その日の夜、ヴェーラとレベッカは帰宅するなり早々に寝てしまった。帰りの車の中で二人とも半分寝てしまっているほど、疲労が溜まっていたようだ。
「ただいま」
二十二時を過ぎた頃、帰宅したカティがリビングに入ってきた。
「って、あれ? ヴェーラとベッキーは?」
「あら、カティ。二週間ぶりね」
エディットはソファに身体を半ばまで沈めて、半分眠っていた。テーブルの上に置かれたグラスの中のビールからは、すっかり炭酸は抜けてしまっていた。
「二人の歌姫はすっかりお疲れ夢の中。私も今まであっちの世界に行ってたわ」
「そっか。お疲れさま、姉さん」
カティは軍服のジャケットをハンガーに掛け、エディットの隣に腰を下ろした。
「グラスでビールとか珍しいね、姉さん。ちびちびいきたい気分だったの?」
「なんかねー」
エディットは溜息まじりに言う。
「はぁ……溜息ばっかり」
エディットは気の抜けたビールを喉に流し込み、「うぇっ」と不味そうな声を出した。カティは立ち上がるとキッチンへと向かい、ワイングラスと二つと白ワインを持って戻ってきた。
「姉さん、まだ飲める?」
「もちろん。いくらでも飲むわよ、可愛い妹のお酌なら」
エディットは座り直すとグラスを手にして、カティに注いでもらう。ワインの水面をひとしきり眺めてから、二人はグラスを軽く合わせた。
「で、どうしたの、姉さん。溜息多いよ?」
「だってね、今の私の唯一の仕事がね」
「うまくいかない?」
「……せっかちになったわね、カティ」
エディットは遠くを見るような目をして、またゆっくりと息を吐く。カティはワインを一口飲んでから、エディットのその疲れた横顔を見た。
「あんまり溜息ばっかり吐いてると、幸せが逃げちゃうよ」
「迷信深くもなったわねぇ、あなた」
「戦闘機乗りは験担ぎするものだからね」
「私、老けたのかなぁ」
「何言ってんの」
カティは呆れたようにエディットの肩を叩く。
「でもさ、カティ。私の幸せってなんだろうなって思うよ。逃げちゃうような幸せなんて持ってたっけって」
「ひどい話」
カティは幾分気分を害したような口調で言った。
「アタシやヴェーラ、ベッキーがいるのに、幸せじゃないの?」
「あ、いや、そうじゃないけど」
エディットは慌てて首を振る。カティはそんなエディットを優しい眼差しで見つめていた。
「私、顔を焼かれて以来、なんかこうすっかすかなのよ。アンディが生きていればもうちょっと違ったかもしれないけど。だから今、このすかすかな気持ちをあなたたちで強引に埋めようとしている感じがするの。だからかな、ヴェーラたちの『大丈夫だよ』って言葉を聞いたり、あなたの優しい言葉を受け止めたりするたびに、私、胸が痛いのよ」
「酔ってる?」
「酔ってるけど本音。誰にも言わないでね」
「わかってる」
カティはエディットから視線を外し、点いていないテレビを見た。エディットはワインを飲み干してまた溜息を吐く。
「第六課は閑古鳥だから、色々余計な事考え――」
「あのさ、姉さん。今一番欲しいものって何?」
カティはエディットの肩に頬を乗せる。
「酔ってるの、カティ」
「酒に頼ってこんなことはしないよ、アタシ」
カティはそのままの姿勢で言い、「で?」と答えを促した。
「そうねぇ、そう、うん。世界平和、かな」
「ふふっ」
「あ、笑ったわね、カティ。でもこれ、本当のこと。真面目な話よ」
エディットはジト目でカティを見た。カティは顔を上げて「ごめんごめん」と左手を振る。
「なんか、いつもの姉さんらしくないなぁって」
「姉さんらしくない、かぁ」
エディットはカティにワインを注いでもらいながら、右手で頬の火傷痕に触れた。
「私らしさってなんだろ? 誰のために生きているんだろ、私」
「そうくる?」
カティはワイングラスを置き、そしてエディットのグラスも取り上げてテーブルに置いた。そして身体をエディットに近づけ、その腰に左手を回した。あまりに自然な動作に、エディットはなされるがままだった。
この子も、これだけ距離を詰められるようになったってことか――。
エディットは純粋に嬉しく感じた。
「安心するでしょ、こうしてると」
「そうね」
エディットの答えを待たずに、カティはエディットを強く抱きしめて、離れる。
「姉さんは、アタシの恩人だよ」
