦しんでくれてるのも理解してる。カティがわたしを知ろうとしてくれいるのも知ってる。カティとベッキーは、永遠にわたしの味方なんだって、わたしは確信してるんだ」
「ヴェーラ……」
カティは何を言ったら良いのかわからなくなった。
「だけど、わたしにはわたしの正義があるんだ」
ヴェーラはぽつりとそう言った。