不思議な感じだ。
ヴェーラは味わったことのない感覚に戸惑っている。セイレネスの起動自体はいつもどおりに実行できた。シミュレータ訓練や実戦補助の経験値の賜である。
しかし、起動してからの感覚は、今までとはまるで別物だった。今までがノイズ混じりの無線を使ってセイレネス・システムとコミュニケーションをしていたのだとしたら、今はまるで対面で会話しているかのようにクリアだった。感覚的な距離が非常に近い。今なら何でもできるんじゃないか――そんな万能感さえ感じられる。
今、ヴェーラは「コア連結室」と呼ばれる暗い部屋の中に独りでいる。半径三メートルほどの半球状の部屋だ。光源といえば、システムの稼働状況を示す緑、赤、橙の小さなライトの明滅だけだ。室内にはヴェーラの呼吸音以上の音はなく、また、海上にあるというのに揺れの一つも伝わってこない。
室内には大きめのリクライニングチェアが置かれていて、ヴェーラはそこに座っていた。完全に身体が隠れてしまうような作りとなっているその椅子の肘掛けから、白い指が覗いている。ヴェーラはゴーグルを着用していた。そのゴーグルはかなりゴテゴテとした重量のあるものではあったが、リクライニングチェアに接続されているためにヴェーラが感じる重量的負担はほとんどなかった。
意識が――。
ヴェーラは眠気にも似た感覚を振り払う。システムのアクティベーションに応じるように、真っ暗だった視界が徐々に開けていく。視覚を中心に、全身の感覚が戦艦メルポメネに搭載されたレーダーやカメラとリンクしていく。そのあまりの情報量と精度に、ヴェーラは圧倒され、軽く酔った。訓練ではここまでの負荷を感じたことはなかった。後方と前線で、ここまで違いがあるのかとヴェーラは妙な感心をする。
そこでヴェーラは音に気が付いた。まるで心臓の鼓動のように一定のリズムがあり、そこに特に意味を感じない低音が乗っていた。その低音はヴェーラの脳を揺らすほどの圧力を持っている。そしてその低音は、ヴェーラの意識を鋭く鮮明にしていき、それまで存在していた微弱なノイズたちを駆逐していった。呼吸や心拍すら、そのリズムに、音に同期していっているような、そんな感覚だった。
「どうしてわたし、ここにいるんだっけ?」
なんでこんなふうになっちゃったんだっけ?
最初がわからない。思い出せない。
ヴェーラは低音に身を任せながら、薄れていく意識のノイズを引き戻す。
マリア?
マリア。ヴェーラはその名前を唐突に思い出す。かつてレベッカが口にした人物の名前だ。
黒髪の――。
ちょっと待って? なんで私、この子を知っているの?
ヴェーラは混乱する。今、ヴェーラの意識の中にはっきりと暗黒の瞳を持った少女の姿が見えたのだ。
だが、次の瞬間にはその姿は雲散霧消してしまう。
って、わたし、今なに考えてた?
ヴェーラの意識がぼんやりしてくる。しかし、ヴェーラを取り巻く状況への認識力は、その解像度は確実に上がっていく。
ヴェーラとしての意識が、自我が、闇の中に落ちていく。しかしそれは心地よかった。音に包まれ、意識が消えていく。眠りに落ちる直前のような、意識の間隙、虚無。
わたし、どこにいるんだっけ。
わたし、このまま――。
その時だ。ヴェーラの意識の中に赤い音が鳴り響いた。ヴェーラは一瞬のうちに覚醒し、状況を解析し始める。視界全体が、海と空が、赤く明滅している。鳴り響く低音のピッチが上がり始めたのを知覚する。
ああ、そうだ。ここは戦艦だ。
メルポメネの中枢部、コア連結室。そこにわたしはいる。
赤く明滅する視界の中に、何十もの青い円が現れた。その円は瞬きする間に増えていく。その円がアーシュオンの航空機たちを表していることに、ヴェーラはすぐに気が付く。
「主目的、敵艦隊の潰滅。二次目的、マーナガルム飛行隊の殲滅」
わたしの任務だ。いや、わたしたちの任務だ。
「ベッキー、行くよ」
『ヴェーラ、だいじょうぶ?』
大切なパートナーが心配そうに応じてくる。
「うん。もうだいじょうぶ。きみは?」
『戸惑ったけど、なんとか。気をつけて、ヴェーラ。このシステムは油断できない』
「そうみたいだね」
ヴェーラは頷いた。今、ヴェーラの意識は、戦艦メルポメネの舳先にある。どうやら戦艦の周囲ある程度の距離のところまで、意識を移動させることができるらしい。慣れれば敵艦隊のところまで行けるかもしれない。
「やるよ、ベッキー」
『ええ』
