15-1-5:だいじょうぶじゃないと、言ってみろ

歌姫は壮烈に舞う

 その日の夜、カティは一人、エディット邸のリビングのソファに埋もれていた。目を閉じてはいたが、意識は嫌になるほどはっきりと覚醒していた。

 これまでヴェーラとは週に一度は電話で話をしていた。だが、この一ヶ月はその役目はレベッカに代わっていた。ヴェーラはどうやらただならぬ状態にある――カティはそこまでは把握できていたが、レベッカもどこかぼんやりとしか教えてはくれなかった。ヴェーラがそう希望したのだろうということは想像にかたくはなかったのだが。

 だが、そこに来て今日の昼間にレベッカから緊急の連絡があった。かいつまんで言うと「ヴェーラの状態がひどく悪い」ということであった。その大半はメンタルに由来することはカティは把握していたから、エウロスでの仕事を即座に切り上げて、ヴェーラたちを待ち構えているという次第だ。

「きっちり四週間ぶり、か」

 ヴェーラの状態が急激に悪くなり始めるのと同時に、四風飛行隊の任務が増した。それゆえに図らずもすれ違い状態となってしまっていた。そのこともきっと、ヴェーラの状態悪化に拍車をかけたのだろうと、カティは想像する。カティもヴェーラがカティに重々依存していることは理解していたからだ。

 カティは目を開けて、暗い室内をぐるりと見回した。そして思い立ったかのように天井灯を点け、冷蔵庫からビールを取り出した。今やカティしか飲まないビールのはずだったが、いくらか減っているところを見ると、ヴェーラが隠れて飲んでいるのかもしれない。

 カティは缶に直接口をつけて、限界まで冷えた苦い液体を喉から胃へと流し込む。倦怠感、頭痛、それらに由来する不快感を、一気に押し流してやろうとするかのように。

「帰ってきたか」

 家の前に参謀部の車が停まったのを確認して、カティはソファに戻った。

 しばらくして、玄関、そしてリビングのドアが開けられた。

「よぅ」

 カティは立ち上がると、現れたレベッカを抱きしめ、ついでヴェーラを抱いた。

「おかえり、二人とも」
「ただいま! 珍しいね、ハグなんて」

 ヴェーラは明るい口調で言った。だが、その響きはどこか空虚だ。ヴェーラはカティの視線に気付くと、すぐに口を引き結んでうつむいた。カティは頭の中心部に痛みを覚えながらも、敢えて「どうした」と尋ねた。

「ヴァリーが……」

 顔を上げたヴェーラがその名前を口にする。しかし、それ以上は唇を戦慄わななかせるだけで、言葉にすることができなかった。眉間に縦皺を寄せて眼鏡を拭いていたレベッカが、意を決したように口を開いた。

「ヴァリーの捕虜交換が、一ヶ月後に。決定事項だそうです」
「……そう、か」

 カティは息を吐いた。ヤーグベルテとしてはヴァルターを寝返らせるか、アーシュオンに高く買い戻させることを画策したのだろう。ヤーグベルテとしてはどちらでも良かった。完全にアーシュオンに対して勝ちゲームを仕掛ていた。値段を吊り上げるための工作として、勲章の授与その他、ヴァルターのを内外に広く知らせしめた。

 ヤーグベルテ政府は考えたのだ。ヴァルターを寝返らせて一つの戦力として運用するか。あるいは、アーシュオンに捕虜となっている四風飛行隊の飛行士パイロットを複数名取り戻すか。アーシュオンは体面を維持するためになんとしてもヴァルターの身柄を欲するとわかった上で。その結果、十四名もの超エース級の飛行士パイロットを交換の材料としてきた。こうなればヤーグベルテもを逃がすはずがないのだ。

「教えて、カティ」

 ヴェーラがカティを見上げた。その空色の瞳は、天井灯の光を受けて揺らいでいた。

「わたしに何ができる? わたし、ヴァリーを救いたい」
「なにも――」

 カティは首を振る。これは国家間の決め事なのだ。全てが既定路線の中にある。ヴァルターは捕虜交換の材料に使われ、アーシュオンに帰り、そして反逆の罪をもって死罪となるだろう。ヤーグベルテは十四名もの優秀な飛行士パイロットを取り戻すことに躊躇はないだろう。そしてアーシュオンにはヴァルターを以外の道はない。

「傷を浅くする方法は一つしかない」

 カティはヴェーラを強く抱きしめながら囁く。

「自分でできる決断は、自分でする。自分の手の届く範囲のものは何だって使え。それしかない」
「そんなことしたって、ヴァリーは……! 死んじゃったら意味ないんだよ!」
「ヴェーラ」

 カティはヴェーラの美しい白金の髪プラチナブロンドに手をやった。

「たとえ死に意味の有無があるのだとしてもね、それを決めるのは他人じゃないんだ」
「だって――!」

 ヴェーラは拳を握りしめ、唇を噛んだ。カティはその頭を抱き、髪を撫でる。ヴェーラは肩を震わせ、声にならない声で泣いた。

「納得できないことなんて、山ほどあるさ」

 自分自身にも言い聞かせるように、カティはつぶやく。

 ヴェーラはヴァルターのことを愛しているのだ。ぎこちなく、ある意味では幼稚なその気持ちも、本人にとっては至って本気の愛なのだ。たとえヴェーラ自身がそれを愛だと認識できていなかったとしても、それは間違いなく――。

