ナイアーラトテップを撃沈した海域は荒れに荒れていた。だが、そこに放射線は検知出来なかった。エディットが身を乗り出してモニターを睨む。
「……本当にないのか?」
「ええ、大佐。間違いありませんね。少なくとも有害と言える量ではありません」
「どういうことだ? 核弾頭は起爆しただろう」
「しましたね」
ブルクハルトはすっかり冷えてしまったコーヒーを飲みながら考える。
「セイレネスのエネルギー変換の中に放射線自体組み込まれた、と考えるのが良いかもしれないですね」
「そんな事ができるのか」
「セイレネス・システムは、エネルギー変換方程式の一つの形態です。おそらくですが、およそあらゆるものを分解、再構築してエネルギー化することができるはず」
「そ、そうなのか」
「恐ろしい兵器です」
ブルクハルトは頷く。
「E=MC^2なんていう有名な式がありますが、それですよ、セイレネス・システムの内側にあるものは」
「……すまん、物理学はさっぱりなんだ」
エディットは肩を竦めてみせた。そして空になったカップを恨めしそうに覗き込み、椅子に腰を落ち着ける。
「クラゲ一匹粉砕。一匹も逃げ始めている。戦果としては――」
しかし、万が一にも撃破に失敗していた場合、ヤーグベルテ海軍は今度こそ壊滅していた。アダムスという男は、なるほど確かにしたたかだ。とんだ勝負師だ。
「巻き込まれるこっちとしてはたまったものではないが」
それにしても今回の手柄は、アダムスの総取りになるだろう。セイレネスの有用性を証明したという実績でもあるからだ。
忌々しい!
エディットは唇を噛みしめる。機械の瞳は乾いている。このままいけば、セイレネスの監督権さえ奪われかねない。そうなれば、ヴェーラやレベッカの扱いも変わるだろう。アダムス麾下なんてことになれば――。
『大佐』
上のスピーカーからハーディの声が降ってくる。
『第三課アダムス中佐より作戦変更の連絡が』
「作戦変更……?」
『ナイアーラトテップはもう逃して良い。攻撃目標をただちに敵第四艦隊に。殲滅せしめよ、とのこと』
「この期に及んでこれ以上すると?」
『残念ながら、私もアダムスの野郎の判断は正しいと考えます』
ハーディの感情のこもっていない声が伝わってくる。
『あの男の実績が積み上がるのは癪ですが、ここは一つ大勝利に大勝利を重ねなければ、我が国は持ちません』
「わかっている、ハーディ少佐」
エディットは右手を握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
「グリエール、アーメリング」
『大丈夫、わかってるよ、エディット』
『ええ』
二人が即座に応答してくる。
『やればいいんでしょ、敵の艦隊』
「グリエール……」
エディットは立ち上がり、窓辺に寄った。その下には二つの黒い筐体が鎮座している。
『わたし、これから人を殺すんだよね。アーシュオンの、大勢の人を』
「そうだ」
ノーとは言えない。エディットは鋭く肯定した。そこにレベッカが言う。
『艦隊戦、というわけにはいかないんでしょうね』
「ああ。セイレネスでなければ、いや、この言い方は卑怯か。お前たちがやらなければ意味がない」
『クロフォード准将の第七艦隊、カティのエウロス飛行隊。みんな、撒き餌代わりってわけだ』
ヴェーラの言葉にエディットは沈黙する。なんと言おうと単なる釈明にしかならないし、ヴェーラたちはそんな言葉を求めているわけでもないと、エディットは知っていたからだ。そしてそれ以上の言葉を発する権限は、エディットにはないのだ。
『……わかってるよ、エディット。だいじょうぶ、ちゃんとやる』
『ヴェーラ……』
『ベッキー。わたしたちが今できることってなんだと思う』
ヴェーラの問いかけに、レベッカは迷う。その間にも時間は少しずつ流れていく。