戦艦メルポメネとエラトーが前部主砲六門を一斉射した。砲弾は一瞬にして砕け、全てがエネルギーへと変換された。それはアーシュオン第四艦隊の前衛部隊、重巡洋艦一隻、駆逐艦三隻を一瞬で粉砕した。攻撃を行ったヴェーラやレベッカをして、「なにが起きたのか」がわからなかったのだ。アーシュオンの兵士たちには、ますますわけがわからなかっただろう。
『次、敵攻撃機! 対空火器の有効射程に入る!』
「オーケー、ベッキー。マーナガルムには注意!」
『対空防御はこっちでやる。ヴェーラ、撃破を』
「了解、防御任せるよ」
軽く百機を超える攻撃機や戦闘機の群れに、ヴェーラは対空砲火を浴びせかける。セイレネスの力の乗った攻撃は、スピードも精度も圧倒的だった。通常の回避行動は意味を為さない。また、ヴェーラの意識の集中力は極限まで高められており、ほとんどすべての敵機の攻撃予測を行えていた。攻撃態勢に入った敵から優先して叩き落とす。ヴェーラにしてみればそれは簡単な作業だった。
レベッカの方は、セイレネスを用いて敵機のシステムへの干渉を中心に実施していた。敵機のシステム防御力は、セイレネスとレベッカの能力の前には紙のようなものだった。照準を奪われ、トリガーを盗まれ、制動能力さえ狂わされる。同士討ち、墜落、自爆――敵は混乱の極致にあった。
たったの一度の攻防で敵機は半数まで減っていた。ヴェーラは迎撃を通常兵器の試作兵器、たとえば粒子ビーム砲や速射式レールガンといったものに任せ、自身はマーナガルム飛行隊の捜索に注力する。
「ベッキー、マーナガルム飛行隊はいた!?」
『今、探してる。撃墜はされてないと思う』
「だよね」
ヴェーラは意識の目をぐるりと動かして最後尾の敵機部隊を把握する。第一回目の攻防を切り抜けた敵機の最後尾を務めていたようだ。白い戦闘機が二機、その後ろにはF221。そしてずっと上空にはもう一機、電子戦機がいるはずだ。間違いない、彼らがマーナガルムだ。
「ベッキー、いたよ。座標送る」
『座標確認。私も確認したわ。白い狼のマーク。記録と照合、ヴェーラ、見て』
「対艦ミサイルを放ってる。三機とも……」
『敵の攻撃能力のほとんどは私が制圧していた。だけど、彼らを始めとする何機かは、私のシステムの干渉を受けつけなかった』
「電子戦機の力かな?」
『だけじゃない気がする』
そうこうしている内に、敵飛行隊がぐるりと空を回って再度攻撃を仕掛けてくる。
「マーナガルムに注力する! ベッキーは他を!」
『了解』
しかし、ヴェーラの攻撃が驚くほど当たらない。先読みが効かないのだ。セイレネスの攻撃はほとんど不可視の攻撃だ。認識する頃にはやられている、という意味で。しかし、マーナガルムの三機はそれを物ともしない。戦闘機二機には対艦攻撃力はほとんどないのが幸いだった。機関砲は無視できないが、それの命中を許すほどの甘い対空弾幕ではない。戦艦の迎撃システム自体、セイレネスなしでも一個艦隊に匹敵するとされている。対艦戦、対空戦ともに圧倒的な性能を発揮する海上要塞、それがこの新時代の戦艦だ。
「カティが強いぞって言うわけだ!」
『ヴェーラ、時間切れ。もう敵機も残弾がないはず。敵の艦隊を狙いましょう』
「あ、そうだね。忘れてた」
『もう!』
レベッカの戦艦エラトーが、戦艦メルポメネに並ぶ。そして速度を上げる。戦艦たちはその馬鹿げた巨体とは裏腹に、駆逐艦をも凌駕する速度を出せる。海を力任せに引き裂きながら突き進むその威容には、アーシュオンはもちろんのこと、ヤーグベルテ第七艦隊や参謀部の面々たちをも驚愕させた。
「ベッキー、モジュール開放。ええと、えーと、なんだ」
『ゲイボルグ。これで行きましょう』
レベッカの落ち着いた声にひきずられるように、ヴェーラも冷静になる。
「モジュール・ゲイボルグ、発動!」
『同じく、ゲイボルグ、発動!』
敵の旗艦は主砲の有効射程まであと二百キロ以上も離れている。だが、二人にはやれる確信があった。
『まず前衛部隊から?』
「いや、旗艦直衛部隊から潰す。一隻も逃さない」
完全なる勝利を挙げなければ、エディットの顔も立たない。
「主砲、斉射!」
ヴェーラの号令と共に、戦艦メルポメネとエラトーの主砲が一斉に火を噴いた。砲弾は瞬間的に姿を消し、代わりに敵艦隊の上空から光の槍を降らせた。
たったの一瞬で十数隻の大型艦が大破、あるいは轟沈した。
『すごい……』
「まさに殺戮兵器だね」
ヴェーラは、自分の心の温度が下がっていくのを感じていた。
上空の見えない敵から、レールガンを撃ち込まれている――そんな敵の通信が聞こえてくる。それはきっと錯覚ではない。
「でも、容赦はできないんだ」
ゴーグルの内側で、ヴェーラの目がギラリと輝いた。