「私は何もしてない。偶然の産物よ」
「偶然だの必然だのなんて、アタシにはどうでもいい。あの時抱きしめてくれなかったら、もしかしたらアタシは今ここにいなかったかもしれない」
「私は国家の恩人かもしれないわね」
「言えてる」
カティは苦笑する。
「でも、エウロスも出撃頻度は目に見えて下がってるんだよ、姉さん。ヴェーラとベッキー。二人を出しときゃどうにかなるでしょっていう。そのほうが被害は少なくすむでしょっていう。そういうことでね」
「今や戦闘があるたびに歌姫が出撃しないと国民の皆々様が大ブーイングだもんね」
「戦争はお前たちの娯楽じゃないんだぞってね」
カティの口調には多分に憤りが含まれている。エディットは天井を見上げて大きく息を吐いた。
「あの子たちにばっかり。私たちはいったい何をやってんだろ」
「今はね、セイレネスが圧倒的すぎるから、みんなその威力に目が眩んでるんだ。でも」
「アーシュオンは必ず対抗策を打ってくる」
「うん」
カティは頷く。
「だからそれまでの時間を少しでも伸ばすために、マーナガルム1を使って実験しているんだろ」
「そうなのよね」
「あいつらが頑張るほど、あいつらが孤独に戦う時間が伸びる。酷い話だよ」
カティは鋭い表情でそう言った。そして小さく溜息を吐いた。
「幸せが逃げるわよ」
「世界平和」
カティはそうとだけつぶやき、エディットは苦笑しながら言う。
「妄想よ」
「妄想って言われると、ちょっと悔しいな、なんか」
カティはワイングラスを再び持ち上げて考え込む。
「アタシだって、世界平和のために戦っている。でも、敵が来るから、敵がいるから、叩き落とすしかないんだ。それしかできない、アタシには。敵もそうとわかっているから、だからアタシたち四風飛行隊が出張っている限り、奴らはうっかり攻めては来られない。ある意味これも平和の形じゃないかな」
その言葉を受けて、エディットはふと思い出す。
「剣を掲げ、自由の下に平穏を求む、か……」
「ん? 姉さん、なにそれ。どこかの標語?」
「だったかも?」
エディットは億劫そうに立ち上がると、冷蔵庫からビールを二缶持って戻ってきた。
「第四艦隊は叩き潰した。セイレネスで圧倒した。クラゲも破壊できた。それでアーシュオンがおとなしくなってくれればと期待はしていたけど、裏切られたわね」
大規模戦闘は確かに減った。しかし小競り合いはむしろ増えていた。セイレネスを出されないギリギリの戦力での戦闘という意味だ。アーシュオンの活動家たちによる島嶼部の不法占拠も目に見えて増えた。また貨物船や巡視船団に対する潜水艦からの攻撃も跡を絶たなかった。
そしてまた、ISMTによる襲撃も二度行われていた。何れもヴェーラたちの活躍により被害なく対処できはしたものの、ヤーグベルテに対してかなりの緊張を強いることに成功していた。そして時々繰り出されるナイアーラトテップとナイトゴーントによる沿岸部襲撃には、セイレネス以外での対抗策を持たないヤーグベルテはかなりの被害を受けていた。
「なーんか、見失っちゃったのよ、カティ」
「見失った?」
「あの二人とセイレネス本体は日々成長している。強くなってる。恐ろしいくらいに。でも私、それがどうしても平和という単語には結びついてくれないのよ」
今こそ反撃の時――メディアの論調はそれ一色だ。アーシュオンもそれを誘っているかのように見える。お互いに抑止力になる兵器を有していながら、そしてそれを実際に運用しているにもかかわらず、和平のテーブルは設置すらされない。
「ところでさ、姉さん」
「うん?」
「マーナガルム1の特殊な体質について何かわかったの?」
「セイレネスからの論理的影響を受けにくいってことはわかったんだけど、その原因はさっぱり。詳しいところはブルクハルト少佐のレポート待ちだけど、口ぶりからして期待薄だったわ」
「でも、それがわからないと、さすがの姉さんでも上からボコボコにされるってことか」
「そうなのよね」
エディットの相槌には悲壮感と疲労感が滲んでいた。無茶を通して捕虜を実験に参加させているというのに、今のところ何の成果もない。参謀本部の面々からはもうすでに相当に叩かれている。
