14-2-2:苦いコーヒーを飲みながら

歌姫は壮烈に舞う

 その時、エディットが帰宅した。

「何を大騒ぎしているの。外まで聞こえたわよ」

 ブラウスの襟を緩めながら、エディットはソファの指定席に腰を下ろす。立ったままの二人の歌姫セイレーンを見上げ、ヴェーラの左頬が真っ赤になっているのを見て状況を理解する。

「なにがあったのか、順を追って話してみて。整理しながら話せば、心も落ち着くわ」

 テーブルに置かれたままの冷めた紅茶に気が付いて、エディットはゆっくりと立ち上がった。

「温かい飲み物も必要ね。コーヒーにしましょ。いい?」
「……うん」

 ヴェーラは左頬を押さえながら頷いた。今になって痛み始めたのだ。レベッカはじっと下を見て硬直している。

「ベッキーの沈黙は肯定と捉えるわよ、いいわね?」
「……はい」 

 レベッカは力なく答えて、ソファに腰を下ろした。ヴェーラは数秒迷ったが、やがてレベッカの隣に、寄り添うようにして座った。

「ふたりとも、聞いてね」

 お湯を沸かしながら、エディットが言う。その声は二人が今までに聞いた中で、最も優しいものだった。

「私の経歴は覚えている? 陸軍から海兵隊、そして参謀部。さて、質問。私はこの期間で、それぞれ何人殺してきたでしょうか」

 そんな質問に答えられるはずがない。ヴェーラは唇を噛み、レベッカは膝の上で拳を握りしめる。

「私もね、わからないのよ? 陸軍時代は多分数十人。海兵隊でも同じくらい。参謀部に入ってからは数千、いや、数万人ね」

 柔らかい声音で語られる事実は、ヴェーラとレベッカの胸の奥に突き刺さる。

「顔も名前も知らない敵。そして、味方。参謀部になってからは特にね、何人殺し……何人殺させて、何人死んだかとかなんて、ただの。覚えてもいない、正直ね。表示されている数字が正しいのかどうかもわからない。そのうち何人だなんて言い出したものよ。生命が減っていくのを大雑把に数えるようになっていったわ」
「でも」

 ヴェーラが口を挟む。

「でもね、エディット。エディットのお陰で助かる味方だって大勢いるんだよね?」
「そうですよ」

 レベッカも言う。

って呼ばれるほど信頼されているじゃないですか」
「そうね」

 エディットは表情を曇らせる。

「でもね、参謀ってのはそんな簡単な仕事じゃない」

 エディットはお湯が湧いたのを確認してからポットを持ち上げる。そしてお湯を注ぐ。

「百人を救うために十人を犠牲にするなんてことはよくあること。桁が一つ二つ変わることだってよくあること。ひどいときには試作戦車一輌を守るために数十人を犠牲にさせたことだってあった。次の作戦を有利に進めるためにと、一個艦隊を犠牲にすることだってある」

 コーヒーがドリップされるのを待ちながら、エディットは「ほぅ」と息を吐く。

「あなたたちは味方をノーリスクで守ることができる。私たちとは違って。それも確実に。私たち参謀は、十を守れるかもしれないけど、必ずいくらかの生贄を必要とするわ。簡単に言えば、どれだけ効率的に味方を死なせられるかを考えるのが、私たちの仕事というわけ」
「効率的に死なせる……」
「そうよ、ヴェーラ。私たち参謀の仕事は、味方に対してこれこれこういう事情があるから、ここの部隊は死んでくれって。そういうお願いをすることなの」

 エディットの両目が乾き、機械のそれと化す。エディットはキッチンとリビングをに往復して、それぞれの目の前にコーヒーを置いた。

「濃いめよ。こういう時は濃いほうがいいの。苦いほうがね」

 エディットはそう言って早速コーヒーに口をつける。

「私はね、今までこの二十年近い従軍生活の中で、顔も名前も知っている味方を何人も失ってきたわ。いや、そうね、もうざっくばらんに言えば、私が殺したようなものよ」
「エディットは……平気だったの?」
「そんなわけないじゃない、ヴェーラ」

 エディットはエスプレッソの如き濃さのコーヒーを苦もなく飲んで、数秒間目を閉じた。

「参謀になってからは特に、やや暫くの間は自己嫌悪に悩まされた。ちょうど今のあなたのようにね、ヴェーラ」

 エディットは向かいに座るヴェーラを見る。ヴェーラはカップを持ち上げていたが口は付けていなかった。その隣のレベッカはコーヒーを一口飲んで、思わず眉毛を跳ね上げた。苦さに驚いたのだ。

