捕虜交換……。
ヴェーラは目を見開いて繰り返す。ハーディは金属のように冷たい顔をヴェーラに向ける。
「フォイエルバッハ少佐と交換に、我々ヤーグベルテは四風飛行隊の捕虜十四名を取り戻す」
「十四! そりゃまた高い買い物だ!」
ヴァルターは思わず大きな声を上げた。ハーディは眼鏡の位置を機械的に直す。
「呑気なことを言ってもいられない。捕虜交換は一ヶ月後だ。時間はあまりない」
「そんな、ハーディ……。一ヶ月後とか」
ヴェーラは虚ろな目でハーディを見る。ハーディは一同を冷たい視線で撫で回した後で、短く断言する。
「アーシュオンはフォイエルバッハ少佐を生かしておくつもりはないでしょう」
「そんな!」
ヴェーラは思わずハーディの方へ一歩踏み出した。が、前に回り込んだレベッカに止められる。涙目のレベッカは、そのままヴェーラを抱きしめた。ヴェーラは呆然とした口調でつぶやく。
「ヴァリーが……死刑になるっていうの?」
「まぁ、そうなるだろうな」
ヴァルターが努めて明るく言い放つ。
「利敵行為を働いたのは事実だし。紛れもなく。だから擁護派の連中だって何も出来やしないだろうさ。もはやアーシュオンに帰る場所はないさ」
「そんな!」
ヴェーラはレベッカの背中に爪を立てた。レベッカはそれでもヴェーラから離れなかった。
「一緒にいようよ。そんな国になら帰らなくてもいいじゃない。ねぇ、ハーディ」
「そういうわけにはいきません。これは国家間の合意事項ですから」
「でも、ハーディ。殺されちゃうんだよ、ヴァリーは。帰ったら死刑台なんでしょ!? そうとわかってて帰すの!?」
ヴェーラの絶叫のような訴えは、しかし、ハーディの表情を変えさせることもできない。
「そんなの、わたしたちがヴァリーを殺すのと同じじゃない!? ああ、そうだ。ヴァリーを四風飛行隊に入れちゃおうよ。すごい強いでしょ、ヴァリーは! 戦力になるし! ねぇ、ほら、実験だって――」
「ヴェーラ、聞きなさい」
ハーディは鋭い視線でヴェーラを撃ち抜いた。
「言ったでしょう。これは国家間の決め事なのです。いまさら覆ることなんて」
「わたしたちの! ヴァリーの! 気持ちとか立場とか!」
「些末な事柄です。個人の都合で戦争はできません」
「くそくらえだ!」
ヴェーラはレベッカを振り払い、ハーディに駆け寄り、その襟首を掴んだ。ハーディは振り払うでもなく、ただ冷たい瞳でヴェーラを見つめている。ヴェーラはその燃える瞳でハーディを焼き殺さんとするが如くに睨み据える。
「わたし、死ぬよ。死んだって良いんだよ。わたしの命。そんなものでヴァリーが救われるなら、首だって吊る。舌だって噛み切る」
「バカを言うな、ヴェーラ!」
誰よりも先に怒鳴ったのはヴァルターだった。ハーディは凍てついた鉄のような態度を変えず、レベッカは眼鏡を外して袖口で涙を拭いていた。ヴェーラはハーディの襟を掴んだまま、驚いて固まった。
「俺だって死にたいわけじゃない。でもな、誰かの命のお陰で生き延びるなんてことを考えると吐き気がする。本来なら、俺はお前に殺されていてもおかしくなかった。それがどうしたわけか生き延びて、どうしたわけか、今こうしている。この時点で奇跡なんだよ、ヴェーラ」
「き、奇跡……? こんなのが」
「エルザの仇。俺はそれを恨まないことを決めた。その瞬間に俺はもう救われてるんだ」
「い、意味がわからないよ、ヴァリー」
戸惑うヴェーラに、ヴァルターは柔らかな笑みを見せる。
