二〇八八年から二〇九〇年にかけては、ヤーグベルテは圧倒的な勝利を収め続けた。その主な要因は対セイレネスデバイスである「オルペウス」の開発が成功したことである。この技術により、四風飛行隊ら超エース級の飛行士たちは、ナイトゴーントら超兵器と互角以上に戦えるようになった。
海のナイアーラトテップには二隻の戦艦が、空のナイトゴーントには四風飛行隊が、それぞれ抑止力として機能した。ISMTはヤーグベルテにとっては相変わらず厄介な存在ではあったが、それでも数回のISMT動員作戦については、ヴェーラ達によって全てが阻止されていた。ヤーグベルテは順調にすぎるほどに順調に、不法占拠されていた島嶼部の奪還および本土への奇襲作戦を成功させていった。
ヤーグベルテ大統領府は、ヴァルターに対して勲章を与える旨を発表した。無論、そこには政治的意味合いしかない。言うまでもなく、ヴァルターはそれを受け取らなかった。だがヤーグベルテにしてみれば、ヴァルターがそれを受け取ろうが受け取るまいが、どちらでもよかった。内外に対し、「この男はヤーグベルテのためにそれほどの貢献をした」というアピールができさえすればよかったのだから。
その政治的工作は見事に効果を発揮した。アーシュオンのトップエースであったヴァルターが率先して、アーシュオンの兵器を無力化するような研究に協力したというのだから、アーシュオン軍部や国民の動揺は凄まじいものがあった。
「スパイの容疑者で済ませりゃいいものを、本物の利敵行為を働いてくれちゃって」
暇を持て余したマーナガルム2、クリスティアンがブリーフィングルームの天井を仰ぐ。彼らのいる要塞都市ジェスターの軍施設は除染もすっかり完了し、破壊された建物の再建もほとんど完了していた。
「何か、事情があるはずです」
紙媒体の作戦報告資料をケースにしまいながら、シルビアが祈るような声で呟いた。フォアサイトが首を振りながら立ち上がり、「事情だって?」と、シルビアの机の上にお尻を乗せる。
「事情が何であるにしたって、事実は事実じゃん。こっちが圧倒的に不利になる、ええっと、オルペウス。それの開発に一役買ってるのは事実じゃん? そりゃもう、利敵行為意外になんて呼べばいいのかわかりゃしないよ」
「しかし――」
「シルビアさんさぁ。シカシもカカシもないわけよ、今となっちゃ。実際にさ、ナイトゴーントどもがタダの的になり下がってくれたおかげで、あたしたちへのしわ寄せはすごいものがあるじゃん? こっちの軍、陸海空を問わず、信じられないような被害を受け続けているんだよ。知ってるでしょ。で、それもこれも、あいつのせいだ」
フォアサイトは吐き捨てる。
「ヤーグベルテがみすみすあいつを返してくれるとは思えない。返されたら返されたで、ウチの国としては銃殺刑にするしかない。もうあいつの容疑は確定的だし、それによる損害は致命的だ」
「だな、フォアサイト」
クリスティアンもシルビアの前に移動してくる。
「だけどよ、ヤーグベルテはヴァリーを返してくると思うぜ。捕虜交換には良い素材になったことだし。アーシュオンは面子に賭けてもヴァリーを取り戻さなくちゃならねぇ。ヤーグベルテももう研究は十分だとみなすだろうよ」
それに、と、クリスティアンは続ける。
「アーシュオンとしては、あいつに本気で寝返られちまったら困るからな。空の女帝と白皙の猟犬を同時に相手するとか、考えただけでもゾッとするぜ。だからヤーグベルテはさっさと高値で売り払いたいと考えていて、アーシュオンはさっさと死んでほしいと思っているってわけ。わかる、シルビア?」
「……ええ」
シルビアは力なく机に上半身を預ける。フォアサイトはその背中を軽く叩いた。
「運良く帰ってこられたとしても銃殺刑が関の山。何かいいお土産でもあれば、それによっちゃ助かる可能性はあるけど」
「お土産?」
「そそ。歌姫とかいう奴らの命とか、戦艦ぶっ壊すとか、空の女帝を葬っちゃうとかさ、そういう物騒な系統のお土産」
フォアサイトは凄みのある笑みを見せる。シルビアは組み合わせた指の、親指の爪を睨む。
「私は彼に生きていて欲しい。私は、だって……」
「ヴァリーに想いの一つも伝えたいってか?」
クリスティアンがあからさまに揶揄する。シルビアはしばらくの硬直の末、コクンと頷いた。
「それができなければ、私は死ぬに死にきれない」
「自己満足ってんだよ、それ」
「そうよ、フォアサイト」
シルビアは荒んだ笑みを浮かべた。
「私が今、こうして軍にいる意味って、情報部だのなんだのを差し引いたら、それしかない」
「うすっぺらいねぇ。ぺらぺらだ」
フォアサイトが手を叩いて、わざとらしく笑う。シルビアは大理石のように冷たい表情を崩さずに尋ねる。
「なら、あなたの生きる意味は何なの、フォアサイト」
「さぁて? 考えたこともないねぇ」
「クリス、あなたは?」
「俺もねぇよ。ヴァリーがいなくなって変わったと言えば、毎日が単調でつまらなくなっちまったってくらいか」
クリスティアンは無表情に言って、頭の後ろで手を組んで「ああ」と呟いた。
「勘違いすんなよ、シルビア。俺はな、心底あいつに幻滅してるところだ。顔を見たらそれこそ原型留めねぇくらいにぶん殴るくらいにはな」
