闇の中で途方に暮れているレベッカは、何かに呼ばれたような気がして周囲を見回す。しかし自分以外には何も見えない。
「お姉さま」
脱出方法を思案し始めたレベッカの背後から、はっきりとそう呼びかける声があった。驚いて振り返ったレベッカは、あまりに近くに立っていた黒髪の少女に驚いて三歩も後退した。少女は深すぎる闇色の瞳を細め、長い髪をほのかに揺らしてレベッカに近付いてくる。
「あなたは、だれ……?」
「マリア」
レベッカの問いに短く応えた少女――マリアは、少し思案して続けた。
「マリアと、呼ばれています」
これはいったいどういう状況なのだろう? レベッカはマリアを見つめながら思案する。マリアはニコニコとした表情を浮かべていたが、何を考えているのかがまったく読み取れない。それがレベッカをたまらなく焦らせる。
マリアと名乗るこの人物は、背格好はレベッカとそっくりだった。年齢もさほど違わないだろう。そして何より、ヴェーラに似ていた。似ていると言っても、髪の色も瞳の色も顔立ちも違う。だが、確かにヴェーラと同じ匂いを感じる佇まいだった。特に時折ヴェーラが見せる冷めた目の持つ力と、マリアの持つ得体の知れない力は、そこはかとなく類似していた。
そして何よりも、この空間にいるのだ。自分たちとは、歌姫とは無関係な人物だとは思えなかった。レベッカは幾分かは落ち着いてきた頭脳で、状況を分析し始めている。
「マリア……?」
「はい、お姉さま」
「あなたはどうやってこんなところに?」
「侵入してきただけです。セイレネスのシステムである以上、私たちはどこへでも行くことができますよ。ですから私、お姉さまにお会いしたくて、こうしてやってきたんです」
「意味がさっぱりわからないわ」
レベッカはマリアの一足飛びの回答を聞いて眉根を寄せる。マリアはニコニコとその様子を見ていた。それに気付いたレベッカはたまらず半歩下がる。しかし、マリアはまだ微笑んでいる。マリアは詠うように告げる。
「セイレネスという檻、囚われた魂、創発した意識――それがOrSH」
「オーシュ?」
「私たちの創造主は、響応統合構造体と説明してくださいましたけれど、それがすなわち何なのかは、私も存じません。でもね、お姉さま。そもそも自分自身が何であるかを知っている人なんて、本当に……ひとにぎり? いえ、ひとつまみもいないかも知れませんね。だからこれで良いと思いませんか?」
その言葉に、レベッカは思わず腕を組み顎をつまむ。眼鏡の奥から鋭くマリアを観察する。しかしマリアはその視線を気にすることもなく、純真無垢の微笑みを見せていた。
「釈然としませんか?」
「え、ええ。わからないことが多すぎて――」
「わからないこと?」
マリアはレベッカに顔を近づける。ともすれば唇がふれあいそうなほど。そしてマリアはレベッカの背に手を回し、見た目にそぐわぬ力で抱きしめた。マリアの吐息がレベッカの耳朶に吹きかかり、レベッカは息を飲む。意思に反して心拍が増したのがわかる。頭の内側が脈打ち始めたようにも。
「や、やめて……」
「お姉さま」
マリアは構わず囁きかける。レベッカはまるで高熱に侵されたかのように喘ぐ。
「お姉さまは、両親のことを記憶している?」
「えと、私は孤児で――」
「だったら、その頃の記憶は? 確かな記憶はある? どこで育ったの? ともだちは? ヴェーラお姉さまとの出会いは?」
「……えっと」
そんなはずがない。記憶はあるはずなのに、ひどく靄がかかっていて読み取ることができない。確か八歳くらいまで孤児院にいて、それからは軍の教育機関で――。
「その機関って何? どこにあったの? 具体的に何か一つでも思い出せる?」
その穏やかな詰問に、レベッカは応えられない。心拍と呼吸数が必然的に増加する。マリアの唇が耳に触れる。そして吐息が首筋をなぞっていく。
「やめ、て」
「お姉さまは、ほんとうは自分の年齢もご存知ないでしょう?」
「そんなこと」
あるはずがない。
レベッカはそう言ってから混乱した。思い出せないのだ。何年に生まれたのか。誕生日はいつなのか。
記憶のようなものが波のように引いていく。蜃気楼のようにおぼつかない。
「何をしたの、マリア、あなたは」
「なにも?」
マリアはレベッカを強く抱きしめる。レベッカは身体に力を入れられずなされるがままだった。
「お姉さまの内側にあるものは、最初からこう。私と同じ。それだけの話」
「意味が――」
「わかるはずですよ、お姉さま。お姉さまが自分自身だと信じているお姉さまは、果たして本物なのかしら? その姿は、皆が思いこんでいる、或いは望んでいる姿かたちを模倣したものにすぎないのではない? 皆の思うお姉さまに、お姉さま自身が応えようとしているだけなのではなくて?」
「期待に応えようとするのは当然じゃない? だって、それが――」
「演者の役割」
その言葉にレベッカは呼吸を止める。ヴェーラの言葉が蘇ったからだ。
「お姉さまは、それならば何処におられるのです?」
「えっ……」
「有象無象からの期待、ご自身の描く理想像。その中心に、お姉さま自身はたしかにおられるのですか? それらを取り除いたら、何か残るのですか? 何を遺せるのですか?」