「これ以上、具体的な成果が得られないとなったら今の実験は中止と通告されたわ。でも、そんなことをして思考停止したら、また延々とモグラ叩きが続いてしまう。そんなことになったら、ヴェーラもベッキーも限界だわ」
「それは、そうだな……」
特にヴェーラは。
カティは足を組み、指を胸の前で組み合わせた。
ヴェーラは表向きは元気に振る舞っている。だが、その表情の奥にはまるで何も見えない。空虚なのだ。限界を超えた疲労感。終わりの見えない緊張感。そんなものに晒され続けている。しかし、それだけならカティたち四風飛行隊のメンバーも似たようなものだ。
カティには頼れる仲間、代わりに戦ってくれる仲間や部隊がいる。つまり、休める時間を作ることは十分に可能だ――今のように。しかし、ヴェーラとレベッカにはそんなものはない。いつだって電話一本で呼び出され、軽々に頼られ、とんでもない敵と戦わされる。その挙げ句、何らかの被害が出れば直接間接を問わずに責められる。エディットが庇えるのは軍上層部からの言葉だけで、マスメディアやソーシャルメディアまではどうにもできなかった。
「あの子たちのことを考えてあげられるのは、私たちだけ。わかってるけど。わかってるんだけど、でも、そろそろ限界かも」
「諦めるなよ、姉さん」
カティは言葉に力を込める。
「そんなんじゃ、あいつらのことを諦めるってことになっちゃうよ。でも姉さん、そんな覚悟なんてないだろ? 覚悟もないくせに諦めちゃおうとか、そんな態度。アタシはだいっきらいだよ」
「言うようになったわね、ホントに」
エウロス部隊長としての成長か。あるいは、人間としての成長か。
「でも、そのとおりね、カティ。あなたは正しいわ。あの子たちに直接言えもしないようなことをお酒の力で吐き出してるとか、ほんと最低」
私はヴェーラとベッキーを守らなくちゃならない。エディットは心の中で気合を入れ直す。カティはそんなエディットを見つめて、頷く。
「姉さんは研究をひたすら頑張る。なんとか成果を出す。アタシはナイトゴーントやISMTどもを駆逐する。アタシたちにできることは、アタシたちができることをそれぞれ頑張ることだけだよ」
「ナイトゴーント……そうだ。そういえばカティ」
「ん?」
「あなたの部隊、ナイトゴーントを二十機近く撃墜していたわよね」
「この前でエウロス全体でちょうど二十じゃなかったっけ?」
カティは頭の中でカウントし、「まちがいないな」と呟く。
「ISMTには相変わらず近づけないにしても、ナイトゴーントやロイガーなら、なんかやれるやつがいる。アタシもその一人なんだけどさ」
「やれるやつ?」
「そ。何故か当たることがあるんだ。ごく稀にだけど」
「何故か、当たる……」
エディットはスッと腕を組んで下を見た。カティは天井を見上げて応じる。
「十回に一回くらいかな。機関砲をぶちこんでやるといい感じに命中することがある。そこからさらに二回に一回くらいは、なんだか致命弾になって火を噴いて墜ちる」
あれ?
エディットは額に手を当てて考え込む。
「もしかして、あなた、ナイトゴーントやロイガーを撃つ時に、なんか抵抗みたいなものを感じる?」
「うん。トリガーをクラックされたんじゃないかなってほとんど毎回思う。撃ちたい時に撃てない、みたいな」
「それ……それだ!」
エディットは勢いよく立ち上がった。驚いたカティはそんなエディットを見上げる。
「カティ、忙しいのはわかってる。でもあなたも参加して、実験に。あなたじゃなければ、ナイトゴーントを撃墜したことのある飛行士でもいい」
なぜこの可能性を失念していたのかと、エディットは凝り固まってしまっていた自分の思考を悔やむ。こんなこと、もっと早く気付けたはずだった。
「アタシは構わないよ、どっちかというと暇だし」
カティはあっさりと了承する。
「あいつらも少しは気が紛れるだろうし。いいんじゃない?」
「書類通すのが一番の難題な気がするけど」
「そいつはアタシの専門外だ。でも姉さんにはハーディもいるでしょ。うまくやれるよ」
カティは立ち上がると、エディットを軽く抱いた。
「カティ、あなた、本当にいい大人になったね」
「姉さんの真似をしてたらこうなったんだよ」
「あらやだ」
エディットは冗談めかして言う。
「私はそんなに大層な大人じゃないわよ」
「アタシの好きな姉さんを貶めないで」
カティはピシャリと言い、柔らかく微笑んだ。