「クリス、しかし――」
その時、ノックもなしにドアが開いた。
「何を諤々とやりあっているんだ」
颯爽と入ってきたのはミツザキ大佐だった。ミツザキは軍帽を脱ぐと、左の脇に抱えた。
「おやまぁ、大佐がわざわざ」
「軽口はけっこうだ、シュミット大尉」
そして嵌め殺しの窓から外を見る。偏光ガラスの向こうには滑走路がある。ちょうど高高度偵察機が帰還してきたところだ。
「捕虜交換が正式に決定した」
「捕虜、交換……!」
シルビアは目を見開いた。フォアサイトとクリスティアンは互いに顔を見合わせる。しかし二人の表情には何の感情も窺えない。
ミツザキはその真っ赤な唇の口角を上げた。
「相手方は、ヴァルター・フォイエルバッハ。こちらは四風飛行隊の捕虜十四名。ほぼ先方の要求を飲んだ形だ」
「そりゃまたヤーグベルテに都合のよろしいことで」
「そうでもない、シュミット大尉」
ミツザキは窓に背中を預けて、その血のような色の瞳で三人を見る。
「これ以上、奴に実験とやらに協力されてはかなわん。おそらくオルペウスは改良されていくだろうし、四風飛行隊の全機に搭載されるのも時間の問題だ。そして我々は何より、奴が寝返ることを危惧している」
「銃殺刑のためだけに……」
シルビアの絞り出すような声に対し、ミツザキは至極当然のごとく肯いた。
「我が国は、奴に対するネガティヴキャンペーンを展開しまくったからな。今更それを撤回するような胆力のある奴は、政治屋の中にはいないだろう」
「政治の都合でそんなこと――」
「許されるのだ、ハーゼス大尉」
ミツザキはシルビアを斜に見る。
「アーシュオンは知っての通り、内情はともかく表向きは民主国家だ。シビリアンコントロールという大衆迎合システムの前には、軍人個人の都合や人権など、あまりにも小さい」
「しかし――!」
「今日は野暮用ついでにそれだけを伝えに来た。最期には会えるように取り計らっておく」
ミツザキはそう言うと、軍帽を被り直して軍靴の音も高らかに部屋を出て行った。シルビアは椅子を蹴って、ミツザキを追いかけた。
「大佐、お待ち下さい!」
「なんだ?」
ミツザキは足を止めて振り返る。そこに表情はない。
「ヴァリーは、彼は、もう助けられないのでしょうか」
「ああ、無理だな。助かる理由が何かある、助けられる方法があるというのなら聞くが?」
ミツザキはまた歩き始める。シルビアはそのすぐ左斜め後ろにつく。
「一度。一度だけでもチャンスを与えることはできませんか、大佐」
「チャンス?」
「空の女帝を、エウロスの隊長を撃墜するチャンスを、です」
「ほう?」
ミツザキは横目でシルビアを伺ったが、歩みを止めない。シルビアはミツザキのスピードに苦労してついていきながら、なおも言う。
「それができれば、彼にかけられた嫌疑も解ける。オルペウスの件もヤーグベルテの策謀の結果であるということもできるのではありませんか」
「だがな、ハーゼス大尉。裏切り者に戦闘機を与えるわけにはいかんだろう?」
試すような口調のミツザキに、シルビアは唾を飲む。
「……不審な動きを見せたら、私が、撃ちます」
「ほう?」
ミツザキはようやく足を止めた。顎に手をやってから、軍帽を被り直す。
「正直に言えば、私も奴ほどの人材をみすみす失いたくはない。摩耗しきった我が軍に於ける最強の飛行士の一人でもあるわけだし。それに、人間としても興味深い」
「人間として……ですか?」
「ああ、口が滑った」
ミツザキは左手を軽く振った。しかし、シルビアはミツザキの冷たい横顔を凝視していた。その顔に浮かぶわずかな感情をも全て拾い集めようとするかのように。
その視線に気付いたミツザキは、「良い言葉を教えてやろう」とその赤い唇をついと歪めた。
「深淵を覗くのであれば、深淵からも覗かれる覚悟をすることだ。それがないのであれば、深淵の奈落の縁から退がることだ。それが賢い生き方だ」
ミツザキの微笑がシルビアの心臓を凍らせる。総毛立つ――そう形容するに相応しいほどの怖気がシルビアを襲う。名状し難い恐怖のようなもの――そんなものがシルビアの爪先から頭頂部までをゾワゾワと這い上がっていった。
「案ずるなとは言わんが」
ミツザキはその繊細な指先でシルビアの右肩に触れた。思わず身体を硬直させたシルビアに、ミツザキは含み笑いを見せる。
「私もそのように計らってみよう。興味が湧いた。なに、情報部の連中も今回は手を出すまい。あいつらにとって、もはやフォイエルバッハはつまらん相手だ。銃殺刑は既定路線なのだから」
「大佐……」
「軍部は戦闘機の貸与を渋るだろうが、PXF001の一機くらい、どうにかしてみせるさ」
「……ありがとう、ございます」
シルビアは深く頭を下げた。ミツザキは鼻で笑うとまた歩き始める。
「シルビア・ハーゼス大尉」
歩きながら呼びかける。
「貴様の覚悟、本物だろうな?」
「私は」
シルビアは遠ざかるミツザキの背に向けて応える。
「彼を助けられる可能性があるのなら、私の命を、全てを賭けます」
「ふっ」
ミツザキは一瞬立ち止まった。そして横目でシルビアを確認し、口角を上げる。
「面白いな」
そう言い残して、今度こそシルビアを置き去りにした。