マリアはレベッカの額に自らのそれを合わせる。レベッカの頬が赤く熱を持つ。鼻の頭が触れ合うその距離で、マリアは囁く。
「何ひとつもオリジナルを持たない、贋作にも等しい被造物」
「贋作……!?」
「ただ在ることに意味があるだけの、隙間を埋めるためだけの物。ゼロに等しいもの。そしてそれはすなわち神の素材」
レベッカは混乱する。眼の前のマリアの、あまりにも深すぎる黒い瞳に飲まれている。そこに映る自分の姿がいっそ滑稽だった。
「私たちは神にもなり得る存在。私たちオーシュは皆、純粋なのです。であるからこそ、私たちの経験は、記憶は、この先の世界を占うものとなるのです」
「マリア、あなたはいったい、何なの? それにさっきからお姉さまって、いったいどういう――」
「あなたは私より先に生まれた。歌姫のオリジナル。ヴェーラお姉さまとともに、最先として。そして私は最後として。ゆえに、私にとってはあなたはお姉さま。論理的に間違えていないでしょう?」
マリアはそう言うと、ようやくレベッカの身体を解放した。そして数歩下がって今度はその両肩をつかむ。
「お姉さまは、自分自身を傷つけるようなことができますか?」
「自分を傷つける?」
「そう。死に至る傷をつけられますかと訊いています」
マリアの動脈血色の唇が、完璧な微笑みを描く。
「あ」
マリアは不意に視線を天頂方向に向けた。
「時間切れみたいです、お姉さま。ごきげんよう。また会いましょうね」
「待って、マリア!」
レベッカはマリアを捕まえようと手を伸ばす。が、その手は空を切る。マリアの姿が透明になっていく。マリアは微笑んで言った。
「私は何があってもお姉さまがたの味方。私にも私の役割がある。でもそんなことはどうでもいいんです。私はお姉さまがたの味方。私の血はもしかすると毒かもしれない。けれど――」
そこでマリアの姿が完全に消えた。レベッカは再び闇の中に取り残される。
「私は……何なの……?」
途方に暮れて呟くレベッカの周囲の闇が祓われていく。あまりの眩しさにレベッカは目を開けられない。
『君たちはね、喩えるなら光さ』
突然、若い男の声が聞こえてきて、レベッカは身体を強張らせた。視覚は未だに死んでいる。
「だれ……?」
『いうならば、僕は君たちの創造主さ』
「まさか――」
『僕が誰であるかなんて些末な問題さ。君は歌姫にして、ディーヴァ。その事実だけがあればそれでいい』
男は淡々とそう告げた。そして――。
『その時はまだ遠い。君はしっかりと役割を全うしてくれればいい』
「役割……?」
『ヴェーラのフェイルセイフとしての役割を、だよ』
「フェイルセイフ……」
レベッカの口の中はカラカラだった。ただひたすらに眩しい世界の中で、レベッカは彷徨っている。
「私はいったい何なんですか」
『光だと言っただろう? 僕は闇の世界でこう呟いたんだ。光あれとね。そうしたら君たちが生まれた。そう、新たなる創世は君たちから始まったんだ』
男の声からはなんの感情も伺えない。ただ事実を述べている、レベッカにはただそれだけのように感じられた。
『さぁ、そろそろヴェーラが痺れを切らしている頃だろう』
「待って! ジョルジュ・ベルリオーズ!」
『ほぅ?』
その呼びかけに、男は興味深げに反応する。
「あなたなのでしょう、ジョルジュ・ベルリオーズ。こんなことができるのは、ジークフリートの裡でこんなことができるのは――」
『そうかもしれないね。でも、今の君たちが知る必要のない情報だよ』
その声は無表情にそう言うと、まるで部屋の灯を消すくらいの手軽さで、レベッカの意識を元の世界――暗い筐体の内側へと押し戻した。
『ベッキー! ベッキー、聞こえる? 教官、ロックはまだ開かないの!?』
ヴェーラの声が聞こえた。その聞き慣れた声に、レベッカはようやく安堵の息を漏らす。帰ってこられたということ以上に、ヴェーラにまた会えるということが嬉しかった。
「ベッキー!」
筐体が開き、ヴェーラが顔を覗かせる。レベッカは目を細めて、その美しい白金の髪の持ち主を眺めた。
「だいじょうぶ!? 何かおかしいことない? 平気!?」
「え、ええ。だいじょうぶ、みたい。ちょっと頭がぼんやりするくらい」
「すぐ医務室に行こう」
「その前にちょっとだけ休ませてもらっていい?」
筐体から出て、レベッカは壁に寄りかかった。隣に立つヴェーラの肩に頭を乗せる。
「心配かけてごめんなさい」
「きみが何かしたわけじゃないでしょ」
「そうだけど」
「ま、いいよ。きみはすぐ謝るけど、わたしは嫌いじゃない。でもさぁ」
ヴェーラはレベッカの髪を撫でながら言う。
「謝るのはわたしにだけにして。他の人にまでそうやる必要はないよ。きみはきみを安売りしすぎるんだ」
「そんなことないつもりだけど」
レベッカは反論しかけて口を噤んだ。意識がふわりと遠くなった。
「ベッキー!?」
危うくヴェーラに抱きとめられて、レベッカは床に転がらずに済んだ。
「だいじょうぶ……?」
「すごく眠くて」
「じゃぁ、すぐ帰って休もう。教官、お願いします」
ヴェーラの声を聞きながら、レベッカは意識を手放した。