それから三ヶ月後、二〇九〇年九月――。
防戦一方に追いやられていたアーシュオンは、乾坤一擲の作戦を開始した。彼らが制圧を目指すのは、「ダグザの大釜」こと、ムリアス湾にある要塞島オウェングス。オウェングスは長らくアーシュオンが占領していたヤーグベルテ領の巨大島であったが、半年前に奪還されたという経緯があった。
オウェングスはアーシュオンにとっては重要な橋頭堡とも言える立地だった。ここを占領しておくことで、アーシュオンは母艦に頼ることなくヤーグベルテに直接かつ強力な打撃を頻繁に加えることができたからだ。絶対に取り戻されてはいけない場所であったのだが、それもセイレネスの登場によってあっさりと奪還されてしまった。
ある種勝利の象徴とも言えるオウェングスがたったの数日の作戦で奪還されてしまったことは、アーシュオン首脳部に大きな衝撃を与えた。しかし半年経過したアーシュオンの国民たちは、その事実を――公式には――知らないでいる。アーシュオン軍部の隠蔽工作の成果である。
しかし、この超高度情報化社会に於いて、隠し続けられる秘密など存在しないということも、アーシュオンの上層部は身を以て知っていた。よって、アーシュオンは圧倒的な逆襲によってオウェングスを取り返す必要に迫られた。再度占領した上で、それらしい脚色をつけて大々的に発表すれば良い――上層部はそのように考えた。
「……ってことなんだろうけどさ」
ヴェーラは戦艦メルポメネのコア連結室の闇の中で呟いた。セイレネスにはすでにログオンしている。時々オレンジや緑の光が、ヴェーラを包み込む闇を穿つ。
『敵潜水艦艦隊、第七艦隊によって殲滅』
「見えてるよ、ベッキー」
レベッカの短い報告にヴェーラは億劫そうに応えた。二人の戦艦、メルポメネとエラトーは、オウェングスから三百キロ離れた海域にぽつんと浮かんでいた。クロフォード准将に率いられた第七艦隊を始めとするヤーグベルテ海軍は、押し寄せるアーシュオンの三個艦隊の迎撃にあたっている。時刻は黄昏――空が金色から濃紺に変わっていく頃合いだ。
「ひどい戦いだね、これは」
文字通りの泥沼だった。お互いを磨り潰し合うような砲雷撃戦が繰り広げられ、艦載機は双方ともに全出し状態だった。空を埋め尽くす航空機の群れが空域をバラバラに切り取っては砕いていく。アーシュオンの攻撃機の中には、ヤーグベルテ艦船に体当りするような者すら出ていた。
『せめてクロフォード准将に指揮権があれば』
「確かに、こんな惨めで狂った戦いにはならなかっただろうね」
ヴェーラは小さく舌打ちする。そこにあるのは数千人分の無駄な死だった。前線から遠く離れた参謀部によって出された杜撰な指示と、それに諾々と従うだけの前線司令部が組み合わさったことによって生み出された、単なる死だった。海軍と空軍の勢力争いの産物とも言える。
『ヴェーラ、私たちはこのまま待機なのかしら』
「命令が出るまではね」
ヴェーラの言葉には感情がほとんど見えなかった――セイレネスを通してでさえ。レベッカは息を飲み、そのまま沈黙する。
「クラゲが出てきたら前に出る。それまでは待機。基本的にはこの作戦、カティたちにお任せだよ」
『わかっているわ、でも――』
「そういう命令なんだ。感情は不要だよ、ベッキー」
『ヴェーラ、でも』
「無駄話はよそうよ」
ヴェーラはゆっくりと息を吐いた。ヴェーラには無数の照準円が見えている。水平線のはるか彼方。手を出そうと思えばできる距離だ。しかし、この作戦に於いて主導権を取ったのは空軍だった。だから今は何をすることもできない。
「わたしたちは見ていることしかできないんだ。最前線で必死な味方を、敵を。だったら、目を逸らさずに見ているのが、わたしたちの責務なんだ」
わたしは、逃げない。目を、逸らさない。
ヴェーラは一欠片の迷いもなく、そう言い切った。その静かな剣幕を受けて、レベッカは沈黙する。
その時、二人の脳内を鋭い音が走り抜けた。
「インターセプタ!」
ヴェーラの意識の中に、イスランシオのF108+ISが映し出される。その後ろにはナイトゴーントが数十機も続いている。今まで見たことのないくらいの数だった。どこからともなく現れたそれらの機体は、たちまちの内に空域を制圧するべくヤーグベルテの航空機を駆逐し始める。
「カティ、だいじょうぶ?」
『誰に言ってる?』
思わず声を掛けたヴェーラに、カティが即答してくる。カティの機体も、他のエウロス飛行隊員とともに、すでに空にあった。
インターセプタやナイトゴーントたちが空域を荒らし始めて五分もしない内に、エウロスのジギタリス隊が到着した。次いでナルキッソス隊、本隊であるところのエンプレス隊。その後もパースリー隊、ローズマリー隊、セージ隊と続いた。総数五十を超えるエウロス飛行隊は、完全に敗走ムードに陥っていたヤーグベルテ空軍の勢いを盛り返させた。
エウロスが加わってもなお、未だ圧倒的優勢とは言えない。しかし、各部隊の隊長機を中心に搭載された、オルペウス・デバイスは地味ながらも堅実に効果を発揮していた。オルペウス搭載機からの攻撃を受ければ、ナイトゴーントはほとんど確実に火を噴いた。
「気になるのはヤツだ」
ヴェーラは空域を俯瞰しながら呟く。
薄紫の戦闘機、F108+IS。
カティの真紅の戦闘機が、混迷を極める空域を切り裂いて飛んでいく。
空の女帝と異次元の手が、今まさに激突しようとしていた。