『わたしたちは、数ヶ月間の平和を作ることができる』
『敵を完膚なきまでに叩き潰せば、ということね』
『そう、その通り。敵はわたしたちという脅威に尻込みし、研究し、その間、大きな戦闘は起こせない。わたしたちがこの手を汚せば、それだけでそれが叶う』
たかだか数ヶ月。しかし、それはヴェーラたちが望んで手に入れられる平穏な期間だ。戦闘を起こすことの出来ない期間が、確実に生まれるのだ。
そう考えれば――ヴェーラは暗闇の中で両手を握る。今、物理的に、レベッカと手を握りあえていたらどれほど心強かっただろう。そんなことを考える。
そもそも先に民間人を大量に虐殺したのはアーシュオンだ。殴られることのない位置から、ヤーグベルテの人々を苦しめたのはアーシュオンだ。彼らや、その家族の無念。晴らせるのはわたしたちだけ。ヴェーラは首を振る。
それは傍目にはただの復讐の連鎖かもしれない。それはとても不毛なものなのかもしれない。でも。でも。でも――。
わたしがいまから殺すのは軍人だ。民間人じゃない。アーシュオンのしてきた無差別殺戮とは違う。わたしたちを殺しに来ている人たちを迎え撃ち、殺して何が悪いというのか。責められるべきいわれはない。自責の念に駆られる必要もない。
ヴェーラは目をきつく閉じ、意識を再びセイレネスに戻す。戦闘海域上空に出現したヴェーラは、敵と味方の位置関係を素早く確認する。
『ベッキー、やるよ。いい?』
『ヴェーラ、弾道ミサイル、防御用に取っておいたのが五つ余ってる。使うわ』
『……わかった』
ヴェーラの重たい口調がエディットに突き刺さる。嗚咽して泣きたいほど胸が苦しかった。だが、エディットは毅然とした表情を崩さず、艦隊からの映像を凝視していた。
『エディット』
「どうした、グリエール」
『わたしたちが殺すのは、敵。で、いいんだよね』
「ああ」
短く応じるエディット。ヴェーラは「わかった」と短く答えた。それ以上の言葉が出てこなかった。
『ベッキー、ミサイル一発で事足りる。四発は温存』
『了解、一発、コントロールは』
『わたしは旗艦を狙う。ベッキーは防衛と同時に周辺の有力艦艇を狙って』
『了解、従います』
ベッキーに人は殺させない――ヴェーラは奥歯を噛みしめる。
わたしだけが耐えれば良い。苦しかったらベッキーに癒やしてもらえれば、それでいい。ベッキーが苦しむ姿なんてわたしは絶対に見たくないから。
人を殺す。
私の力が、人を殺す――!
「ヴェーラ・グリエール、レベッカ・アーメリング」
エディットはヴェーラの心を読むことはできなかった。だが、エディットの経験が、彼女にヴェーラの思考を理解させていた。
「誤解するなよ、ふたりとも。お前たちのセイレネスを通じた作戦の全ては、この私、エディット・ルフェーブルの責任の下で行われている。敵艦隊を壊滅させろ。これは私からの命令であって、お前たちの意志など無視したものだ。罪はお前たちの上にはない。神に罰される者がいるとしたら、それは私だ」
『ありがとう、エディット。大丈夫。わたしたちは大丈夫。戦争の中では、正しさなんてどこにもない。どれも正しいし、どれも間違えている。でもね、わたしたちはまだ恵まれているんだ』
「恵まれている……?」
意外な言葉にエディットは動きを止める。ヴェーラは言う。
『わたしたちは自分の意志で自分の手を汚せる。罪をごまかせない。呪詛から逃げられない。何も知らないまま殺し合いをさせられるわけじゃない。何も知らないままに殺されてしまうわけじゃない。だから――』
ヴェーラは言葉に詰まる。
エディットは数秒の沈黙の末に、言葉を絞り出した。
「頼む、ヴェーラ、ベッキー……」
この作戦が終わったら、思い切り甘えさせてあげなきゃならない。
エディットは力なく椅子に戻った。