「ごめんごめん、きつかった?」
「あ、いえ、大丈夫です」

 レベッカは首を振って、眼鏡の位置を直した。レンズが少し曇っている。

「エディットは、どうやって克服したんですか」
「克服なんてしてないよわ、ちっとも」

 エディットは苦笑する。

「お酒だってそのせいだし。今でも毎日、種々様々な作戦失敗の夢を見るわ。見飽きるほどにね。慣れないけど」
「で、でもさ、エディット」
「うん?」

 ヴェーラはコーヒーを持ったままエディットを正視した。

「エディットはどうやってそこまで強くなったの?」
「強く? うーん、困ったな、これは」

 エディットは自分の手のケロイドを見ながら思案する。

「やりたいことをやりたいだけやる。悩む。苦しむ。泣きわめく。やれることを全部やったらスッキリする。納得、じゃないな、諦めかな。もうどうしようもないんだって、そんな風に思えるようになるわ」
「味方を殺すようなことでも、ですか?」
「そうね、ベッキー。人間の慣れってのは非情なものよ。天秤にかける段階になると、驚くほど非情になれるのよ」
「でも――」
「まぁ待って、ベッキー」

 エディットはコーヒーカップを置いて、二人の歌姫セイレーンに視線を送る。二人はそれぞれのコーヒーの黒い水面を見つめている。

「私の話を続ける前に、あなたたちが何で喧嘩をしていたのか、サマライズして。大人の話はそれからでもいいでしょう?」

 二人はぽろぽろと涙をこぼしながら、さっきまでの言い争いの内容をエディットに伝えた。二人はほとんど一字一句違わずに再現していた。

「言いたいことはだいたいわかったわ。どっちも正しい」
「でもエディット、それじゃヴェーラは」
「ベッキーの心配もわかるわ。私だって、ヴェーラに壊れてほしいだなんて思ってない。でもね、ヴェーラがそう思ってしまった以上、私たちにはそれを止めることはできないの。だけどね、人の心ってよく出来てる。このカップみたいにね」

 エディットは空になったコーヒーカップを持ち上げた。

「受け止めきれない分はね、こぼれていってしまう」
「そんなことはないと思います」
「どうして?」

 エディットはレベッカを見る。

「あのねベッキー。あなたは私がそこまでキャパの大きな人間だとでも思っているわけ? 何千何万の命の責任を負い、その悲しさや苦しさを全て背負えるような人間だとでも」
「……いいえ」
「それとも、人の死に責任を感じないような人間だとでも思ってる?」
「……い、いいえ」

 レベッカは首を振り、俯いた。

「そういうことなのよ、ベッキー」

 エディットはカップを置いて、改めて二人に膝を向ける。

「責任を感じないから責任を負わないとか。責任を負えないから責任を感じないとか。そういうことは別にゼロイチじゃなくても良いと思う、私は。感じられる責任を感じ、感じられる苦痛や悲しみに共感する。それで良いと思う。私だってそうやって割り切ってやってきて、それでなんとかここまでやってきた。それ以上のことはね、それこそ心を壊してしまったって、できやしないの。だからね、できることをしましょう? 少しずつでも、無力感を覚えながらでも、なんでもいい。悩んで苦しめているうちは、まだ前に進めてるって信じてみない?」
「でもエディット、それじゃ、前に進む限り苦痛が伴うってことじゃない?」
「そうね」

 エディットは機械の目でヴェーラを見つめる。

「私たちは人殺しよ。望む望まざるとに関わらず。どうあれ、その事実は変わらない。そして私たちは前に進まなくちゃならない。こと私たち軍人は、生きることといたむことは、絶対に切り離せない」
「つらいんだよ……」

 ヴェーラの絞り出すような声に、エディットは頷く。

「あなたのつらさはあなたのもの。私にはそれをわかるとも我慢できるでしょとも言えない。ただね、あなたが『つらい』って言ってくれたことには感謝してる。そうね、みんなで傷を舐め合うくらいしかできないのかもね。ごめん」
「謝られるとちょっと居心地が悪いよ」

 ヴェーラは冷めかけたコーヒーを一気に喉に流し込んで、少しせた。

「こういう時は美味しいご飯でも食べましょ。いいわね、ふたりとも」
「ほっぺたまだ赤いと思うんだけど……」

 ヴェーラはうらめしげにレベッカを見た。レベッカはヴェーラの頬に触れて「ごめん」と掠れた声で謝っていた。

 エディットは二人の様子に微笑みながら、行きつけのレストランに席を確保した。

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