「俺から、俺に唯一残ったなけなしのプライドまで奪わないでもらえるかな、ヴェーラ」
「わかんないよ! そんなの、わかんない!」
ヴェーラはハーディから手を離し、ヴァルターに向き直った。
「どうして! 死ぬのは、命を失うのは、何よりも……!」
「ヴェーラ」
ヴァルターはヴェーラに一歩近付いた。二人の距離は二メートルを切る。その時、ハーディはおもむろに拳銃を抜いた。
「止まりなさい、フォイエルバッハ少佐。現時刻を以て、それ以上の接近を禁じます」
「……破れかぶれの俺が、ヴェーラの首でも絞めると?」
「そういうことです」
ハーディは銃口をヴァルターに向けて、頷いた。
「ハーディ! そんなことしたら、わたし……!」
「どうしますか。私に噛みつきでもしますか」
ハーディは左手で眼鏡を外し、胸ポケットに入れた。レンズの奥にあった冷たい眼光が、ダイレクトにヴェーラを射る。ヴェーラはきつく唇を噛んだ。
「撃つなら!」
ヴェーラはハーディを睨み、ヴァルターに背を向けて手を広げた。
「わたしごと撃ちなさい、ハーディ」
「バカを言うなよ、ヴェーラ」
ヴァルターはそのヴェーラを押しのけた。ハーディの眉がわずかに上がる。
しばらく張り詰めた時間が続いたが、先に動いたのはハーディだった。
「どうやら」
ハーディは拳銃をホルスターに収めた。
「それがあなたたちの覚悟の距離感というわけですね。良いでしょう」
呆れたようにそう言って、ハーディは背中を向けた。
「残り一ヶ月。正味三週間。その間、好きなだけ相互理解とやらに励むと良いでしょう。それでヴェーラ、あなたが成長できるのだとすれば、それは安い投資です」
ハーディはそう言い残すと、足音の一つも立てずに部屋から出て行った。
「怖い人だ」
ハーディが視界から消えるなり、ヴァルターが肩を竦めた。ヴェーラもぎこちなくそれに同意し、レベッカは拳を震わせた。
「もう! なにやってんのよ、ヴェーラ!」
レベッカの震える怒声が響く。レベッカがここまで声をひっくり返して怒鳴ることなんてまずめったになかったので、ヴェーラはまずそのことに驚いた。
「あのね、ヴェーラ。ヴェーラは私の大切な人なんだよ!? それなのにそんなに傷付いて! そんなあなたを見て、私の心が傷んでないとでも思ってる!? 私だって傷らだけだよ。でも、ヴェーラのことをひたすら、ひたっすらに考えて、それでなんとか自分を守って、なんとか自分で立てている。そんな状態なのよ、私! あなたの痛みはあなたにしかわからない。それは事実だけど、あなたを想う私の痛みだって、あなたにはわからない!」
レベッカの血を吐くような言葉がヴェーラに突き刺さっていく。
「ヴァリーさんもヴァリーさんです。ヴェーラの想いを知っていて、なんでそんなこと!」
その想いには応えられないからだよ、ベッキー――。
レベッカの心の中にヴァルターの声がはっきりと届いた。ヴァルター本人は目を伏せて沈黙していたが、今のはまぎれもなくヴァルターの言葉であると、レベッカは確信した。
ヴァルターはヴェーラの肩に手を置き、自分の方に向き直らせる。
「ヴァ、ヴァリー……?」
少しかがんで視線の高さを合わせるヴァルターに、ヴェーラは声を上ずらせる。すぐにもキスできそうなほどに近いのに、そこには無限の距離があった。
ヴァルターは目を細め、小さく頷き、ヴェーラを抱き寄せた。ヴェーラは抵抗することなくその胸に収まり、背中に腕を回す。
「ヴェーラ……」
レベッカは溢れる涙を拭きもせずに、抱き合う二人を見つめていた。