 カティは小さく下唇を噛みつつ、心配そうに二人を見ているレベッカの方に視線を移した。

「ベッキー」
「は、はい」

 突如呼ばれて、レベッカは身を固くする。カティは左手でレベッカを抱き寄せる。

「お前はヴェーラのただ一人の理解者だ。本当に共感してやれるのはお前だけだ。アタシたちは想像の範囲でしか、お前たちを理解してやることはできない。だから――」
「わかっています」

 レベッカは静かに答えた。

 レベッカは思う。自分は冷血なのではないかと。ヴェーラと同じ作戦に従事し、同じものを見、同じものを聞いてきたはずなのに、ヴェーラほど心を壊されたりしていない。凄惨な光景、思い、絶叫、呪詛――そんな物に無数に触れてきたが、レベッカは未だに自分を保っていた。むしろ、回を重ねるごとに何も感じなくなってきているような、そんな気すらしてきていた。

「ベッキー」
「え……っと?」

 カティの深い紺色の瞳に囚われて、レベッカは唾を飲み込んだ。

「だいじょうぶ、か?」
「だいじょうぶです」

 毅然として即答するレベッカ。その目は泣きじゃくるヴェーラの右肩あたりを見つめていた。カティはすっと目を細める。

「言ってみろ」 
「……え?」
「だいじょうぶじゃない。そう言ってみろ」

 鋭い口調だったが、その表情は柔和だった。白すぎるほどに白い肌、炎のような色の髪。そして紺色の澄んだ瞳、赤い唇。それら全てがレベッカを優しく見つめていた。

「言えよ、だいじょうぶじゃないって」
「私、だいじょうぶだから……」
「いいから、言ってみろ」

 カティの強い口調に、レベッカは口を引き結ぶ。ヴェーラは嗚咽おえつを抑えて、二人の様子をどこか呆然と見つめていた。

「私は、だいじょうぶだから」
「ベッキー」

 カティは左手でレベッカの後頭部に触れ、抱き寄せた。

「アタシのために、言え。アタシのために、告白するんだ」
「カティのために……?」
「そうだ」

 カティは頷き、レベッカの頬に自らの頬を合わせた。

「ひとこと言うだけでいい。だいじょうぶじゃないって。アタシはね、今、お前からその言葉を聞きたい」
「強がってなんていません、私」
「強がってるヤツに限って、そういうことを言うんだ」

 カティの言葉がレベッカの心臓に突き刺さる。

「お前は自分の心に蓋をしているだけだ。開けてみろよ。だいじょうぶじゃない、いま自分はつらいんだ。そう言ってみろ。そうしたら心の蓋は開く」
「心の蓋?」
「もし、本当にだいじょうぶなら、蓋が開いたって何も起きない。だから、とりあえず開けてみせろよ、アタシのために」
「私……」

 レベッカの声はかすれて震えている。

「だいじょうぶじゃな……」

 最後まで言い切ることが出来ずに、レベッカの胸が詰まる。ヴェーラがレベッカの左手を握る。カティは二人をまとめて抱きしめる。

「もう一回、言え、ベッキー」
「だいじょうぶなんかじゃ……ない」
「そうだ」

 カティは嗚咽し始めたレベッカの背を優しくさする。

 アタシがしてやれるのはせいぜいこのくらいだ――カティは心の中で吐き捨てる。

「だいじょうぶなはずなんて、ないんだ」

 カティの言葉に、レベッカは落涙らくるいする。

「カティ」

 ヴェーラがカティから身体を離す。カティは頷いてヴェーラの言葉を促した。

「ベッキーのおかげなんだ」
「ヴェーラ?」

 しゃくりあげながらレベッカがヴェーラを振り返る。

「わたしがこうしていられるのは、ベッキーの……。もしわたしが一人だったら、もう耐えられなかった」
「ヴェーラ、私……」
「でももう強がるのはやめて、ベッキー。わたし、甘えちゃうから」
「甘えていいのよ」
「不公平だもん……」

 ヴェーラは俯いた。カティはその頭に手を置いた。

「わたし、いつでもベッキーに甘えて、ベッキーに暴言も吐いて、でも止められないんだ」
「私は、だいじょうぶだから」
「口癖になってる時点でだいじょうぶじゃないんだよ、ベッキー」
「あ……」 

 レベッカは手で口を覆う。

「わたしがどんな状態であったとしても、悪いものは悪いんだ。だからベッキーはわたしをちゃんとひっぱたくべきなんだ」
「そんなこと」
、やって」
「……わかったわ」

 レベッカは頷いて、ヴェーラの頬をいきなり小さくつねった。

「いてて……」
「利息分」

 レベッカはそう言って、ヴェーラのもう一方の頬に口づけた。

「これも」
「これならいくらでも支払うよ」

 ヴェーラはつねられた頬をさすりながらそう言った。

 その声は少しだけ明るくなっていた。

 カティは安心したように二人を解放し、キッチンへと身体を向ける。

「今日はアタシが料理するから、二人は着替えて待ってろ」 

 ピザのほうが良かったか?

 カティはそんなことを考えながら、冷蔵庫を開けた。

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